第八話 ラストステージ
僕は鉄屑だらけの広場に寝泊まりしていた。ホームレスみたいだと僕は自嘲する。だけどこの場所は、僕にとってふさわしい場所である。実の両親に捨てられ、凛にも捨てられた僕にとって、僕は鉄屑なのだ。けれど鉄屑は、何かに再利用される事がある。
もっとも、僕が役に立つのかどうかはまだ分からない。最後のレースを完走できなければ、僕は廃棄処分だ。
今日はその運命が決まる日である。僕はゆっくりと、噛み締めるように歩き出す。
これでこの町も見納めだな。そう思えばこそ、やはり感慨深いものがある。
町の中を見ながら、凛の事を想う。真由美は僕の所に来たがっている様子だったが、凛の側にいてもらった。僕がいない間、凛の世話をしてもらっていたのも真由美だった。本当に真由美には頭が上がらない。
真由美としては、もう一度凛と僕とでよく話し合って、仲直りをしてもらいたいようだった。そんな内容のメールが、携帯端末の方に毎日のように送られてきていた。もちろん、僕は断った。凛と仲直りするというのは、堪え難い誘惑であったけれども、そんなことが許される訳がないのだ。僕は、凛を裏切ったのだから。
いつもの幅広で長い階段を踏み締める。一段一段じっくりと。
真由美から告白を受けた日が、もうずいぶんと昔のように感じる。
僕は酷い事をしていると思う。真由美の好意を切り捨て、凛を裏切った。グラウンドシティに行ける事になったとしても、凛は喜んでくれるだろうか。あれだけ好きだった音楽を、もう一度続けてくれるんだろうか。
分からない。すでに音楽の事が、本当に嫌いになっているのかもしれない。二度と凛は、笑わないのかもしれない。
それでも構わない、と思う。
凛が笑わなくなったら、僕はとても悲しい。だけどそれ以上に、凛には生きていて欲しかった。それはどんな形でも良かった。音楽から一生離れていてもいいし、僕が側にいなくてもいいのだ。だから、もしも凛がグラウンドシティに行く事を断っても、僕は強引に凛を連れて行くと決めている。例え、僕が今以上に嫌われてもだ。そうして病院に無理矢理にでも連れて行き、治療を受けさせてやる。治りさえすれば、僕はすぐにでも凛から離れよう。それから、お金を送り続けてもいい。凛だってすぐに働くのは難しいだろうから。もっとも、僕からのお金を素直に受け取るとは思わないけれど、そこは何とかしよう。それから、凛の仕事が見つかって、生活がある程度安定したようならば、今度こそ僕は離れようと思う。欲を言えば、僕なんかよりもいい人を早く見つけて、幸せになって欲しいと願っている。
だけれども、この僕の願いは、凛の意思を少しも反映していないものに違いなかった。僕は僕の希望を凛に押し付けようとしているのだ。自分の自己満足のために。
全く、僕は自分が思っているよりもエゴイストだったらしい。
階段を上りきり、扉をくぐって、受付に向かった。いつものポニーテールの女性が無愛想に僕を見ている。
確認をすませる。これまたいつもの何の潤いもないやり取りだった。しかし、奥に行こうとしたら、珍しいことに声をかけられたのである。
「すみません。……一つだけ、聞いてもいいですか?」
彼女は、申し訳なさそうな様子だった。いつものような無表情ではなかった。だから僕は少し驚きながら、
「いいですよ」
と、快諾した。
「あなたはどうしてそんな身体になってまで、レースを続けられるんですか? だって、痛いんでしょう? 苦しいんでしょう? なのに、どうして?」
彼女は本当に疑問に思っているようだった。それから切羽詰まっているようにも見えた。なぜかは分からないけれど、きっと彼女にとってそれは、今、聞かなければならないことだったのだろう。
「助けたい人が、いるから」
僕は笑みを浮かべて即答した。彼女は、虚をつかれたような顔になった。それから考える素振りを見せてから、
「頑張ってください」
と、彼女は言った。
「ありがとう」
僕はそう言って進んだ。
座り心地のいいソファーから立ち上がる。指先で軽く触れた扉が開く。眼前に広がる右曲がりの通路へ足を踏み出す。
これで最後だ。
心は平静だった。体調も万全。機械の両腕と右足の調子もいい。
恐怖はもちろんある。この先にどんな罠が待っているのか。僕は果たして無事にレースをクリアできるのか。考えれば考えるほど不安が募っていく。だけど恐怖は必要だった。恐怖がなければ、その分警戒心が薄れてしまう。罠にはまり、レースをクリアできない事、それだけが唯一絶対に避けなければならない事態だった。だからこそ恐怖は必要なのである。
しばらく歩を進めると、音が聞こえてきた。
いつものかちんという音ではない。きゅらきゅらという連続した音だった。そうしてそれは徐々に大きくなっていく。
何かが近づいてきている。だが、何が?
