第三話 セカンドステージ

 実の父は言った。

「お前はもういらん」

 そして僕を放り出した。母は泣いていたが、止めなかった。ごめんなさいの一言すら言わなかった。

 それから僕はあてもなく彷徨った。狭っ苦しい癖に人だけは多いこの町で、僕は一人だけだった。僕に関心を示すような人なんて誰もいない。僕は寂しさで胸が一杯になった。

 どこに向かって歩いているのか何て、何も考えていなかったし、分からなかった。だから気がついた時にはもう、鉄屑で埋め尽くされた広場に着いていたのだ。

 錆びてぼろぼろになり、朽ち果てた鉄。やがて僕は、こんな風になってしまうんだと思った。ひとりぼっちで、誰からも忘れ去られて、寂しく朽ちていく。いらないと否定されたのだから、当然だ。父は紙くずをゴミ箱に捨てるように、不要になった鉄をこの広場に放り出すように、僕を捨てた。

 僕は泣いた。大きな声で、力の限り。今思えば、僕はここにいるんだと、当時の僕が出来る限りの方法で主張していたのかもしれない。

 男が通りかかったのは、そんな時だった。僕の泣き声に気づいたその男は、どこか疲れたような顔で近寄ってきた。

「どうした、坊主」

 大きくて堅い手が、僕の頭を撫でた。僕は顔を上げて、男を見る。柔和な笑みがその顔に浮かんでいた。手の温かな体温と、どこか人懐っこい表情のせいなのか、僕はふいに安心して泣くのを止めた。だから僕は、どうにか答えることが出来たのだ。

「僕はいらないんだって、お父さんが言ったんだ」

「そうか。いらないって言ったのか」

 男は上を見上げた。何事かを考え込んでいるようだった。それから僕の頭の上に乗せた手で、僕の髪をくしゃくしゃに撫で付ける。

「なら、俺が拾ってやろう。こんな一見何の役に立ちそうもない鉄屑だってな、何かの役に立つことがあるんだ。だからな、坊主。お前はお前のお父さんにとっては必要じゃなくなったのかもしれんが、俺にとっては、お前が今、必要になったんだ」

 男は僕の手を取って歩き出した。大股で歩いていく男のペースに着いていくのは、当時の僕にとってなかなか骨が折れた。そうして辿り着いた家には、凛がいたのである。それが僕たち三人の家族が生まれた日だった。

 僕を必要だと言ってくれた義父。すぐに同じ家族として認めてくれた凛。三人とも血の繋がりはなかったけれど、それでも僕らは家族だった。

 僕と凛は運がよかったのだと、今にして思う。親に捨てられた子は五万と居るだろうし、飢えて死ぬ人たちだって珍しくない。あるいはただ同然の賃金で、奴隷のように働かされたり、特殊性癖の人間の慰み者にされるために捕まってしまう人たちだって多いのだ。善良な人間に拾われ、家族として楽しく暮らすことが出来たのは、幸福なことなのだった。

 僕は感謝してもしきれないぐらいの恩が義父にはあった。しかし、ようやくまともに就職できるような年齢になってから、義父は床に伏せたのだ。

「なあ、洋」ベッドの上に横たわったまま、義父は弱々しい声で言った。「血は繋がっていなくても、お前は凛の兄ちゃんだ。そうだろ?」

「うん」

「なら、凛を助けるのはお前の役目だ。頼むぞ」

「分かってる。任せくれよ、父さん」

「頼もしいぜ。さすが俺の息子だよ」

「うん」

 この頃には、僕は義父がもう長くないことを悟っていた。だからこの期を逃したら、僕は今まで恥ずかしくて言えなかったことがもう一生言えないように思えてならなかった。だから僕は言った。

