最終話 光

 深い穴の底にいるような暗黒が、今僕の目に見えている世界だった。

 だけど不思議な事にここは冷たくなかった。むしろ暖かさを感じるほどだった。

 意識は微睡んでいて、今の状況も何もかももよく考える事ができない。

 けれど遠くの方で、誰かの声が聞こえてくる。それは泣き声のようだった。何処かで聞いた事のある声だった。

 その声の主は、多分、必死に僕を呼んでいるんだと思う。思考をしてくれない役立たずの頭脳だけれど、なぜだかそれだけは分かるのだ。

 ああ、だけど、僕はその声に応える事が出来なかった。体中がまるで重たい泥の中に浸かっているようで、腕をを動かす事も、声を上げる事すら叶わない。自分の身体ではないみたいだった。

 それでも僕は、その声に応えてあげたいと思った。だってあんなに必死なんだ。きちんと聞こえているんだって事ぐらいは教えてあげたかった。

 そうして、暗黒がほんの少しだけ晴れていく。僕の願いが届いたのかもしれない。

 そこにいたのは、凛だった。言わずと知れた僕の義理の妹だ。どれだけ希少な宝石だって、彼女の前では無価値に等しい。僕の命よりも大切な義妹。

 凛は子供みたいに泣きじゃくりながら、僕の身体に縋っている。

「兄さん! 兄さん! 兄さん!」

 何を泣いているんだ、僕は大丈夫だ。そう言ってやりたかった。しかし僕の意思とは裏腹に、口は動いてくれない。頭を撫でてやりたくとも、この腕は一寸たりとも動かない。

 これはきっと罰なんだと思った。僕は凛を裏切ったのだから、当然の報いなのだった。

 そうして、また抗えないほど強い眠気が襲ってきて、僕の視界は再び暗黒に支配されてしまうのだった。


 次に目が覚めたとき、目に入ってきた光景は、真っ白な天井だった。

 白いベッドの上に寝かされている僕のお腹に重みがある。僕は顎を引いて視線を向かわせた。車いすに乗った凛が、僕のお腹を枕代わりにすやすやと寝入っている。

 状況がよく分からなかった。視線をさまよわせるとここは病室のようだ。しかしどうして凛がいるのだろうか。僕は凛に嫌われているはずだというのに。

 そもそも僕はどうしたというのだろうか。僕は記憶の糸を手繰った。そうだ、僕はアドバンスレースに参加していたのだ。しかし右腕一本で匍匐前進をしていたことは覚えているのだが、そこから先のことをよく覚えていない。

 どちらにしろ、僕が生きてここにいるということは、つまり完走を果たす事ができたということなのだろう。だけどそれは、本当の事なのだろうか。実際には、今までのは夢で、これから最期のレースが始まろうとしているという月並みなオチがついているのかもしれない。何しろ、両手両足とも僕の身体についているし、視界も広くなっているのだから。

 すやすやと眠っている凛を何気なく眺めた僕は、頭を久しぶりに撫でてやりたい誘惑に駆られた。どうせもう凛には嫌われている。それなら眠っている今がチャンスなのだ。だから僕は凛に向けて右手を伸ばした。そうしたら、

「洋」

 と、声をかけられた。顔を向けると、真由美が部屋の入り口近くに立っている。

「真由美」

 名前を呼ぶと、真由美はゆっくりと近づいてきて、抑えた声で言う。

「凛ちゃんはほとんど寝ずに洋の看病をしていたんだ。無理するなって何度も言ったのに聞かなくてね。ついさっきようやく寝付いた所だったんだよ。だから寝かせてあげてよ、洋」

 ますますよく分からない。どうしてここまで凛は僕に尽くしてくれているんだろうか。

「なあ、どうして?」

 僕は凛に目配せをしながら尋ねた。

「ああ。それはね……、いや、これは凛ちゃんの口から直接聞いた方が良いと思うな。だから起きるまで待っている事だね。それから、これは本当は最初にしたかったんだけれど」