僕は右手でヒートナイフを構え、電源を入れる。
カーブの先から現れたのは、キャタピラで動くロボットだった。上半身は人に似ている。頭部は半球体で、レンズがあるのが分かる。胴体は円柱で、腕に当たる部分には筒が取り付けられている。それは砲塔にしか見えなかった。
ロボットのレンズが、僕を捉えた。キャタピラが動いて向きを変える。狙いは無論僕だ。
僕は右足の機能を発動した。僕の右足には、踵と、膝の箇所にブースターが取り付けられている。その両方のブースーターを一度だけ発火。爆発音とともに凄まじい勢いで僕は前へ飛び出す。ロボットを通過するタイミングに合わせてヒートナイフを振るった。
確かな手応えを感じながら着地し、すぐさま後ろを振り返る。ロボットの右腕の砲塔が真ん中の所で寸断されていた。と、ここでようやくロボットの左腕から発射音。しかし砲塔から真反対の位置にいる僕は確認する事なくさらなる追撃を行う。左腕を全力で突き出す。ロボットの胴体に直撃。折れ曲がる。しかし、それでもロボットは稼働する。キャタピラが回転し、僕に照準しようとしている。
遅い。
僕はヒートナイフを横に振った。胴体が浅く切断される。回線は切れていない。なおもキャタピラが動く。ならばと同じ切断口をもう一度斬りつける。今度こそ回線を確実に切断。それでロボットは動かなくなった。
上々の滑り出しに満足しながら、僕は息を整える。
ブースターを実戦でミスなく使えた事は大きかった。何しろ重心を上手く捉える事が出来なければ、くるくると回転したり、あらぬ方向に飛んでいってしまったりしてしまう代物なのだ。リハビリの時はそれで苦労した。何しろ目が回って吐く事もあったのだ。癖の強いじゃじゃ馬だけれど、上手く使いこなせばこの上ない武器となる。欠点は使用時間に制限がある事だ。燃料が切れれば使えなくなってしまう。だから慎重に使うべきだった。始まってすぐ使用したのは時期尚早かもしれないが、早いうちから実戦で試しておきたかったのだ。
またもキャタピラの音が近づいてくる。それも複数だ。僕は再度身構える。
やがて現れたロボットには、先端に鋭い刃物が装着された二本の細長い腕を持っていた。そのロボットは等間隔に間を空けて、何体も後ろに続いている。
僕は一気に駆け寄る。下から上へとナイフを振るう。狙うはカメラだ。だがロボットは右の刃をふり振り下ろした。ナイフと激突。ヒートナイフはロボットの刃を切り裂けない。舌打ちする暇もなくロボットは空いている左の刃で袈裟懸けに斬りつけてくる。僕は一歩下がって回避する。キャタピラを回転させて距離を詰めるロボットは、さらなる連撃を放ってきた。右と左で交互に斬ってくる。僕はロボットの刃を受けるだけで精一杯だ。攻勢に移る事が出来ない。じりじりとした後退を余儀なくされる。
狭い通路のために二体以上通れないことは唯一の幸いだ。おかげで一対一の状況下で戦える事ができていた。だが、今のままではいずれ僕はやられてしまう。
どうする? ブースターの機動力でロボットをやり過ごすべきか。だがいつまでロボットの列が続いているのか分からない。飛んだ先にロボットの刃が待っていたら笑えない。やり過ごすのに成功してもブースターの燃料が切れたらこの先がより難しくなるに違いない。
ならば倒すしかない。
ロボットが振るう一撃を受け止める。反動を利用して大きく後退。ロボットとの距離が開いた。
ヒートナイフを左手に持ち替えた僕は、右手の指と右腕をまっすぐに伸ばす。すると右の肘裏からスイッチが出る。僕はスイッチを押して右手の機能を発動させる。
指先から肘にかけて螺旋状に刃が突き出た。ドリルである。右手を捻るとドリルは猛烈に回転をし始める。
ドリルは大容量の小型バッテリーに蓄えられた電気で稼働する。制限時間はおよそ36時間だと医者の所沢が言っていた。このステージだけもてばいいのだから、十分すぎる時間だった。
近づいてきたロボットが刃を振るう。僕はドリルと化した右手を突き出す。ロボットの刃と僕のドリルの刃が激しい火花を散らしながら激突する。粉砕したのはロボットの刃だ。そのまま僕は前進。ロボットがもう片方の刃を振るうもそれすら砕く。そうしてドリルがロボットの胴体に接触した。けたたましい音が鳴り響く。胴体が砕けて散った。
だが息つく間もなく次のロボットが迫ってくる。ヒートナイフで防御をしながら右手で突いて砕く。あるいは刃を砕いてヒートナイフで切断する。もしくはロボットを刃ごと砕く。歩みは遅い。だが確実に進んでいく。これでいい。焦る必要はない。失敗したらそれまで。とにかく完走するんだ。もしかしたら僕以外にもラストステージに参加している者がいるのかもしれない。そいつはすでにレースを終えていて完走しているのかもしれない。しかし慌てて失敗しては身も蓋もない。だからタイムを気にしてはいけない。着実に進めばそれだけゴールに近くなる。タイムが足りなくて他の完走者に負けた後の事など考えてもどうしようもない問題だ。だから気にするな。これでいい。これでいいのだ。ゴールする事だけを考えるのだ。
