第四話 アンダーシティ
右腕と右足は無事に機械化し、リハビリも終える事が出来た。あと四日程で最後のレースが始まる。
僕は通りを歩いていた。いつ歩いてもここは薄汚くて臭くて貧乏臭い。そんな僕らが住むアンダーシティは、実の両親から僕を切り捨てさせ、義父を病で殺し、義妹を同じ病で伏せさせた。
だから嫌いだった。しかしここでなければ義父と出会えなかったし、真由美と友達になることも、凛と兄妹になることもなかったのだ。その事を思うと、複雑に気持ちが揺り動く。
この町について、僕は本当に嫌いでいるのだろうか。
「よお、阿藤じゃねーか」
不意に、背後から声をかけられて振り向く。右肩から指先までが黒々とした機械になっている金髪の男だ。名前は レイニー・スヴェクル。
「レイニーか、ひさしぶりだな」
「凛ちゃんの様子はどうだ?」
レイニーは心配そうに聞いた。
「……最近は、少し元気が出てきたな。寝たきりなのは変わらないけど」
「そうか……。早く説得できると良いな」
当然のような顔をしてレイニーは言う。レイニーは、凛が機械化が嫌いで、それが理由で機械化で病気を治す事を拒んでいたのを知っている。しかしレイニーは、僕が凛に機械化をするよう説得していると思い込んでいた。それが常識だとでも言うように。
「……もう説得はしないさ。どうしようもないことだよ」
「諦めるなよ。凛ちゃんを説得できるとしたら、お前しかいないんだ。お前が諦めたら、一体誰が凛ちゃんを助けるんだ」
「諦めている訳、ないだろ」
「だったら」
「……僕は今、アドバンスレースに参加しているんだ。四日後に、最後のレースが始まる」
「なんだって……! お前……」
レイニーは愕然とした表情を浮かべた。
「この事、絶対に凛には言うなよ」
「……分かってる。大体知ってるだろ。俺は凛ちゃんに嫌われてるってことぐらい」
レイニーは昔凛に告白した事があったが、その頃既にレイニーの腕は機械になっていたのだ。当然、レイニーは振られ、しかもそうとう酷い事を言われたらしい。
「しかし、本当にこの町は腐っているよな」レイニーはあからさまな怒りを込めて言う。「この町がこんなのじゃなかったら、凛ちゃんは病気になる事もなかったし、お前もあんなヤバいレースに参加しなくても良いんだ。俺は大嫌いだな、この町。お前もそう思うだろ?」
「どうだろう。最近は分からないんだ。そもそもこの町でなければ、僕は凛たちとは会えなかった訳だからさ」
「なるほど。だが、この町はクソッタレだ。お前もそれは思う訳だろう?」
「それは否定しない」
「じゃあさ」
レイニーの目つきが鋭く変わった。先ほどよりも真剣な表情だ。声も少し潜めている。静かな迫力があった。
「なんだよ」
若干気圧された僕は、思わず半歩だけ後ずさる。
「この町を変えてみたいって、思わないか?」
その言葉が意味する所を、僕は一つだけ知っている。
「お前、まさか」
レイニーは僕の目を観察し、それから肩をすくめた。
「なーんてね。そんなこと本当に考えるわけないだろ。怖い奴らが追っかけてくるからな。けどまあ、もしもお前にそんな気があるのなら、相談ぐらい乗るぜ。遠慮なく連絡してくれ」
それじゃあまたな、と言ったレイニーは、手を軽く振って歩いていく。
僕はレイニーの背中を呆然と見送りながら、彼が言った言葉の真意について考えていた。彼は本当に冗談で言ったのだろうと思いたい。だが、もしも本気で言っていたのだとしたら?