「父さん。僕を拾ってくれてありがとう。父さんに拾われなかったら、僕はきっと悲惨なことになっていたよ。こんなに幸せな人生をくれて、僕は本当に感謝してる」

「よせよ、照れくさい」義父は照れ笑いを浮かべた。「凛は、俺の死んだ親友の子だ。こんな町だ。何が起きても不思議じゃない。だから育てられなくなったら、俺が代わりに育ててやるって約束して、親友が死んでから引き取ったんだ。お前を拾ったのは、まあ、なんだ。ただの気紛れだ。あの時お前が泣いていた姿を見て、俺はつい考えてしまったんだ。全くどうかしてるぜ。俺がいなかったら、俺の可愛い可愛い凛はどうなってしまったんだろうか。きっとこいつみたいに、寂しくて寂しくて泣きながら路頭を彷徨っちまうんだろうなって。それから死ぬか、変態野郎に捕まって反吐が出るようなことをされるんだろうなって。そう思ったら、居ても立ってもいられなくなって、お前を連れて帰っちまったんだよ」

 それから三日後に、義父は死んだ。


 僕は凛の寝顔をぼんやりと眺めながら、思い出の中に浸っていた。三人での生活はもはや二度と手に入らないものだった。それでも僕には凛がいる。大切で、唯一の家族。血は繋がっていないけれど、何処の家族よりも仲がいいと自負している。世の中には子供を平気で捨てる親がいるのだ。血の繋がり何て些細な物だ。

 ファーストステージからもう一週間が経った。今日はセカンドステージの日だ。機械の左腕はどうにかごまかしきることが出来た。仕事があった時の時間は外に出て、さも仕事をしていたように装った。けれどいつまでもごまかしきれるものではないことは分かっている。その時どうなるかは、あまり考えたくないのだが。

 僕は凛の頭を軽く撫で付ける。今日の顔色はほんの少しだけ良かった。

 必ず助けてみせる。

 何度目かになるか分からない誓いを再度行った僕は、マスクをして家を出た。そこには真由美が待っていた。

「いよいよだね」

 真由美が言う。

「うん」

 と、僕は返し、歩み始めた。

「調子はどうかな?」

「快調に決まっているさ。どんなに過酷でも、絶対にクリアしてみせるよ」

「うん。絶対に、だよ」

「そう言えばさ、昔のことを思い出していたよ」

「昔?」

「そう、昔のことさ」

 僕は真由美に義父との出会いを話す。真由美は黙って聞いていてくれた。僕の昔話を誰かに聞いてもらうのはこれが初めてだ。レースがどうなるのか分からないけれど、全てが終わったとき真由美とは今生の別れになる可能性が高い。だから昔話を聞かせる気になったのかもしれない。

「洋は本当に運がよかったんだね」全てを聞き終えた真由美は言う。「実の親とのことは残念だったけれど、そのかわりに血の繋がりよりも強い繋がりを洋は手に入れることが出来たんだ。きっと、私の家族よりもずっと強い絆で結ばれていると思う。知っての通り、私の両親は離婚しちゃったからね」

「うん」

 僕は真由美の両親のことを思い出す。真由美の両親は僕と凛の前では仲のいい夫婦に見えた。けれど真由美は、父と母が喧嘩ばかりしていることを悲しそうな顔で言っていた時があったのだった。

「僕はとても運がよかったよ。義父は僕の本当の父よりも父らしかったし、凛は偏屈な所があるけれど、本当に良く出来た優しい妹さ。それに義父に拾われなかったら、真由美と知り合うこともなかった」

「そうだね。私は洋の義父にとても感謝しているんだ。覚えているかい? 出会った時のことを」

「ああ、確か真由美は男と言い争っていたんだっけ。何て気の強い女だって、その時は思ったな。でも真由美の方が正しいって僕と凛は感じたから、二人して真由美の味方をしたんだ」

「あの時は嬉しかったよ。とても感謝してるんだ。何しろ、もしかしたら間違ってるのは私の方なのかもしれないと、思い始めていたからね。自信がなくなってきてたんだ。そこで君たちの登場さ。涙が出るかと思ったよ」

「おおげさだな」と、僕は笑った。「そんなに大したことじゃないだろ。当然のことさ」

「大げさなもんか。実際、目が潤んだからね。でも、おかげで知り合うことが出来た。私は、洋と凛と親しい友人になることができてとても幸運だった。あの頃は家族の問題でごたごたしていたから、君たち二人との付き合いにとても救われていたんだよ」