五体目を撃破。六体目も破壊。そうして七体目と相対する。
しかし僕の体勢は整っていなかった。その不意を突かれた。ロボットの刃が僕に迫り来る。思わず後退する僕の足に、六体目の残骸が引っかかる。
転倒してしまった。まともに受け身をとる事も出来ず、軽く頭をぶつけてしまう。ロボットの刃が僕の頭上を通過したのは幸運だが、安堵している暇などない。すぐにもう片方の刃が確実に僕を追っている。背中を床に着けた状態のまま咄嗟にヒートナイフで防ぐが、弾く事も逸らす事も叶わない。鍔迫り合いの格好だ。ロボットの圧力でじりじりと僕は押さえつけられる。そうこうしている内に別の刃の切っ先が僕に狙いをつけた。まずい。僕は上体を浮かして右手を前に突き出すのと同時にドリルを回転させる。ロボットの刃を砕き、ロボットの頭部を撃砕するのに辛くも成功させる。それでようやくロボットの動きが停止した。
起き上がった僕を待っていたのは八体目のロボット。刃が僕の脳天目がけて振り下ろされる。ヒートナイフで防ごうと必死の思いで左腕を掲げた。しかし僕は瞠目する。ロボットの刃が突如として軌道を変えたのだ。狙いは僕の腹である。慌てて身を捻って躱そうとするも脇腹を斬りつけられた。
お馴染みとなってしまった激痛に顔をしかめた僕は、そのまま右手のドリルを回転させて突きを放った。ドリルは見事命中してロボットの胴を破砕する。
さあ、次だ。そう視線を前へ向けるともう何もいなかった。安堵した途端に疲れがどっとやってきたが、同時に斬りつけられた傷がとても痛み、どくどくと血が流れ続けている。またあれをやらなければならないのかと思うとさすがに憂鬱だ。しかしだからと言って傷口を放置し続けてレース中に倒れてしまうわけにはいかない。つまり僕に選択肢は用意されていないのも同然だった。
僕はヒートナイフを傷口にあてがった。じゅううと肉が焼けただれる音と匂いが周囲に充満する。
「ぐうう」
酷く熱く痛い。僕は堪えようとしても獣みたいな呻き声を発してしまう。全く嫌になる痛みだ。それに医者の所沢の事を思い出す。所沢に傷を焼いて塞いだと言うと酷く驚いた顔をして僕を叱ったのだった。
『確かにそれで傷は塞がる。しかしそれによって火傷が出来、それが元で破傷風になって結局は死んでしまうのだ。もちろん君は機械化の事を見越しての事だろうが、何でも怪我をすれば機械化をすればいいと言うのは考えものだ。もっと他の方法を考えるべきだ』
所沢の言い分は確かに正論なのだと思うし、他に手段を用意しようと思えばできるだろう。だがヒートナイフでの処置が一番に手っ取り早いのだった。もちろん時間の事を気にしすぎても良くない事だと思うけれども、それでも全く気にしないのも問題だ。こいつはレースなのだから。じっくり行くべき所は行くべきだが、素早く行う所は素早く行うべきなのである。それにそもそも最初に傷を焼いたときはそんな後先を考えた訳ではなかったのだった。
僕は痛みをこらえながら息を整える。少しばかり体力も回復しているはずだ。僕は先へと進み始めた。
しばらく歩くと広く四角い部屋に出た。入ってきた所以外に通路はない。
僕はヒートナイフを起動させ、ドリルの刃も出し、臨戦体勢となった。
緊張による汗が滲み出てくる中で、周囲を警戒する。
焦れったい。一秒が一分にも一時間にも感じられる。早く来いと願う。神経が磨り減っていく。
やがて一部の床が窓のように開いていき、見覚えのあるロボットが迫り上がってきた。前回のレースで登場した格闘用ロボット、パイソンである。僕の右腕と左腕を機械化にさせた元凶でもあった。
パイソンはゆっくりと近づいてくる。僕は高揚する気分のまま舌なめずりをして待ち構える。
間合いに入った瞬間にパイソンは右腕によるストレートパンチを放った。僕も同様に右腕のドリルを旋回させてパンチを撃つ。激しい火花を散らしながら、僕の右腕とパイソンの右腕が激突する。奇しくも、それは前回と似た状況だった。だが決定的に違うのは、僕の得物だ。
轟音が鳴り響く。鉄の欠片が床に散らばる。砕けたのはパイソンの右腕。ドリルと化した僕の右腕のダメージはないに等しい。さらに右腕の勢いはまだ止まらない。そのままパイソンのカメラを目指す。だが、やはりパイソンのパンチは強烈無比に違いなかった。軌道にわずかなズレが発生したのだ。そのせいで右腕はパイソンの顔にかすりもせずに外れた。
僕は一旦後ろに下がった。さすがというべきだろう。僕はパイソンのカメラも一緒に潰す予定だったのだ。だがいつまでも悔やんでいても仕方がない。何しろ相手はまだ動いているのだ。
再びパイソンが突進してくる。簡単な思考しかできないコンピューターのようだから単純で良い。僕はパンチを躱すと同時にドリルによるカウンターを放つ。今度こそパイソンの頭部に当たった。凄まじい音と共に砕けて停止した。