解放戦線という言葉が、チラとの頭の中を横断した。
レイニー・スヴェクルとは、僕と凛が加藤真由美と友達になって一年程が経ってから知り合った。その頃には僕と凛は互いに兄妹として認め合っていたし、真由美とも頻繁に遊ぶようになっていた。そんな頃に出会ったレイニーは、いわゆる悪ガキという奴だった。
当時の僕らは毎日のように遊び回った。特にレイニーが主導になって、あちらこちらへ連れ回していたように思う。僕は毎日が楽しかったし、凛も毎日笑っていたのだ。
ある時レイニーが一枚のメモリーチップを拾ってきた。そして真由美の端末でそのチップを調べてみると、それは音楽チップだった。
「音楽って何?」
と、凛が尋ねた。僕も知らなかったから、首を横に振ってレイニーを見た。
「なんだよ。知らないのかよ。音楽ってのはなあ、つまり、音が鳴って、それを聴くものなんだよ」
得意げにレイニーは答えるが、いまいち要領を得ない回答に僕と凛は首を傾げた。
「音を聴いて、どうするの?」
再度、凛が尋ねる。レイニーはそれに対して、「つまりだな、その」と言葉を濁した。
「とにかく聴いてみよう。そうすればきっと分かるさ」
見るに見かねた真由美がそう提案して、ようやく音楽が再生された。
その時に流れたのがリリー・シュナイゼルの『出発』だった。あまりに綺麗な音の連なりに、僕らは言葉を失った。
「……お、おい? 凛ちゃん? 大丈夫か?」
曲が終わると、レイニーは戸惑ったように声を発した。見ると凛は涙を流していた。
「だ、大丈夫、だけど……あれ、変だなあ」
凛は何度も手で涙を拭う。しかし涙はとまらない。零れては落ちていく。
当時の僕らはそれが感動という言葉で説明できることを知らなかった。しかしその場にいた誰もが、それが何か神聖なものに感じていた。
「……音楽って、すごいんだね」
ようやく落ち着いた凛は、レイニーに言った。
「ああ。うん、実際の所、俺もよく分かってなかったんだな。音楽って本当は凄かったんだなあ。――そうだ。よかったら、これお前にやるよ」
レイニーは取り出した音楽チップを手に持って、凛の方へと伸ばす。
「え、いいの?」
「うん」
「ありがとう」
凛は満面の笑顔を浮かべて、レイニーに言った。
それから毎日のように凛は『出発』を聴き、真似をして歌うようになった。歌は僕と義父はもちろん、真由美やレイニーにも聴かせた。
義父が亡くなり、暫くしたある時だった。レイニーは真剣な面持ちで僕の前に現れた。
「俺、凛ちゃんに告白する」
その頃には僕にもレイニーが凛の事を好きでいる事を感じ取っていたから、僕はついにこの時が来たと思ったものだ。衝撃的だったのは、次の瞬間だった。レイニーは長袖を捲った。中から出てきたのは機械化された右腕だ。
「レイニー、それは?」
「ああ、かっこいいだろ。こいつのために働いた金のほとんどを貯金してきたんだ」
実のところ、凛は機械化が嫌いな素振りを今まで見せた事がなかった。だからこの時の僕は、凛が機械化を嫌っている事を知らなかった。いや、そもそも知っていたとしても、当時のレイニーを止める事が出来たかどうか分からない。それほどまでに、レイニーの眼差しは真剣だったのだ。
結果、レイニーは振られ、凛と出会うのを避けるようになり、僕とも段々と疎遠になっていったのだった。
「今日、久しぶりにレイニーに会ったよ」
ベッドで横になっている凛に対して、僕は言った。
「そう」
目だけを僕に向けた凛は、素っ気なく返事をする。やはり今でもレイニーの事は嫌いなのだ。それが機械化に由来しているのは明白だった。僕の事も、ばれたら嫌われるに決まっている。二度と顔も見たくない、と言われてしまうのかもしれない。家族としての絆は、きっと崩壊してしまうだろう。
「あいつは、元気そうだったよ。それに凛の事、心配してた」
「……レイニーの事は、どうでもいいわ」
身体を起こした凛は、僕を見た。真剣な眼差しだった。