 不意に、真由美は僕を抱きしめてきた。柔らかな感触に包み込まれた僕は、女の子特有の甘い匂いを嗅いだ。同時に顔が熱くなるのを感じた。

「完走、おめでとう」

 耳元でそう呟いた真由美は、紅潮した顔を隠そうとせずにぱっと僕から離れた。

「……ありがとう。やっぱり僕は完走する事ができたんだな」

「実感、ない?」

「うん。何だか夢物語を見ていた気分だよ」

「無理もないよ」と、真由美は笑う。「なんせ、丸三日も君は寝ていたんだからね」

「え?」

「君が右腕以外なくなっている状態で運び込まれるのを見た時は、さすがに肝を冷やしたよ。所沢先生も、もしもの時の覚悟をしておくようにって言うから、余計、気が気じゃなかった」

 その時の様子を思い出したのか、真由美の視線が下がった。

「うん……ごめん」

 真由美にそんな顔をさせたのは紛れもなく僕である。途端、罪悪感が沸き起こって、僕は思わず頭を下げた。

「謝らないでよ。そもそも謝るぐらいなら、しないでよ。こんな、こんな心配させるような事をさ」

 怒気を含んだ声で真由美は言った。指で目元を擦っている。僕は何も出来なかった。

「だけど洋は帰ってきた。それだけで、私には十分なんだよ」そう続けた真由美は背中を向ける。「それじゃあ、まだまだ言いたい事は本当にたくさんあるんだけれど、凛ちゃんが起きてしまうといけないからね。私はそろそろ行かせてもらうよ」

「ああ、分かった」

 真由美は微笑を浮かべて部屋から出て行った。

 扉がそっと閉まると、部屋の中の静けさが増した。そのせいなのかどうか、凛の寝息が妙に心地よく聞こえてくるから不思議だった。

 僕は凛の寝顔をぼんやりと眺めながら、寝息のリズムに耳を傾けた。

 

 ぴくん。

 凛の身体が一瞬震えた。それから目を開けて身体を起こしてぼうとしている。僕の事はまだ目に入っていないようだった。そんな様子も見ていて飽きないのだが、いつまでも気がつかれないのも癪だ。

「凛」

 と、僕は声をかけてやる。再び凛の身体が、ぴくん、と震えた。そうして、僕の方へと恐る恐る顔を向ける。

「兄……さん?」

 目を見開いた凛は、半信半疑な声音で僕を呼ぶ。もしかしたら、夢なのか現実なのか疑っているのかもしれない。

「おはよう、凛。よく眠れたか?」

 僕は飛び切りの笑顔を作って言った。

 目に一杯の涙を溜め込んだ凛は、勢い込んで立ち上がり、おぼつかない足取りで僕の方へ一歩を踏み出した。

「きゃっ」

 しかし凛は小さな悲鳴を上げて、すぐに足をもつれさせて倒れてきたのだった。僕は咄嗟に機械の両腕で凛を抱きとめた。反射的な行動だった。考えてはいなかった。けれど僕は、凛が僕の両腕を振り払って怒りの声を投げつける姿を想像してしまう。何しろ凛の嫌いな機械の腕で抱きとめたのだ。嫌がられても当然の結果に違いなかった。

 だけれども、凛は嫌いなはずの機械の腕を、むしろ細い手で掴んできたのだ。そうして、目に溜めていた涙を一挙に溢れさせた。

「兄……さん……兄……さん……兄……さん」

 うわ言のように何度も呟く凛は、その大きな瞳でまっすぐに僕の目を射抜く。それは、とても誰かを嫌っているような瞳に見えなかった。

「怖かった。兄さんが死んじゃうんじゃないかって思うと……怖くて怖くて……」

 凛の身体は小刻みに震えていた。

「凛……どうして」

 僕には分からなかった。僕は裏切り者のはずだった。なのに凛は、涙を流しながら僕を呼ぶのを止めない。

「真由美さんに、聞いたの。兄さんがアドバンスレースに出場してるって。機械化をしたのはそのせいだって。それから、機械化を勧めたのは真由美さんだってことも……」

「そうか。聞いたのか……」

「うん」

「けど、僕が機械化をしたのは事実だよ。僕は凛の裏切り者なんだ」

「でも、兄さんは私のためにそうなって……。そう思うと、私、私……」

 凛は泣き声をあげた。その切ない声は、僕の胸を次から次へと串刺しにしていく。僕は、思わず右手を上げた。頭を撫でてやろうと思った。だけど僕は躊躇する。裏切り者と呼ばれた時の罪悪感が、僕の行動を止める。