「僕だってそうさ。凛だってそうに決まってる。真由美と出会えた時は、僕らが家族になってからそんなに時間が経っていなかったんだ。だからお互いのことをまだ家族だって認めることに抵抗があった。だけど真由美の口喧嘩に加わったことがきっかけになって、僕と凛との距離がぐっと近くなったんだ。僕ら家族の関係に、真由美は一役買ってるんだよ」

「それは気のせいさ。私と出会えなくても、君たちなら良い関係を築けたはずさ」

「そうかもしれない。だけど、真由美と出会っていなければもっと時間がかかっていたんだろうなって思ってる」

「そう。そんな風に思ってもらえるのなら、私はとても嬉しいな。君と出会えて幸せだったよ、洋」

 真由美は寂しい陰のある笑みを浮かべた。

「僕もさ」

 と、僕は返す。そして夢想する。凛が病気でなかった場合の、僕と真由美との将来の関係について。真由美とならば、良い家族関係を作れるだろうという予感があった。だけどそれはもう叶わないのだ。

「ありがとう」真由美はそう言ってから、前方を指差した。「さあ、着いたよ」

 幅広で長い階段がアドバンスレース会場まで続いていた。

「私はここで洋のことを祈っているよ。どうか無事に戻ってきてくれよ」

「約束する」

 僕は頷き、階段を上る。背中に真由美の視線を感じる。

 クリアしてみせると、心の中で呟いた。凛を助けるためにも、少しでも長く真由美と会うためにも、僕はクリアしてみせる。後ろで真由美が祈ってくれているんだ。なんて心強い支えだろうか。

 会場の中に入った。受付には先週と同じポニーテールの女性。

「久しぶりです」

 僕が挨拶すると、

「お久しぶりです」

 と、彼女は一礼を返した。

「先週と同じですが、覚えていますか?」

 一週間ぶりに聞く事務的な声質と口調で彼女は尋ねる。相変わらず営業スマイルの一つも浮かべない。しかし淡々とした調子が、これから始まるレースへの緊張感を否応なく高めた。

「もちろん」

 僕は答える。

「それではそのままお進みください」


 部屋の中は一週間前と変わらない。

 ソファーの座り心地も、前回の印象と変わらずに心地よかった。レースにクリアすることが出来たら、このソファーをグラウンドシティで探してみてもいいのかもしれない。そして病気が治った凛と一緒に座るのだ。そうすれば今よりもずっとソファーの感触を楽しむことが出来るだろう。今は何よりもレースに対する緊張で、心から安らぐことができなかった。

『時間です。辞退されるなら、そのまま引き返してください。始めるのなら、目の前の壁に触れてください。壁が開いた時が、始まりの合図でございます』

 アナウンスが鳴り響く。僕は迷うことなく立ち上がり、壁に触れた。

 ゆっくりと壁が開く。白い通路が真っ直ぐに延びている。

 僕は速い足取りで通路を進んだ。

 最初のトラップは、100メートルもかからない内に起きた。かちん、という音で僕が背後を振り向くと、床から白い壁がせり出していた。

 白い壁から、僕の全身とほぼ同じ直径のドリルが生える。ドリルは唸り声を上げながら恐ろしい速さで回転し始め、さらには僕を追いかけるように進み始めた。

 僕はすぐさま駆け出す。幸いなことにドリルの速度は一定だった。このまま走り続ければ、決して追いつくことはない。それだけが救いだった。

 だが暫く進んだ後に、またもやかちんと言う音が鳴る。ドリルが迫り来る中、今度は目の前の床が落ちてなくなった。穴の大きさは三メートルほどか。僕は逡巡せずにジャンプする。

 対面の床へと着地しながら、一瞬だけ視線を後ろに送った。もしかしたら、という期待。しかし、ドリルは穴の上でさえも進み続けている。僕は再度走り始めた。

 再び音が鳴った。次は天井の板が外れ落ちた。反射的に身をよじるが間に合わない。板が右肩に当たる。思わず僕は呻く。鈍い音、重たい衝撃、脱臼してしまうかと思うほどの激痛。くらくらする。思わず足が止まりそうなる。