「それよりも兄さん……もしかしたら隠し事してないかな?」
どきり、と心臓が鼓動を打ち鳴らす。
「いいや、してないよ」
僕は平静を装って首を横に振った。相変わらず凛の勘は鋭いらしい。
「なら、いいんだけど……。でも、もし心配事とかがあるなら、私に相談してね。私……何もできないけど、それでも……兄さんの愚痴とか、悩み事とかなら聴く事ができるもの」
「ありがとう。けど、僕は大丈夫だよ、凛」
「それならいいんだけど……」凛は不安そうに視線を下に向ける。「最近、夢を見るの。とても怖い夢。それはある日、兄さんが何処かに行ってしまって、それで私、この家の中でたった一人だけになってしまうの……。とても寂しくて、怖くて、夢の中で私は沢山泣いて、そして、それしか出来ないから、私は死んでしまうのよ」
小刻みに震えている凛の細い身体。弱々しい表情は今にも泣き出しそう。
「心配するな、凛。ただの夢さ」
僕は思わず凛の髪を撫でたくなった。凛の身体を抱きしめたくなった。だが、この両腕は機械になってしまっている。凛に触れてしまえば、きっとばれてしまう。だから動きたがる手と身体を僕はぐっと押し止めて続ける。
「何度でも言うけど、僕は大丈夫さ。少なくとも僕は死ぬまで凛の側にいてやるんだから」
僕はもう一度決意を強くする。凛に寂しい思いをさせないためにも、悲しい思いをさせないためにも、怖い思いをさせないためにも、僕は生きてレースから帰らなくてはならない。
「うん……。兄さん、ありがとう」
凛は僕を見て小さく笑った。
レースまであと三日。
僕は目が覚めて、身支度をする。それから簡単な朝食を作ると凛の部屋へと向かい、凛と一緒に朝食を食べた。ここ最近の凛の体調は安定している。酷く悪くなる事は殆どない。だからと言って安心するわけにはいかないけれど、こうして凛と共に時間を過ごせるのは幸せだった。
本当はレース何て危ない事をするべきではないんだろう。今すぐにでも辞退するべきなんだろう。そうした思いが僕の胸に強く現れるのも、凛と過ごしている時だった。このまま上手く機械化された腕を隠し続ければ、凛と幸せな時間を過ごす事が出来るのだ。
しかし、それが甘い考えであるのは十分に承知していた。このままでは凛の命が短いのである。それを僕が許す訳がない。しかも僕の機械化された腕を隠し通すのにも限度がある。きっといつか破綻してしまう日が来るだろう。
だから僕は立ち止まるわけにはいかないのだ。
「行ってきます」
と、僕は言うと、凛は「いってらっしゃい」と微笑んで返す。
そうして僕は家を出る。別に用事はないけれど、凛にはまだ仕事をしていることになっているから仕方がない。変に家に残って凛に疑われでもしたら、それこそ本末転倒だ。
だから僕は当てもなく町の中を歩いていく。僕は様々な人々が通り過ぎていくのを眺めながら、彼らはアンダーシティについてどう考えているのだろうかと思いを馳せる。例えばレイニーはこの町を嫌っている。クソッタレだと思っている。恐らく大多数の人々がそんな風な考えを抱いているのだろう。いつかはグラウンドシティへ、そんな志を抱いている人たちだってどこかにいるに違いない。あるいは汚くて危険で悪臭漂うこの町の事を、好きでいる人だっているのかもしれない。
「洋じゃないか。奇遇だなあ」
僕に声をかけたのは、加藤真由美だった。聞けば仕事に向かう途中だと言う。
そういえば真由美はこの町の事をどう思っているのだろうか。僕は疑問をぶつけてみた。
「この町の事、か。そうだな。嫌いにはなれない、それが答えかな」
「それはどういう意味?」
と、僕は尋ねる。