「いいよ」と、凛は僕の右手に躊躇なく触れる。「撫でて。ううん。撫でて欲しい、この手で」

「凛……」

 僕は凛に導かれるまま凛の頭に触れた。機械の手では柔らかな感触が伝わって来ない。凛を見ると、僕を見ている。僕は凛の頭を撫でた。力を最大限まで抜き払った。

 僕のごつごつとした鉄の手の平は、凛にどのような感触を与えているのだろう。痛くないだろうか。嫌悪感を与えていないだろうか。

「やっぱり、兄さんの手、好き」

 と、赤らめた顔を見せて、凛は言った。

「だけど凛。この手は、お前の嫌いな機械の手なんだ」

「うん。でもね、この手は好き。堅くて、痛くて、冷たくて、ぜんぜん心地よくないけど、でも、好きだよ。だってこの手のおかげで、兄さんは生き延びる事ができたんだもの」

 凛は涙をこぼしながら言い、僕の右手を両手で握りしめた。それから凛は、自分の頬まで僕の手を持ってきて、愛おしそうに当てる。

 だけどな、凛。この手は、お前の柔らかい感触も、暖かな体温も、何一つも感じさせてくれやしないんだ。

 凛が機械化を嫌っている理由の事はよく分からない。だけど僕は、機械化を嫌う凛の気持ちが分からないでもなかった。もしも生身の手なら、ほんの少しの感触で、凛の存在を感じられるはずだった。だけど機械の手ではそれは叶わない。それは空虚でしかなかった。

 けれど、そうしたことを伝える事はできなかった。凛の幸せそうな表情を見てしまえば、どんな言葉だって消え失せてしまうのだ。

「ごめんなさい。兄さん。私、最低な事、言った。嫌われても仕方ない事なのに。なのに、兄さんはこんな身体になってまで……」凛はうつむいて、ぽろぽろと涙を白いベッドの上に落としながら言う。「どう謝罪すればいいのか、分からないよ」

「……十分だよ。兄妹なんだからさ」

 と、僕は言った。

 それから凛はたくさん話をした。最期のレース終えた直後の僕の身体を見て、生きた心地がしなかったと言った。右手以外の手足や他の悪い所も機械化にしようと真っ先に提言したのは凛で、所沢も家族の許可ならばと迅速に処置を施したのだそうだった。

 そんな風に話をしていると、凛は話し疲れたのか眠ってしまった。僕は凛をベッドの上に寝かしつけてやると、側にあった白い丸椅子に腰掛けたのだった。


 コンコン、と、ドアをノックする音が聞こえた。

「どうぞ」

 そう僕が促すと、ゆっくりとドアが開く。入ってきたのは所沢だ。所沢は僕を見るなり目を丸くして、

「もう歩けるのか」

 と言った。

 僕は人差し指を立てて、静かにと言うジェスチャーを行い、ベッドの上で眠る凛に視線を送った。

「少し出ようか」

 すぐに状況を察した所沢は、抑えた声で提案した。もちろん僕は素直に提案に乗る。

 案内された場所は、リハビリを行う部屋だった。

 所沢に「部屋を一周だけ歩いてみろ」と言われた僕は、壁に沿ってゆったりと歩いた。横目で所沢の様子を見てみれば、どうやら僕の動き方を観察しているようだった。

 やがて一周を歩き終えると、所沢は満足そうに頷いた。

「ふむ。普通に歩けるんだな。これならリハビリは必要ないようだ」

「本当ですか? それは良かった。あれ、結構面倒なんですよね」

 所沢は苦笑した。

「しかし驚いたよ。普通、機械化した部分を別の機械に取り替えても、すぐに元のように扱える事はないんだがな」

「こう何度も機械化をしていれば、さすがに身体の方も慣れたんじゃないんですか?」

「うーん。そういう問題でもないと思うんだが。……まあ、いい。それよりもこれからのことだ。リミッターはどうする?」

「……そうですね。もう、僕には機械の力の全てを出し切る必要はないんですよね。……リミッターは切らないでください」

「わかった。じゃあ右腕の方は今、切られている状態だから、再度入れ直そう。右腕を出してくれ」

 右腕を出すと、所沢はリミッターを入れるべく、右手の人差し指からドライバーを出してカチャカチャといじり始めた。

 作業を見守っている僕に対し、所沢は口を開く。

「君は、君の妹のためにレースに参加したんだね?」

「はい」

「ふむ。あの子はとてもいい子だな。君の事をずっと看病していたよ。それこそ寝ずにね。これからも大切にしてあげるんだ。まあ、あの子のために命を賭けられるんだ。今更な話だがね」