しかし、今いる部屋に新たな扉が開く様子はない。
まだ終わっていないのだ。その証拠にパイソンが現れた床の扉が再び開いていく。しかも一つだけではなかった。他に三つもの扉が床に出現し開かれる。それらは僕を取り囲むような配置だった。
床が迫り上がり、出てきたのはやはりロボットである。パイソンが一体と、開始始めの通路に出てきたキャタピラのロボットだ。ちなみに刃型が一体、射撃型が二体。射撃型は対角線状に位置している。
厄介なのは射撃型だと僕は即座に判断する。迷っている暇はない。すぐに右足のブースターに火を入れる。
射撃型の一体に一気に肉薄し、あらかじめ回転させておいたドリルで胴体を貫く。相手の破壊に成功したと安堵したのも束の間、ブースターの勢いはすぐには止まらない。僕はそのままの勢いで顔面から壁に激突した。
何たる間抜けか。顔がじんじんと痛み、鼻血も出ている。
間髪入れずに発射音が背後から聞こえた。迂闊。慌てて僕は横に飛び退ける。僕がいた所の壁に杭が刺さる。
さらに発射音。体勢が整っていないままさらに飛ぶ。
だが避けきれない。左足の腿に杭が突き刺さる。
「がああ」
叫んで転がる。それから傷を見る。貫通はしていない。どうやら大腿骨で止まったらしい。おかげで出血が思いのほか少ない。不幸中の幸いだ。しかしそんな幸いは幾つも経験している。もううんざりだ。
もちろん泣き言を言っている場合ではない。すぐに体勢を整える。どうやら杭を装填する時間は少々かかるらしくすぐに撃ってこない。
当然ながら左足に力が入らない。それでも強引に力を入れる。血が少々吹き出すが気にしない。自分の身体の状態を細かく考えても仕方がない。クリアさえできれば死んでも良いのだ。
まずやってきたのは刃型である。無感情に刃を振るってくる。ヒートナイフで受け止めるが左足の踏ん張りが利かない。力に押されるまま尻餅をついてしまう。
「くそ」
思わず悪態をつく。だがそれでロボットが止まってくれる訳がない。さらなる追い打ちを刃型は仕掛ける。ドリルで止めるがしかし回転をさせていなかった。だからすぐに回転させる。ロボットの刃はあっさりと折れた。
刃型の追撃は止まらない。もう片方の刃が僕に迫る。しかも厄介な事に右のドリルでは届かない角度だ。やむなくナイフで対応する。ギリギリと鍔迫り合いをする。ドリルで攻撃しようも当たりそうもない。
硬直状態の隙を突いてパイソンが近づいてくる。さらに射撃型が回り込んで僕を撃とうとしている。鍔迫り合いも分が悪い。
まずい。本当に詰んでしまう。
僕は再度ブースターに着火する。床の上を滑るように凄まじい勢いで左へ飛んだ。その先にはパイソンがいる。だが攻撃を加える余裕はない。パイソンの脇を通り過ぎると今度は壁が待っている。咄嗟に腕で頭を庇う。案の定壁に激突した。
軽い脳震とうを起こしたのか頭がくらくらしている。それでも僕は壁に手をついて立ち上がった。
見れば射撃型が僕を狙っている。咄嗟に左へ移動し、パイソンの身体で射線を隠した。
ジリジリと近づいてくるパイソン、キャタピラの音を響かせながら詰めてくる刃型、僕を狙える位置に回り込もうとする射撃型。
僕は射撃型の射線が上手くパイソンや刃型に隠れるように進んだ。負傷のせいでまともに走れない僕の歩みは酷く遅い。それにこの状態でパンチをしても大した威力にはならないだろう。パンチはまず地面を踏み締めることから始めるからだ。僕は歩いている最中にヒートナイフを右手に持ち替えた。
パイソンの間合いに僕は入る。パイソンは左で僕の顔面に当ててきた。かがんで避ける。それからプースターをほんの一瞬だけ点火し、瞬間的な加速で僕はパイソンに左肩で体当たりをした。びくともしないしとても痛いが予想通りだ。むしろひるまれたり倒れたりされると射撃型の格好の的になってしまう。もちろんそれでは困る。
パイソンは右手を振りかぶって僕の頭を狙う。狙い所はそれぐらいしかないのだから当然だ。僕はドリルを回転させて盾のようにかざした。回転する刃にパイソンの右手が衝突。火花が散って砕けたのはパイソンの右手だ。
キャタピラの音が段々と大きくなってきている。
けれど僕は焦らずに右手の先、つまりヒートナイフの切っ先をパイソンの身体に当てた。力を込めると、回転しているナイフの刃が驚くほど簡単にパイソンの中へと侵入し、ドリルの刃と合わさって中身をぐちゃぐちゃにしていくのが分かる。そうして爆発音がしてパイソンが停止し、もくもくと黒い煙を上げ始めるのだった。
キャタピラの音はさらに大きくなっている。
僕が振り返ると、すぐ前に刃型がいる。ちょうど袈裟切りにしようと刃型が振りかぶった所だった。僕はヒートナイフで受け止めると、背後のパイソンに背中を預ける。これなら踏ん張る必要がない。おかげで尻餅をつかずに防ぐ事が出来た。次に僕はドリルを旋転させてロボットの刃を弾き、右足でパイソンを蹴って一挙に前進した。刃型の懐に飛び込んだ僕は、勢いに乗ったままそのまま猛烈に回転しているヒートナイフで一息に貫いた。