「この町には、悪い所が数えきれないぐらいある。空気が悪い、治安が悪い、ろくな仕事がない。他にも色々あるね。こうして並べるだけで嫌いになれる要素は十分過ぎる程ある。だけど私には、自分でも不思議なぐらいこの町の事を憎めないのさ。なぜならこの町には洋がいて、凛ちゃんがいるし、ついでにレイニーもいる。私には、それだけでグラウンドシティよりも魅力的なんだ。もちろん私はグラウンドシティについて大した事は知らないさ。きっととても素晴らしい所だろうけど。だけど、そこに君たちがいない。それだけは間違いないし、疑いようのない事実だよ。しかしまあ、この町には嫌いにならない方がおかしいぐらいの欠点が山ほどあるのも事実だね。だから私は、嫌いになれないと答えたのさ。好きになるにはマイナスが多すぎるからね」
真由美の答えは、僕を恥ずかしくさせ、同時に嬉しくもさせた。しかし、真由美の答えはつまり、僕らがいることが前提なのだった。
「……つまり、僕らがグラウンドシティに行ってしまったら……?」
「大嫌いになるね」僕の問いかけに、真由美は即答する。「さすがにレイニー一人だけでは敵わないからね。けれど、そうだなあ。そう言えば君たちがグラウンドシティに行った時の私の気持ちという奴については、洋の事が心配すぎる私にとって、深く考えてこなかったな。この町の事が大嫌いになるのは間違いないと思う。とても悲しくて寂しくなるに違いない。それから沢山泣くだろう。でも、その後私がどんな行動に移すのか……想像もつかないな」
グラウンドシティに行く事は、僕と凛だけの問題だと心の何処かで思っていた。だから僕はこういう風に影響を与えてしまう事は頭になかったのだ。真由美をグラウンドシティに連れて行く事が出来たら良かったのに。
「迷ったら、駄目だよ」真由美は僕の心を読んだかのように言う。「君は行くべきさ。凛ちゃんを助けるんだろう。大体とっくの昔に私を振ったんだ。私の事なんて気にしたら駄目さ。君は後ろの事なんて気にしたら駄目なのさ」
「……もちろん、分かってる。だけど、さ。真由美をグラウンドシティに連れて行けたら、どんなに良いだろうかって考えてたんだ」
「ああ、それはとても素敵だね。想像するだけで身悶えるよ。けれどね、うん、それは叶わない夢でしかないさ」
「けどさ、グラウンドシティに行く方法は他にもあるんだ。真由美だったら、叶えられると思うんだよ」
「それはただの希望的観測だよ。夢って奴はね、儚いんだよ。一夜で消えてしまうんだ。そんな儚い奴を捕まえるのは、ごく一部の人間だけなのさ。それは才能が有る無しの話じゃないんだ。努力の問題だけでもない。いろんな要素があって、そいつらが上手く噛み合って、ようやく夢は叶うんだよ。そして抱いた夢が大きければ大きいほど、叶うのは難しくなってしまうのさ。当たり前の話だよ。凛ちゃんだって、そうだろう? 彼女には才能があったと私も思っているし、おまけに努力家だった。だけど今、凛ちゃんは夢を叶える事が出来ない状況にある。もちろん今、可能性が全くなくなった訳じゃないさ。けれどそれは、君というシスコンがいたからこそであって、凛ちゃんだけだったら……」
「無理、だろうな」
「そう、そうなんだよ。凛ちゃんには君がいて、君が無理をして手を伸ばしているから、今、凛ちゃんの人生の先が繋がろうとしている。それに、グラウンドシティの医学が本当にとてつもなく優れているのなら、凛ちゃんは再び歌を歌えるようになるかもしれない。こんな風に言うのは私としてはとても不本意なのだけれど、凛ちゃんの人生は洋にかかっているんだよ」
「分かってるさ。だから僕は必ず凛を連れて行く。凛の夢を叶えさせてやる。そのためなら、僕は何だって捨てられる」
「だからこそ、洋は私の事なんて気にしちゃだめなんだよ。洋の手は、凛ちゃんで埋まってしまっているのさ。そこに私を加えようとすると、洋はきっと失敗してしまう。だから私を捨てていくしかないんだよ、洋」
「分かってるさ、もちろん分かってる。僕は凛で手一杯ってぐらいはさ」と、僕は言う。「けどさ、今は、今ぐらいは、真由美の事ぐらい頭の片隅に置いておきたいんだ。僕の提案も単なるわがままだってことぐらい、分かってるさ。グラウンドシティに僕らが行けるようになるには、並大抵の事じゃ済まない。両手両足を捧げても、それでも行けるかどうか分からないような場所なんだ。無茶なお願いだってぐらい、分かってるんだ。――それでも、それでもさ」