「そんなことはないですよ。肝に銘じておきます」

「うん、そうだな。それがいい。ところで一つだけ聞きたい事があるんだが」

「なんでしょう?」

「後進のために、アドバンスレースをクリアするためのコツを教えてくれ」

 にやり、と所沢は笑った。

「……もがいて、あがいて、がむしゃらになることです」

 と、僕は言った。


 家に帰ってからは大変だった。何しろやらなければならないことがたくさんあるからだ。役所への届け出、引っ越しの準備、色々な所への挨拶回り。

 以前働いていた会社に行った時は、僕の変わり果てた姿を見たかつての同僚や社長が目を白黒させてしまった。さらにアドバンスレースをクリアして、グラウンドシティに行く事が決まった事を伝えると、信じられない表情を隠しきれないでいた。

 無理もない事だと思う。僕だって知り合いがグラウンドシティに行く事になったら、同じような反応をするに決まっている。

 それでも社長は、最後に「がんばれよ」と激励し、同僚たちが拍手で送り出してくれた。

 本当に暖かい職場だった。

 後ろ髪に引かれながらも家に戻った僕は、緊張しながら人を待った。待ち人は約束の時刻ちょうどに来た。レイニーである。

「クリア、したんだな」

 と、レイニーは玄関に入るなり言った。

「ああ」

 と僕は頷く。

「おめでとう」

 素直な讃辞に、僕は「ありがとう」と返した。

 しかし会話は続かない。

 と言うのも、僕はまだレイニーが行った事を許せてはいないからだ。それでも会う事を決めたのは、レイニーは僕らの人生に大きく関わっているからと、何よりも凛がレイニーと話をしたいと熱望をしたからだった。だから僕はレイニーを家にあげて凛の部屋に案内する。

 その途中で、

「なあ、本当に良いのか?」

 凛ちゃんと会っても、とレイニーは不安そうに聞いた。

「凛が、それを望んだんだ」

 僕自身も、心配だった。それでも凛が自ら決めた事だった。

 凛の部屋の前で、僕はたたらを踏んだ。ノックをするべきなのだが、手を動かす事を躊躇していた。

「あの事、凛は知っているのか」

 テロを起こし、真由美を巻き込んでしまった事だろう。

「いや……教えていない」

 もしも知っていたのなら、凛はレイニーと会うことはなかったに違いない。

 僕は意を決して、扉を三度ノックした。

「どうぞ」

 緊張を孕んだ細い声が、中から聞こえてきた。僕は扉を開けて、レイニーを中に入れた。

「兄さんも、一緒に聞いて欲しい」

 と、凛は言った。僕も中に入った。

 凛はベッドの上に座っている。

 誰も何も言わない。無言の時間が過ぎていく。

「レイニーさん」凛は、恐る恐る口火を切った。「あの時は、すみませんでした」

 そうして、深々と頭を下げる。

 レイニーは、突然の事に狼狽する。謝罪の言葉を聞かされるとは、思っても見なかったのだろう。

「酷い事を言いました。あなたは私に好意を持ってくれたのに、それを全て否定するような事を言いました。今でも機械化は好きではないですが、許されるような事を言ったとは思えません。許して欲しいとも思いません。ただ、もう知っているとは思いますが、私たちはグラウンドシティに行きます。兄さんが私のために自分の身体を犠牲にしてまで掴んだ未来です。だから、これだけはどうしても言いたくて、今回はお呼びいたしました」

「あれから」レイニーは考える素振りを見せてから言う。「あれから、君に言われた事を考えたよ。自分の身体は親から受け継いだもの。確かにその通りだと思う。俺の身体は俺だけのものじゃないんだな。親が俺にこの身体を授けてくれたんだ。なのに俺はファッションのために身体を変えた。何よりも家族を大事にしている君にとって、それは許しがたい行為だった。君が怒るのも無理のない事だったと思う。軽率なことだったよ」