 しかしドリルは呪わしいほど無情だ。決して変化しない速度で迫ってきているのだ。痛みに身悶えするような暇はない.。僕はわずかでも差を広げるためにもより早く走った。

 それからもあのかちんという音が何度も鳴り続けた。その度に床が抜け落ち、あるいは天井の板が落下し続ける。通路は一直線を止めて、右や左に曲がりくねったり、上り坂になったり下り坂になったりと変化を付ける。それでも僕はがむしゃらに走り続けた。落ちてくる天井の板を避け続け、唐突にできる穴を飛び越える。

 トラップ自体は単純だ。とても避けやすい。第一ステージの方が色々なバリエーションがあった。しかし、今回は体力が容赦なく削られ続けた。

 荒い呼吸を繰り返す。全身から汗が噴きだしていく。僕は走るスピードが落ちているのを自覚した。僅かづつドリルの速さの方が勝ってきている。

 そうして不意に、壁が僕の行く手を遮った。行き止まり。ここぞとばかりにドリルは距離を詰めてくる。

 まずい。

 僕は視線を四方へ彷徨わせる。これはレースだ。どこかに脱出の糸口があるべきなのだ。しかし白い壁とドリルのみしか目に入らない。他には何も見つからない。

 ドリルの音が大きくなっていくのと同調するように、僕の焦りが募っていく。

「くそっ!」

 思わず僕は毒吐く。こんな所で終わってしまうのか。僕は結局凛の病を治すことが出来ないのか。

 自分に苛立った衝動のまま、前方の壁をを蹴りつける。

 ぼこん。妙に間の抜けた音がした。まるで、そう、まるでこの壁の先は空洞だとでも言っているような音。

 ドリルは背後に迫りつつあった。血と肉をよこせとけたたましく轟いている。

 意を決した僕は、左腕の全力を出して前の壁を殴った。予想が当たり、壁は景気のいい音を立てて崩れ落ちる。その先には道が開かれていた。僕はすぐさま前へ走り込んだ。

 だが思わぬ難所。急勾配の上り坂。ドリルは間近。行き止まりから脱出できたと思えばこれだ。

 僕は残り少ない体力を振り絞り、床を強く蹴りつけて坂を登る。当然のごとく速度は思うほど上がらない。だがドリルの速さは不変だ。坂だろうとなんだろうと変わらない。

 後ろを見ている余裕など片時もない。故に僕は、前を見据える。決して振り向いてなるものかと半ば意地になってもいた。

 だからであろうか。10メートル程先に、一本の白い縄を目で捉えることが出来たのは。

 このままではドリルに追いつかれるのは確実だった。だが、あの縄に手にかけることが出来れば。そして、登りさえすれば。

 僕は全力で走る。ドリルの存在を頭から追いやる。ただ、一瞬でも早く縄に手をかけ、登ることだけを気にかける。

 縄との距離はすぐに詰まった。左腕を縄へ向けて必死に伸ばし、飛びかかった。機械の手では感触は伝わらない。だが確かに僕の左手は、縄をしっかりと握っている。

 ドリルの轟音はいよいよ近くなった。急いで縄を登れば、足下のすぐ下をドリルが通過した。

 ほう、と意図せず安堵の溜め息が口から漏れた。前回同様に、間一髪の所で命拾いをしている。運のおかげででここまで進むことが出来たと言っても過言ではない。だが、これから先も果たして運のみで進むことが出来るのだろうか。

 縄はすぐ上からぶら下がっている。道はドリルが走り去った方角にしかない。悪い予感しかしないけれど、縄から飛び降りる。

 荒い呼吸を落ち着かせながら、僕は、周囲のいかなる反応にも気を配れと自分に言い聞かせた。とくに、あのかちんという音だ。あの音のおかげで罠を察知することが出来る。問題はいかに速く気付き、素早く動くことが出来るかどうかだ。そのためにも死力を尽くせ。僕の生死は凛の生死。だからこそ、僕は生命保険に入らなかったのではないのか。それは、絶対にクリアしてみせるという誓いなのだ。