不甲斐ない事に、僕は次の言葉が思い浮かばなかった。後三日の後で、レースの勝利に関係なく、少なくとも僕は真由美と別れなくてはならないのだ。だから僕は、少しでも真由美に何か気の利いた事を言いたかったのだ。しかしグラウンドシティに行ける人間は、それこそ限られている。簡単な方法なんて何処にもないのである。
「……ありがとう、洋」真由美は微笑む。「それだけでも、私にはもったいないぐらいだよ」
僕らの間にこれ以上の会話はなかった。だからそのまま真由美が働いている工場の前に行き、簡単な別れの挨拶をしたのだった。
それからさらに彷徨い続けた僕は、鉄屑が辺り一面に捨てられた広場に到着した。ここは懐かしい場所だった。義父と出会い、拾われた場所だった。
鉄屑の上を踏みしめて進んでいく僕は、自分の脳裏に義父との思い出を思い描く。僕らはボールを蹴り合って遊び、凛の歌声に聞き惚れ、慎ましい食事を三人一緒に食べたのだ。あるいは時に義父がくだらない冗談を言って僕と凛とで笑い、あるいは字の書き方や計算の仕方を教わった。夜遅くまで遊んで、怒られた時だってある。僕らはいつだって義父の愛情に包まれていた。
僕は立ち止まって上を見上げた。アンダーシティを閉じ込めているグレーの天井が今日も変わらずそこにある。そしてその上には、グラウンドシティが広がっているのだ。僕と凛にとっての希望の場所。あるいはほぼ全てのアンダーシティの住民にとって憧れの場所。
かつて義父は「俺もあの上の世界に行ってみたいとよく思ったもんだ」と、懐かしそうに目を細めながら言った。今ではもう、義父が若かった頃になにをしていたのかを確かめる事は出来ない。だけど義父も、グラウンドシティに憧れていた時期があったのだ。
現在の僕を義父が見たら、どう思うんだろうか。馬鹿な真似は止めろと止めるのか。それとも応援してくれるのか。
地面に視線を向けた僕は、手を伸ばして錆だらけの鉄パイプを掴みとった。僕はこの鉄パイプと同じような鉄屑だった。いらなくなって捨てられて、錆だらけで使いようにならなくなった代物だった。それを義父が拾い上げて、丁寧に磨いて、弱くなった所を修繕した。そうしてまた壊れた部分を機械で修理し、この場所に立っている。
思えば義父も、機械化になる事を拒んだ人だった。単純にお金がなかったという理由もあったろう。しかし義父は、凛程の嫌悪感とはいかないまでも、自分の身体が機械になる事自体に対し、抵抗感があったことは確かなようだった。もしかしたらその辺りに、凛が機械化に関して過剰な嫌悪感を抱く理由があるのかもしれない。
僕は義父の最期の言葉を思い出す。
「俺はとても幸せ者だ。何せ二人も俺のために泣いてくれている。それ以上の事があるか」
汚いベッドに伏せていた義父は、ガリガリに痩せ衰えて、全身から力という力を感じ取る事が出来なかった。にも関わらず、義父は満足げに、力強く笑っていた。死ぬという事に、後悔も恐怖も感じていない様子だった。せいぜい凛の花嫁姿を見る事が出来ないのが、唯一の心残りだと言う程度だった。そうして義父は、嬉しそうな笑顔を張り付かせたまま息を引き取った。本当に静かに、その命を全うしたのだ。
凛は泣き、僕も泣いた。後にも先にも、あんなに泣いたのはあの日だけだった。
義父の死を悲しんだのは、もちろん僕と凛だけではない。加藤真由美は義父の死に顔を見た途端、これまで聞いた事もないような大きな声で号泣し、義父の死を聞いたレイニーは、生身の左腕で壁を思い切り殴っていた。近所に住んでいる人々も同様に、深い悲しみをそれぞれの形で表現していた。
それらは義父という人間が偉大な男であったことの証左に他ならないと僕は思う。例え世界中の人間が義父を否定したとしても、僕は義父がこの世で最も尊敬でき、かつ偉大であったと強く宣言する事が出来るのだ。