刃型は停止した。だが僕が攻撃した一瞬間の隙を、側面に回り込んでいた射撃型が見逃す訳がなかった。射撃型が射出した杭が、僕の腹に刺さる。僕は衝撃で吹き飛び、床に叩き付けられた。
「ぐ」
どろりとした気持ちの悪い液体が喉元まで逆流した。堪えきれなかった僕は、そのまま床に吐き出す。吐瀉物は血だ。
苦しい。
痛い。
不快だ。
僕は弱音を吐き出しそうになる自分を噛み殺す。
ふざけるな。僕はこのままゴミになるつもりか。鉄屑になるつもりなのか。死ぬのなら、ゴールをしてから死ね。
再び射撃型が杭を放った。しかし僕はパイソンに陰に飛び込んでいる。杭はパイソンの身体に阻まれた。
これで相手は今頃杭を装填している最中のはず。ならばチャンスは今しかない。
ヒートナイフを左手に持ち替えて、右足のブースターを起動する。射撃型に突貫しながらドリルを回転。
だが僕の予想に反し、射撃型が杭を撃ち放つ。僕は勘でヒートナイフを慌ててかざす。杭がナイフに当たる。軌道が変化。左目辺りに衝撃、次いで激痛。僕は歯を食いしばりながらがむしゃらに右手を突き出した。
確かな手応えだった。僕は射撃型の胴体を貫いて、相手諸共倒れ込んでいた。
大きく息を吐きながら、もの言わぬ射撃型から右手を引き抜いて立ち上がる。そして気づく。左半分が見えていなかった。手で触る。機械の手は感触を伝えない。だから右目の前に手の平を開けた。真っ赤な血がのっぺりと付いている。失明しているかもしれなかった。
かちん、と音がした。僕は反射的に身構える。けれど音の正体は罠を知らせるためではなかった。壁の一部が開くことを知らせるためだった。
僕は油断なく周囲に気を配り、痛む左足を引きずるように歩く。壁が開いた箇所を見れば、道がまっすぐに伸びている。
道を歩いていくと、広い円形の部屋に出た。天井は高く、面積も先ほどの部屋の倍以上はある。その部屋の中央に存在しているのは、僕の体躯の二倍はあるロボットなのだった。
ロボットは、まるでアリみたいなデザインだ。身体は三つの球体が連なって出来ている。頭部と思われる球体には、複眼のような丸い何かがぶつぶつと取り付けられている。しかしそれはカメラではなくて、別の用途に使われるのは間違いがなかった。何しろ肝心のカメラは、額にあるからだった。そうして、口に似た黒い開口部があるばかりか、触覚すらある。触覚の先端はトゲが付いている鉄球だ。武器であることは間違いないだろう。真ん中の球体からは六本の節くれ立った足が生えていて、しっぽのような部分には、のこぎりのようなギザギザした刃が付いている。
アリ型というべきだろうか。しかし外見から判断するに、アリとは似ても似つかないほど凶悪なのは疑いようのないのことである。
アリ型は口を開けた。ギザギザの歯、いや、刃が取り付けられている。交互に開閉させて、ガチガチと不気味な音を立てた。それから触覚の鉄球でまっすぐ僕に狙いをつけて一直線に突進してくる。これまで相対してきたロボットのどのタイプよりも速い。
僕は横に飛んで避けた。右足の踏ん張りはやはり頼りなく、激痛とともに身体がよろめく。それでも僕は通過していくアリ型を目で追った。
アリ型は全くスピードを殺さずにカーブして、再び僕を狙って突進してくる。避けるのに精一杯で反撃する隙が見当たらない。しかも足を大けがしている今の現状で、いつまでも避け続けられる自信はなかった。
僕は避けながら思考を巡らせる。どうにか反撃の糸口を掴まなければ殺される。
ドリルを真っ正面からぶつけるか。だがそれは分の悪い賭けだ。それで上手く相手を機能停止できれば良いが、せいぜい一部を壊すのでやっとだろう。むしろ体当たりをまともに食らってこっちが動けなくなる可能性の方が高い。
ヒートナイフで脚を切断するか。上手く切れれば相手の機動力を削ぐ事が出来る。しかし凄まじい速度で動く脚を切るのは至難の業だ。悪くはないが現実的ではない。
ならばと、僕は回避を繰り返しながら壁の方へとじりじりと寄っていく。そうしてついには壁が背中に当たる。アリ型が突撃を敢行。一瞬ごとに視界の中で大きくなっていくアリ型をじっと見据える。
まだだ、まだ遠い。重要なのはタイミング。近すぎても遠すぎても駄目。
巨大なアリ型が視界を覆い尽くした。
ここだ。
僕は床を右足で蹴った。全力でだ。紙一重の差でアリ型が横を通過する。そうして、爆発音に似た耳をつんざく音と、地震のような揺れが起きた。
飛び散るのは白い破片だった。それは壁の欠片だった。
僕は床の上を転がるようにして着地。すぐさまに体勢を整えると、視線をアリ型に向ける。目論見通りにアリ型が壁と衝突し、触覚の鉄球が壁の中に埋まっているようだった。これならすぐには動けまい。
僕はヒートナイフを構え、ドリルを回転させ、アリ型に向かって走った。当然左足が酷く痛む。血が噴き出す。