 そうとも。僕は強く思う。そうとも、僕は絶対に生きて帰るのだ。

 小休止を終えて、ある程度の体力を回復させた僕は、再び前へと歩き出した。

 道は緩やかに右へと曲がっている。慎重に歩を進めながら僕は考える。

 地下の中を縦横無尽に変化し続けるコースの構造は、不可思議だ。一体どれだけの広さの地下空間を、レースの為に用意しているのだろうか。それに、このレースを主催する意義も分からない。名目上はBクラスへの切符だけども、それだけではこれほどまでの施設を作る意義は感じられなかった。きっと何か、理由があるように思えてならない。

 しかしそうした思考は、あのかちんと言う音で強制的に遮られた。

 空を切る音と共に小さな影が目前を横切る。目は影を追う。見れば、小さな矢が壁に食い込んでいた。次に飛んできた方に視線を投げた。小さな筒が25メートル程までの壁を隙間なく埋めていた。

 そして筒からからまたも矢が放たれた。もはや一本だけではない。さながら機関銃の如く、次から次へと目で追いきれない程に。

 この中に身を投じれば、僕の身体が穴だらけになってしまう。迂闊には進めない。しかし、進まなければクリアが出来ない。

 それから数十秒が経った。ようやく矢は止まる。しかしまた矢が放たれるのは間違いない。今を逃せば暫く進むことが出来なくなる。

 僕は強く地面を蹴った。全力で加速する。最高の速度に到達すると、そのままのスピードを維持しようと足を回す。

 だが時は無情で容赦がない。後もう少しで抜けることができるという瞬間だった。かちんと音が鳴る。

 すぐ背後で矢が放たれた。大音量のノイズみたいな音が響く。必死になって走るが間に合わない。

 右足に矢が突き刺さった。激痛と衝撃。さらに矢が次々と刺さる。思わず僕は転倒する。絶体絶命の危機だ。思わず僕は背後を振り返ると、幸運な事に矢のノイズは止んでいた。次に右足に視線をやった。太腿に五本程の矢が刺さっている。そこから血がどくどくと流れ出て、小さな血の池を作ろうとしていた。

 痛みをこらえて立ち上がった僕は、足を引きずりながら歩いて進む。血で出来た細い道筋が後に出来ていく。

 カーブを曲がった先はまたもや行き止まりで、通り過ぎていったドリルの後ろ姿、つまり僕の身長を超えるぐらいの白い四角い壁が鎮座していた。

 どう進めばいいのだろうかと思案しながら、ドリルに近づく。すると半ば予想通りに、絶望的な音が耳の中に入った。聞こえ始めたのはドリルが回転する音だった。

 だが、分からない。ドリルの先端は、僕が居る方向にはない。僕の方には、ただ壁が見えるだけ。ドリルが回っても、僕が抉られるわけではないのだ。

 そして不意に気付く。壁が、僕の方に向かって動いている。

 僕は両腕を前に出して、壁を押した。しかし僕の左腕の力を合わせても、壁を止めることはできない。じりじりと壁に押されて、後退するほかにない。

 ドリルに追われていた時は、速さは一定だった。遅くならなかった代わりに速くもならなかった。だからどうにか逃げ切ることが出来た。しかし、今回の場合は壁の速度が徐々に速くなっていく。

 僕は危機感を抱いた。この先には、多量の矢が飛び出る罠が待ち受けているのだ。このまま押され続ければ、いずれあの矢の餌食になる。そうしたら、僕は死ぬ。そして、凛は夢を叶えることができなくなる。

 考えた方策は二つ。一つ目は矢の罠を走ってくぐり抜けて、縄がある箇所まで逃げることである。だが今の状況では現実的な案とは言えない。僕の足の怪我では、あの矢の通りを抜けるのは無理だからだ。

 三つ目を考えている暇はない。だから僕は即座に二つ目の案を選び、ヒートナイフを引き抜いた。二つ目の案とは、つまり破壊することだ。

 ヒートナイフを起動し、刃が超高温で熱せられたのを確認すると、すぐさまナイフを壁に突き立てる。軽い抵抗を感じたが、ナイフは簡単に壁に刺さった。けれどもちろんそれで、壁が止まる訳がない。僕は何度も壁を突いて、ズタズタな穴を作る。そこに左腕を力の限り突き入れた。しかし、まだ壁は動いている。加速している。