僕は手にしていた鉄パイプを軽く放り投げた。緩やかな放物線を描いて飛んでいく鉄パイプは、がしゃんと何処か寂しげな音を立てて着地する。
僕は少しだけ泣いた。
家から持ってきていた簡単な昼食を食べた僕は、再び町の中を練り歩きながら、どうしてこんなにも町の中を歩いているのかを自分に問いかける。いつもなら、町の図書館にでも寄って、データ書籍を適当に読んで暇を潰して過ごしている所だった。けれど僕はそんな気分にはならなかった。僕はこの町の事を今のうちにもっとよく見ておきたくなったのだ。だから僕は飽きもせずにこうして歩き続けているんだろう。
そう結論しながらも、どうして僕は見ておきたくなったのかが不可解だった。今までこの町で過ごしてきたのだ。うんざりする程この町の事を見てきていたはずだった。それなのに僕は、今日こうして歩き回る事で、普段見つけられなかった事を見つけてしまっていることに気が付いてしまった。
例えばそれは、路地裏に描かれた落書きだった。色鮮やかな色彩で描かれたそれは、灰色ばかりのこの町にちょっとした刺激を与えているようであった。
例えばそれは、路上から生えている緑色の草だった。植物が生えているだけで奇跡的だから、誰もが草を踏まないように歩いている。力強く命を輝かせる何気ない草に、みんなが和んでいるようだった。
くそったれなこの町でも、探してみれば意外と良い所があるのだ。ただ誰もそのことに気付かない。いや、本当は知っているのだ。気付いているのだ。見ているのだ。けれど、誰もが知らない振りをし、気付いていない振りをし、見ていない振りをしているのだ。そうして、目立ちに目立っているくそったれな部分を指差して、くそったれだと指摘するのだ。それは事実だから、誰もが頷き同意する。
だけど僕の義父は僕を息子にしてくれた。凛は僕を受け入れてくれた。真由美とレイニーは友達になってくれた。勤めいてた会社の社長は、二つ返事で僕を雇ってくれた。居酒屋でたむろしているおっさんたちは大きく笑い、子供たちはぼろぼろの服を着て遊び回っている。
とても小さくて、だからこそ目立たなくて、しかし確かに存在しているのだ。
僕はどこかすっきりとした心持ちだった。深く考える必要なんてどこにもなかったのだ。この町はくそったれだ。だが、良い所だって沢山ある。僕は意外とこの町の事を気に入っていたのだ。だからレイニーに質問されたとき、僕は変えたいとは答えなかったのだ。
晴れやかな気分だった。歩幅は自然と大きくなった。くそったれな町の灰色が、いつもよりも明るく見えた。
そんな矢先だった。
爆発音がした。
思いがけない事に驚愕した僕は、慌てて音がした方へと視線を向ける。暗い灰色の煙が、もうもうと上へと舞い上がっている。周囲のざわめきを耳にしながら、僕は、爆発が起きた方向に真由美が働いている工場があることに思い至った。
思わず駆け出す。胸中に宿る不安を押し止めながら、人の波を避けていく。
「マジかよ」
辿り着いた瞬間、僕は呆然と呟いた。煙の主は真由美がいる工場で、燃え盛る炎が窓から吹き出していた。
視界の端にレイニーが映るのに気付いた僕は、すぐさま駆け寄って声をかけた。
「レイニー、これは一体?」
「やってやったぜ」
そう言ったレイニーは、にやり、と笑った。
「どういうことだよ?」
「あの工場はな、グラウンドシティーにとって重要な工場の一つなんだ。もちろん、こいつ一つを潰したからと言ってすぐに何かが変わるってわけじゃないけどな。奴らに一泡吹かせてやることに成功したよ」
僕はレイニーの顔面を殴った。怒りでどうにかなりそうだった。
「な、何するんだ!」
尻餅を突いたレイニーは、頬を押さえながら激昂した。
「お前。あの工場で真由美が働いているのを知っていたのか?」
「は?」愕然と呟くレイニー。「なん、だって?」
僕は舌打ちをした。
「真由美! 真由美はいるか!」