 二人の会話を聞きながら、僕はようやく凛が機械化を嫌っていた理由を理解する事が出来た。凛にとって家族はかけがえのないものだった。義理の父、それから僕のことも大切に考えていることはよく伝わってくる。それから、凛の実の両親の事だ。話には聞いていた。凛はとても愛されて育てられた様子だった。なのに早々に亡くなってしまった事は、凛の心に対してどれほどの痛手だった事であろうか。

「凛ちゃん。一つだけ、聞かせてくれ。もしも機械化をしていなかったら、君は俺の告白を受けていたのか?」

「いいえ」凛は首を横に振って否定した。「しなかったと思います」

「そっか。ま、仕方ないな。こんな身体になってまで凛ちゃんに尽くす馬鹿な兄貴がいるんだからな」

「そうですね。おかげで私もブラコンになってしまいました」

 平然とした様子で、凛は言うのだった。


 今日はグラウンドシティに行く日だ。

 初めて知った事だが、アドバンスレースの会場がグラウンドシティと繋がっているそうである。だから僕と凛はここに来ていた。見送りのために真由美も来ている。

 案内してもらえる人は、レースでも受付をしてくれていたポニーテールの女性だった。

「あなたが阿藤さんが言っていた助けたい人なんですね。初めまして」

 彼女は車椅子に座っている凛に向かってそう言った。いつもの事務的な顔つきではなく、表情が柔らかかった。

「……はじめまして」

 対して、凛はむくれて言った。我が妹ながら何が気に入らないのかよく分からない。

「では、阿藤さん。準備はよろしいですか?」

「はい」

 と、僕は応える。

 こちらへ、と案内されたのはいつもの部屋だ。扉は閉まっている。

「このエレベーターが止まりましたら、チンと音がして扉が開きます。そうしたら、通路をまっすぐ歩いてください。そこから先は係の者がおりますので、その者の説明を受け、案内に従ってもらいますようお願いいたします」

「分かりました」

「これからの未来に、ますますのご活躍を願っております。それではいってらっしゃいませ」

 そう言って、彼女は一礼をする。

 僕は真由美の顔を見た。今にも泣き出しそうな顔。けれど笑っているようにも見える不思議な表情だった。

「洋」と、真由美が言った。「それから凛ちゃん。これでお別れだね。寂しくなるよ、本当に」

「真由美さん。真由美さんなら、きっと、いつかグラウンドシティに行ける日が来ると思っています」

「うん。ありがとう。嬉しいよ」

「僕もそう思うよ。真由美なら、きっと行ける」

「あは。すごいや。二人に言われると、本当にそんな気がしてくるよ」

 真由美は口角をあげた。だけどその両目の端から大きな涙が零れて落ちていく。

「絶対、そうですよ、真由美さん。私と兄さんが言うから間違いじゃないです。絶対なんです」

「そっか。じゃあ待っててよ、二人とも。少しだけがんばってみるよ」

「ああ、待ってるよ、僕と凛とで。いつまでも」

「私も待ってます。約束です」

 凛は右手の小指を差し出した。真由美は少し躊躇しながらも、同じように小指を差し出して凛の指と絡める。

「……うん。約束だ」

 そう言う真由美の声は、涙声となっていた。

「じゃあ、先に行ってくるよ」

「行ってきます」

「ああ、さよならだ」

 と、真由美は言った。

 扉を開き、中へと入る。振り返ると真由美が泣きながら手を振っている。凛も涙を流しながら手を振り返す。僕はゆっくりと扉を閉めていく。僕の目からも涙が落ちていく。しかし僕は真由美の顔を見続けた。凛もきっとそうに違いない。僕らは今日の事を決して忘れる事はないだろう。