 僕は左手を広げ、内部の部品を掴んだ。それから一気に左腕を引き抜いて、コードや何かの部品を引きちぎる。

 すると小さな爆発音が鳴り、黒い煙が強引に開けた穴から沸き立った所で、壁はようやく止まった。あと3メートルで矢の罠に引っかかってしまう所だった。僕は賭けに勝ったのである。

 額の汗を腕で拭った僕は、自分で開けた壁の穴に足をかけて壁によじ登った。その際、矢傷を負った足が猛烈な痛みを発したが、そんなことに構っていられない。僕は歯を食いしばって我慢した。そうして、天井に軽く頭をぶつけながら、僕はドリルを乗り越えたのだった。

 緩やかなカーブを曲がってさらに進んだ先には、螺旋状に上へと伸びる階段がある。僕はトラップを警戒して一段一段を慎重に上って行く。

 しかし、トラップは出現する事もなく、階段は終わりを告げた。

 僕は足を止める。目の前には四角い部屋が広がり、中心には二足で立っている白いロボットがいた。腕は二本、カメラは一つ。全体的に角張った無骨なデザインで、手に当たる部分は球体になっている。アンダーシティでは見た事もないロボットだ。

「私は、格闘用ロボット、パイソン、です。この先には、ゴールの扉、あります。しかし、扉は、私を壊さなければ、開きません」

 片言の機械音声で、パイソンと名乗ったロボットが説明すると、背後でガシャリと音がした。見ると、僕がやって来た道が壁で塞がっている。

 それが始まりの合図だったのか、パイソンはがちゃがちゃと音を立てて近寄ってきた。スピードはあまりない。しかし見るからにも頑丈な体躯は、拳銃の弾だって弾いてしまいそうだった。

 僕はヒートナイフを引き抜いて起動させて、パイソンを待ち構える。

 パイソンは左のパンチを放った。予想外に早い一撃を辛うじて左に避ける。すかさずパイソンの右が飛んでくる。避ける。しかし体勢が大きく崩れてしまった。そこに僕の顔面に対してパイソンの右の蹴りが襲い掛かる。僕は反射的に蹴りをくぐり抜けるように飛び込み、前転し、距離を置く。

 僕は、ほう、と呼吸した。外見からは想像出来ないほど素早いコンビネーションだった。それに鉄の塊でできたパイソンの一発は、僕に致命傷を与えかねない程の威力を持っているのは明らかだ。

 パイソンは僕に休憩の間を空けさせようとはしない。その証拠に、迷う事なく距離を詰めてくる。

 明らかに不利な状況だった。防御力も攻撃力も圧倒的に上で、かつ疲れを知らない冷酷無慈悲なロボットに対し、こちらは足を負傷し、すでに体力は限界に近い。しかも相手にダメージを与えられそうなのは、機械の左手とヒートナイフのみである。

 それでも、やるしかない。

 痛む足を無視し、相手の懐へと肉薄する。だがパイソンの反応は早い。僕を阻止しようと右腕を振るってきた。避ける。さらにパイソンの左。そして右。

 反撃する余裕がないほどのパイソンの猛攻。僕が唯一パイソンに勝っているフットワークを駆使して、パイソンの一撃一撃を回避していく。

 ある時頬をパイソンの右腕が掠めていった。それだけで皮膚が裂け、血が吹き出す。

 堪えきれずバックステップで距離を取った。あんな攻撃を躱しながら攻撃するという芸当は、僕には不可能だ。

 攻撃される前にするしかない。

 僕は再びパイソンの懐へ飛び込んだ。同時にナイフを振るう。しかしパイソンも左を繰り出す。

 パイソンのが早い。ナイフが接触する前に、パイソンの左が僕の右腕に衝突する。

「ぐあっ」

 鈍い音。激痛。悲鳴を発した僕はたまらずナイフを手放す。

 すかさずパイソンは右手でフック。しゃがんで躱す。今度はパイソンの右足が眼前に迫る。左へ転がって回避。そして距離を取って立ち上がる。

 僕はちらりと右腕を見た。肘と手首との間で曲がっている。

 こんな程度は大した事ない。前回は左腕をぶった切ってやった。たかだか骨折程度、物の数に入らない。

 それよりもナイフがパイソンの足下に転がっている事の方が問題だった。あれは必要だ。少なくとも、脆弱な生身の腕よりもよっぽど。

 僕はパイソンへと突貫する。予想通りパイソンの左腕が動く。だが同じタイミングで、僕は右側へと移動し、さらに接近。足下のナイフを蹴飛ばし、その方向へと走り、左手でナイフを拾い上げた。