だが気にしてなるものか。
しかしそんな僕を嘲るように、アリ型の胴体の後ろに取り付けられている球体の一部が開き、中から銃器のような物が生えた。
驚きに目を見開く。鼻孔をつくのはガスの匂い。とっさに両腕で頭を庇う。
銃口から大量の赤い炎が吹き出した。
僕は横に飛ぶ。だが左半身が炎に包まれる。服とズボンが燃える。着地。慌てて左右に転がって、どうにか火を消し止める。左袖と腹部の一部、それからズボンの左すねから腿にかけて焼失し、焼け爛れた肌が露出している。焦げ臭い匂いが不快だ。ヒリヒリと痛くてたまらない。
苦しかった。肺は新鮮な空気を求めて呼吸を要求していた。
身体は休めと言っている。意識は今にも消えてしまいそう。頭はもうろうとしている。
それでも、僕はふらふらと立ち上がってアリ型を見る。アリ型は僕を見返している。口らしき開口部が半端に開き、まるでざまあみろと嘲笑っているみたいだ。
ふざけるな。
無性に腹が立ってくる。目の前のロボットにも無力で弱い自分自身にも。
来やがれ、と僕は念じた。アリ型は僕の思いに答えるように、再び突進を再開する。
僕は避けながら、再度壁の方へと接近する。
タイミングを推し量り、前と同じように紙一重の差で回避した。違うのはここからだ。
僕は体勢を整えるとすぐに、右足のブースーターを点火させてアリ型の後部に肉薄する。開閉部が開き火炎放射器の砲塔が伸びてくる一瞬間、僕はあらかじめ電源をいれておいたヒートナイフをぶち込んだ。逃げるためにブースターを再点火するのと、眼前でガスに引火して爆発が起きるのは同時だった。視界は赤い炎の色に染まり、轟音が轟いた。ブースターの推進力と強烈な爆風が合わさった抗えない力が、僕を後方の壁に容赦なく叩き付ける。全身がバラバラになるかと思うほどの衝撃が背中から全身を貫き、僕は血反吐を吐いた。まともな着地など出来るはずもなく、そのまま床へと落下する。
全身が痛みで悲鳴を上げている中、僕は前方に視線をやった。アリ型は煙に包まれてよく見えなくなっている。
僕は重い腰を上げた。
口の端から流れてくる血を左手で拭おうとして、違和感を感じた。左手を見ると、肘から先がなくなっていて、ちぎれたコードと鉄の骨が見えている。先ほどの爆発で吹き飛んでしまったのだ。予想をしていたせいなのか、さしたる驚きもなく、右手で血を拭う。
次にアリ型の方へ視点を映す。ちょうど爆風で巻き起こった煙が晴れる所だ。アリ型の後部が見事に破壊されており、後ろの脚が二本失っている。抱いたほのかな希望はしかし、あっさりと打ち砕かれる。アリ型は残った四本の脚で方向変換し、僕に向かって突進を敢行してきたからだった。
だが速度は落ちている。当然だ。左手とヒートナイフを犠牲にしたのだから、それぐらいの成果がなければやってられない。おかげで僕は簡単に避ける事が出来た。
通り過ぎたアリ型は方向転換して再び僕と向かい合う。今度は、僕の方へと突進して来ない。
集中しろ。
僕はアリ型の動き全てを見逃すまいと、目を見開いて注視する。あらゆる音を聞くために、全方位に耳を澄ませる。
かちり。それはとても微かな音だった。しかし僕は確かに耳で捉えた。
そしてさらに複眼が僕の方へ向いている。
ブースターで横へ逃げる。遅れて大きな破裂音が響き渡る。着地した僕は背後を一瞥。僕がいた場所の壁や床に、三角錐のつぶてがまるでショットガンの跡のように点々と穴を穿っている。僕は穴だらけになった自分の身体を想像してぞっとした。
アリ型の複眼は、左目のぶつぶつがなくなっている。まだ右目があるのだ。アリ型は右目を僕の方へ向けようと、頭部を動かしている。
間髪入れずに、僕はブースターに火を入れて全力で前進する。
何度も使っているから燃料は心配だが、なりふり構っている状況ではない。
しかし複眼のショットガンを撃って来ない。その代わり、アリ型に近づいた僕に向かって触覚が伸びる。先端部の鉄球が僕を襲う。
避けられない。
回転させたドリルを鉄球に向けて突きつける。瞬時に衝突した。衝撃が体中で響く。けたたましい音が僕の耳の中で反響する。飛び散った火花が僕の顔に当たる。鉄球の軌道が横にずれ、僕の頬をかすって飛んでいく。痛みとともに血が吹き出た。僕の身体も弾けるように横へ回転しながら飛んでいく。
まともな受け身もとれずに落下して、少しも緩和されたかった衝撃を食らう。めまいでまともに立ち上がれそうもない。世界がぐらぐらと揺れている。
そんな中でも何かを巻き取る音が聞こえ、次いで、かちんとあの音が聞こえた。
はっとした僕はがむしゃらに動く。再びブースターを起動。狙いも何もかもがでたらめだ。案の定、僕の身体は重心を射抜く事が出来ずにくるくると回る。さらに混乱する三半規管。めまぐるしく入れ替わる目の前の景色。僕は無様な格好で床の上を転がった。
さらなる破裂音。