 扉を閉め切り、車椅子を押しながら進む。レースで散々お世話になったソファーが置かれている。

 僕は凛の脇に手をくぐらせて持ち上げた。軽い体重。これが凛の命。

「ちょ、兄さん、なにするの」

 未だに泣きながらも、凛は抗議の声を上げた。僕は無視してソファーへ座らせる。続いて僕も凛の隣へと腰掛けた。

「凄いだろ、このソファー」

 少し自慢げに、僕は言った。

「うん。すごく、気持ちいい。こんなの初めて」

 感激した様子で、凛は言った。

「だろう? このソファーと同じのをさ、向こうで一緒に探して、買おうよ」

「そうだね。良いアイデアだと思う」

 しばらくして、チン、と音が鳴った。扉が開く。暗い通路が続いて、白い四角が遠くの方に見える。あの先にグラウンドシティが広がっているのだろう。

「行こうか」

「……うん」

 僕は凛を持ち上げて、車椅子に戻した。一歩を踏み出すと、からりと小さく車椅子が音を立てる。

 期待と不安が僕の胸の中で渦巻いている。聞いた事のある全ての噂話がでたらめな可能性だってある。十分な検証なんてしていないから、殆ど賭けのようなものなのだ。

 もしも凛の病気を治すことができなかったら? そう考えると気が気でない。だけど僕らに残された道は一つだけだった。進むか止まるか。たった二つだけの選択肢。

「ねえ、兄さん」

 と呼ぶ声に反応して、僕は顔を下に向けた。凛が僕を見上げている。視線と視線が交じり合う。

「音楽を、聞きたいな」

 驚いた。凛が自分から音楽について話す事は、久しくなかった事だったから。

 僕はすぐに携帯端末を起動させた。どの曲を聴きたい? そんな質問をする必要はなかった。こんな時に聞く音楽は、たった一つしか思いつかなかった。

「さすが兄さん。分かってる」

 僕が選択した音楽が流れ始めると、凛は嬉しそうに笑った。

 曲名は、もちろんリリー・シュナイゼルの『出発』だ。

 今抱いている希望と不安を、きっとこの時のリリー・シュナイゼルも抱いていたに違いない。

 美しく、儚く、けれど力強い歌声を聴きながら、僕らは歩みを進めていく。

 直線を半分ほどまで来た所で、

「ねえ、兄さん」

 と再び僕を呼ぶ声が聞こえてきた。目線を下げると、凛は僕を見ていなかった。凛の瞳は、前方の光にまっすぐ向けられている。

「私、やっぱり音楽が好き」

 と、凛は言った。

「ああ、知ってるよ」

 どれだけ音楽を嫌う振りをしていても、あるいは嫌おうとしていても、凛は結局音楽を嫌いにはなれないのだ。僕と凛が兄妹であるように、音楽と凛は、切っても切り離せない。

「でなきゃ、音楽を残しているわけないもんな」

 兄貴を舐めるな、と僕は言った。

「……うん。それでね、私、決めたの」

 何を、とは聞かなかった。僕は黙って足を動かす。凛が話し始めるのを待つ。

「向こうに行ったら、まずはがんばってこの病気を治す。その事だけに専念する」

 うん、と僕は相づちを打った。

「治したら、今度は歌う。たくさん歌う。そして」

 サビが始まった。もうすぐ出口だった。僕は足を止める。凛は黙っている。

 二人でじっと聞き入っていた。寂しげな曲調。透明感のある力強い歌声。未来への決意を抱く歌詞。

 やがてサビが終わると、心の中にじっくりと染み渡っていくような静かなメロディが流れ始めた。

 凛はそのタイミングを待っていたかのように口を開いて、

「そして、私は歌手になる」

と言った。

「そう言うと思っていたよ」

「でも、私、もしかしたら前みたいに歌えないかもしれないんだよ。兄さんが好きだった私の歌とは、全く変わってしまっているかもしれないんだよ」

 それでも応援してくれるの? と凛は不安そうな声音で尋ねた。

「もちろん」と僕は言い切った。「凛の歌なら、どんな歌だって大好物だよ」

 くすりと凛は笑う。

「ありがとう」

 同時に曲が終わった。心地よい静寂が僕らを祝福しているようだった。

 僕は歩みを再開させた。もはや二人の間に言葉はなかった。

 光が目の前に差し迫っている。

 僕は躊躇した。この光の向こう側に、一体どんな場所が広がっているのか、全く想像する事が出来なかった。

「行こう、兄さん」

 迷いなく言う声が下から聞こえ、僕は思わず顔を向けた。凛が僕を見上げていて、その細い手で、車椅子の取っ手を握る僕の両手に触れている。いつからそうしていたのかは分からなかった。

「ああ」

 僕は車椅子を押して、前へ進む。

 真っ白な光が僕らを包む。あまりに眩しくて、僕は思わず目を細める。

 そうして。

 僕らは光の向こう側へ。

 さらなる前へ。

 進んだ。

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