 構える。次で最後の攻撃だ。必ず決めてやる。

 全力でパイソンへと迫る。相手の攻撃が来る前に側面へ移動する。パイソンの目が僕を追う。僕はそのまま背後に回り込んだ。パイソンの身体は反転していない。カメラだけが僕を捉えている。

 またとない好機だった。左腕を思い切り後ろへ。まるで弓を引き延ばすみたいに。矢は、ナイフだ。パイソンはまだ体勢を整えていない。いける。

 全力で左腕を突き出した。

 しかし、身体は後ろに向いているパイソンの足も動いた。人間にはあり得ない軌道だ。後ろ向きのまま、僕の足に向かってローキックが飛び出る。

 僕のナイフがパイソンの身体を貫くのと同時、パイソンのローキックが僕の右足を粉砕する。

 あまりの衝撃に意識が一瞬だけ飛んだ。危ないと思った。だが僕の身体は無事だ。その代わりにパイソンは動けなくなっていた。

 僕は勝ったのだ。

 パイソンに埋まってしまった左腕を抜き出した僕は、片足で跳ねながら出口のドアを開けて中に入った。


「おめでとうございます! 第二ステージクリアです!」

 高らかに鳴り響くファンファーレ。小さくガッツポーズをした僕は、力が抜けてそのままその場にへたり込む。

 今回もクリアしたぞ。凛。

 心の中で呟いて、そのまま時間が経つのを待つ。立つ気力も体力もない。全身は絶えず激痛が走っている。それでも僕は不快ではなかった。次をクリアできれば、僕らはグラウンドシティに行ける。絶望ばかりの僕の胸の中にいたあまりにも小さな希望は、今やむくむくと大きくなっている。

 苦痛はどこにもいないのだ。今だけは、心地良い希望の中だけに浸っていたかった。

 壁の一面が開く。中から白い担架を押してくる二名の男性が現れて、丁寧な手つきで僕を担架に乗せる。そうして僕は、所沢の元へと運ばれた。

「意識はあるようだね?」

 僕は頷いて返事をした。喋る元気はなかった。こうして起きているだけで精一杯だ。

「ふむ。では、おめでとうと言っておこう」

 再度僕は頷く。

「さて怪我だが、まあ骨折だな。詳しく調べていないが、分かりやすい。それも複雑骨折だろうな。で、君はどうする? 機械にするなら片目を、しないなら両目を閉じたまえ」

 迷う事なく僕は片目をつぶる。今更生身にこだわっていられない。

「そう答えると思っていたよ。さて、ちょっと君にはもう少しだけ頑張ってもらわなければならない。――もう入ってきてもいいぞ」

 扉が開く音がして、僕は視線だけを動かした。受付のポニーテールの女性が入ってきた。

「おめでとうございます」

 相変わらず感情を感じられない口調と顔色で、彼女は言った。

 頷いた僕に対し、彼女は再度口を開く。

「そのままで結構です。……貴方にはここでレースを辞退する権利があります。辞退すればそのまま賞金を得ることができますが、グラウンドシティに行く事が一生においてできなくなります。どうなさいますか? 辞退されるなら片目を、サードレースに参加するなら両目をつぶってください」

 僕は両目を閉じた。

「分かりました。サードレースは来週、今日と同じ時間です」

 彼女は、じい、と僕を見た。よく見れば彼女は、整った顔立ちをしている。性格さえよければ、きっとモテる事だろう。

「頑張ってください」

 彼女は一言そう呟いて、部屋から出て行った。なぜだか僕の胸に、彼女の言葉が温かく響いたのだった。

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