込み上がる吐き気を強引に飲み込んで、相変わらずぐらぐらする狭い視界を我慢しながら音の方向へ振り向くと、僕がいたらしい場所に三角錐が点々と埋まっていた。
動き続けなければ死ぬ。
僕は曖昧な景色の中にいるぼやけた目標物に向かってブースターに火を入れる。ぼろぼろの身体に追い打ちをかけていく急加速。全身がきしみ、痛み、苦しみながらも、速度が生み出す強い重力を耐え忍ぶ。
狙いが外れた。アリ型から数メートル離れた壁に激突して血を吐いた僕は、おぼつかない思考を無視してさらにブースターを使用する。後先など考えていられない。今をどうにかしなければ進めない。だから僕に躊躇などなかった。自分の身体がどんどんと傷ついていく現状など気にするはずもなかった。
しかし再び狙いは外れて、今度は床に叩き付けられる。おぼつかない思考と、半分以上狭まっている視野と、曇りガラスを通しているみたいな視力では、やはりまともに狙いがつけられないようだった。今度ばかりは運も見放しているのかもしれない。それでも、止まっていては駄目だと言う本能めいた確信のみが僕をせき立てる。
僕はまるで馬鹿の一つ覚えのように加速する。作戦を考えられるほど脳は運転をしてくれないし、もともと頭も良くない。ならば取るべき行動は限られている。
死ぬ気で粘れ。死ぬ気でもがけ。死ぬ気で進め。
耳だけが周囲の音を拾い続けている。ショットガンの破裂音、鉄球の破砕音、ブースターの音、風を切る音、僕がなにがしかに激突する時の音。
外れてはブースターを噴射し直す。それを繰り返す。意識的にやっているものではなかった。ほとんど反射的、本能、あるいは無意識のうちに行っている。
そうした状況の中、僕の意識が朦朧としているにも関わらず、鮮明に輝くものがある。それは凛の顔だった。時に笑い、時に泣き、時に怒り、時に悲しむ凛の表情が、脳裏に浮かんでは消えていく。あるいは脳の何処かで、やけにはっきりと歌が聞こえてくる。もちろん凛の歌だった。今にも途切れてしまってもおかしくない意識は、ただ凛の顔と歌だけを頼りに繋いでいる。
そして。
刹那の時間、静寂が訪れた。
僕はそのとき、アリ型の上空に躍り出て、全体を俯瞰していた。上に飛んだのは、ただの偶然だった。
それでも、僕には見えた。相変わらず視界は狭く、見えているものはぼんやりとしている。しかし、アリ型が鉄球を打ち出した直後と言う事も、複眼には三角錐の弾が装填されていないのも分かった。それに額のカメラが僕を逃さずに追っていると言うのに、頭部は動いてすらいない。
アリ型はもしかしたら上空に対する対処法を用意していないのかもしれない。あるいは鉄球のみが上空に対する攻撃手段だったのかもしれない。しかし、今アリ型は攻撃手段を持っていないのは事実。
僕は吠えた。がむしゃらにブースターを起動させる。今度は狙いを外さない。今こそがまたとない好機。
一直線にアリ型に向かう。左足から流れる血が、左目から流れる血が、背後へと飛んでいく。右腕をまっすぐ突き出してドリルを回転させる。ぐんぐんとアリ型に迫る。アリ型の動きは間に合っていない。アリ型の姿が視界を覆う。
衝撃。
一発の弾丸と化した僕は、アリ型の胴体を貫いて床に激突した。全身が粉々になってしまう錯覚を覚え、痛みで体中が絶叫を上げる。それでも僕は仰向けになってアリ型を見た。
胴体に風穴が空いたアリ型の口から生えているギザギザの刃が、頭部ごと僕に向かって迫ってくる。避けたくても身体が言う事を聞かない。ただじっと見るしか出来ない。刃は確実に近づいてきて、僕を切り裂こうと間近に迫り来る。僕はぎりぎりまで待って、もう一度ブースターを起動させてさらに大きな穴を開けようと身構えた。
来る、来る、来る。冷や汗が頬を伝った。
そして、刃は停止。僕の腹からわずか1メートルの距離だった。アリ型は動かなくなっていた。
僕はしばらくの間アリ型の刃から目が離せなかった。今にも動き出しても不思議ではない気がした。しかしやはりアリ型は動かないままで、僕はアリ型を壊す事が出来たのだ。
途端、安堵感に包まれそうになり、僕は首を振った。まだレースは終わっていないのである。気を抜くのは早いのだ。
アリ型の下から這い出た僕は、よろめきながら立ち上がった。すると、がちゃ、がちゃ、がちゃと、音を立てながらはしごが壁から出現していく。上を見上げると、はしごが続いた先に人一人通れそうな通路が出来ている。まるで最初のレースに出てきたあの部屋みたいだった。
身体が震えた。怖いからなのか、怪我のせいなのか。
何を今更と僕は無理に笑ってやる。どんなトラップだろうと、どんな機械だろうと、あるいは化け物だって関係なかった。今更こんなことで立ち止まっているのなら、僕はとっくの昔に進む事をしなかった。だから僕はドリルを収納して進んだ。はしごに手をかけ、左足を庇いながら上へと昇っていく。多量の汗が上から下へと流れ落ちる。はしごに汗が次から次へと垂れていく。
そうして何メートルか進むと、かちん、と鳴った。
ほらきた。
下を見る。床面が変形していく。中央が隆起し、螺旋状に刃が生えていく。何処かで見た事ある形状だ。右手と同じドリルだった。
けたたましい音を立てながら回転を始めたドリルは、あれだけ苦戦したアリ型を簡単にばらばらにした。
それからすぐにドリルが上昇してくる。速度は速い。歩くよりも走るよりも。このままではすぐに追いつかれる。
決断する。僕は手を離した。一瞬の浮遊感。
ブースターを噴かす。身体がぐんと浮き上がって上へ向かって飛んだ。だがすぐに勢いはしぼんでしまう。だからその度にブースターを噴かした。
身体はまっすぐに維持しなければならなかった。バランスを崩せばまともに飛べない。速度も落ちる。すこしでもミスすれば僕はあのドリルの餌食になるだろう。しかしブースターを使うたびに強い風圧が僕に襲いかかってくる。
それでも半ばまで進む事が出来た。だが、さらに、かちんと音が鳴った。
今度は天井が開いていく。中から現れたのは天井一面を覆う巨大な送風機だった。
嘘だろ。
愕然とした僕を嘲笑うかのように、送風機は徐々に回転していく。最初はゆっくりと、そよ風がやってくる。だがだんだんと回転する速度が強くなり、すると当然風が強くなってくる。
ブースターを使うも、上からの強い風のせいで思うように上昇していかない。何よりも姿勢を維持するのが辛くなってきた。
ブースターを使用するタイミングが必然的に早くなる。恐ろしいほど強い風圧に僕の顔が引きつる。たくさんの汗は風で全て吹き飛んでいた。風が目にしみる。涙が勝手に流れて下に飛んでいく。上に向かえば向かうほど風が強くなっていく。全身は痛かった。頭も胸も腹も腕も足も全て。苦しくて仕方ない。力が上手く入らない。呼吸すら上手くできない。視界がアリ型の時よりもひどくぼやけている。それでも、姿勢をまっすぐに維持し続ける。
上は近い。もうすぐだった。
だが、ぼふっと、気の抜けた音が聞こえた。
上へ上昇していかない。
下降する。
恐れていた事が、起きた。
とっさに手すりを掴んで落下を防ぐ。そうしてもう一度ブースターを噴かすも力ない音が出る。
間違いなく燃料が切れたのだ。あれだけ使えば当然の結果だった。
僕はもう一度はしごを登り始める。後少し後少しなのだ。
猛烈な勢いで迫り上がってくるドリルを僕は一顧だにしない。
はやる心を抑え付ける。
近づいてくる音。
手が通路にかかった。身体を持ち上げる。
耳を支配する轟然と轟く音に混じって鈍く嫌な音が微かにした。
抗う暇もないほど恐ろしい力が僕の身体を前へ吹き飛ばす。
通路の上を二度、三度とバウンド。そうして止まる。
僕は立ち上がろうと足に力を込めるも力がまるで入らない。それどころか奇妙な違和感。
汗がどっと吹き出しながら、僕はそっと足を見た。
なかった。
右足も左足も膝から先が何もなかった。生身の左足からはただただ血がだらだらと流れ続けていて赤い池を広げ続けている。
なんだこれは。
不思議な事に痛みを感じなかった。
砂粒のようにわずかな力がさらに磨り減っていた。
ぼやけた視界はさらに曖昧になっている。
もう、駄目なのか。諦めるしかないのか。
不意に記憶が流れてくる。幼い頃の記憶はひたすらに暗くてモノクロだった。家から追い出されて義父や凛と出会ってようやく明るくカラフルになっていく。楽しくて楽しくて仕方がなかった。それから義父が倒れた。辛かったが恩を返すためだと必死になって働き続けた。義父が死んだ。酷く落ち込んだたくさん泣いた嫌になった。それでも僕をつなぎ止めたのは凛だった。僕は凛のために働いて働いて働いた。凛の顔さえ見れば疲れなんて吹き飛んだ。そうしたら今度は凛が倒れた。義父と同じ病。運命を呪った。それでも一握りの希望であるアドバンスレースにすがった。最初のレースをクリアしてリハビリの最中に所沢は「前進しろ」と言った。もがくように次のレースをクリア。テロ。「裏切り者」「裏切り者」「裏切り者」
それでも、僕は。
唯一残っている右腕を伸ばす。機械の全力。片手だけの匍匐全身。少ししか進まない。もうすでに前方はほとんど見えていない。ぼんやりした頭が考えるのは前に進むことだけ。それでも進んでいる。数ミリでも確実に前へ進んでいる。ゴールに向かっている。
「警告警告。最終トラップ発動の時刻まであと一分」
何処か遠い所から音が聞こえてくるがよく聞き取れない。それでも僕は前進することを止めない。
「あと十秒。八、七、六……」
扉がある。ノブまで手が届かない。右腕にドリルを展開、起動。力が入らなくて少ししか削れない。それでも確実にガリガリと削っていく。
「五、四、三」
穴が空いた。人が一人だけどうにか通れるだけの穴だ。
「二」
僕は腕を伸ばした。
「一」
最期の力を込めた。
「ゼロ」
何もかもが、消えた。
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