僕は叫びながら周囲を見回すが、真由美らしい姿は見えない。けれど僕の声に反応した壮年の男性が近寄ってきた。作業着を着た彼は、煤で真っ黒になっている。
「加藤真由美さんのお知り合いですか?」
と、彼は聞いた。
「はい。あなたは?」
「私はここの工場長です。まだ中に何名か取り残されていて……もしかしたら真由美さんも……。すみません。私も自分の事で精一杯でして……」
心底疲れた様子で言う彼に対して、僕は「いいえ。教えてくれてありがとうございす」とだけ返した。
続いてレイニーを見ると、真っ青になった顔で工場の方を見つめている。だが僕は声をかけずに走り出した。レイニーに構っていられない。僕は迷う事なく工場の中へと突入した。
工場の中は炎と煙で充満していて何も見えない。真由美の名前を大声で呼んでも、ごおごおと唸る炎の声に掻き消されてしまう。
僕は炎の勢いが弱い所を探して進む。真由美はこの先にきっといるはずだ。だから信じて真由美の名前を呼び続ける。
そうして、音が聞こえた。僕の希望が空耳を起こしたのだろうか。逸る気持ちを抑えながら僕は呼びかけるのを止めて耳を澄ませる。
すると確かに、聞こえてくる。炎の唸り声に混じって、本当に微かだけれど真由美の声が。この声は空耳ではない。何度も何度もこれまでの人生で聞いてきたのだ。間違えるはずがない。
「真由美! どこだ!」
僕が持つあらん限りの空気を振り絞って声を張り上げる。
「ここだよ!」
すぐに真由美の声が返ってくる。声の方へ顔を向けると壁が行く手を遮っていた。扉を探すも周囲は分厚い炎に囲まれている。
僕はすぐに決断する。
「真由美! 壁から離れていろ!」
「分かった!――オーケーだ!」
左腕の全力を使って目の前の壁を殴りつけると、轟音と共に大きな丸い穴が開いた。すぐさま中に入った僕は、真由美の姿を探す。
「洋!」
僕の姿を見つけた真由美は、そう言って抱きついてきた。真由美らしかぬ行動に狼狽えた僕は、宙に浮かした両手でいたずらに空気を掻き乱す。
「ま、真由美? 大丈夫だったか」
「ああ、君が来てくれたおかげで大丈夫さ。何しろきっと君が助けに来てくれると、何の根拠もなく信じていたからね」
「僕が助けに来る事が出来たのはほんの偶然だよ。たまたま近くを通りかかったんだ」
「偶然だろうとなんだろうと、ともかく君は来てくれた。そもそもあの炎の中を通る勇気がある人は、君ぐらいな命知らずぐらいだけさ」
「心外だな。僕は何よりも自分の命を守らなきゃいけないんだ。そのことは君がよく知っているだろう」
「もちろんさ。そして君は、こういう時、自分の命の事なんて何も計算に入れないってこともね」
「まあ、それは、否定できないな」
僕はここでようやく、部屋の中に数人いる事に気が付いた。その中の一人、真由美よりも少し年下ぐらいの少年が口を開く。
「あ、あの、真由美さん? その人は?」
「私の想い人さ」不敵に笑いながら言った真由美は、僕から離れて続ける。「ま、振られてしまったがね」
こんな状況下だというのに、真由美の冷静さには恐れ入る。と、思いたい所だが、真由美が抱きついて来たとき、真由美の身体は震えていたのである。部屋の中にいる数人の顔をを見れば、誰も彼もが歳若い。きっと真由美は、みんなを不安にさせないために気丈に振る舞っていたのだろう。真由美はそういうことが出来る女の子なのだ。素直に強いと思う。
「それで真由美、一番外に近い方角はどっちだ?」
真由美が頷き、指差した方向には壁がある。僕は左手を振るって壁を打ち破り、外に向かって一直線に進んだ。
そうして僕らは、無事に脱出する事が出来たのだった。
いつの間にか到着していた消防ロボットの集団が消火活動を始めていく中、真由美以外の人々が、口々に礼を言って家に帰っていく。
最期の一人を見送ると、僕は真由美の肩に手を乗せた。
「お疲れ」
そう僕が言うと、真由美は顔だけを上に上げて、上目遣いで僕を見た。
「うん」
と、力なく呟いた真由美は、急に力が抜けたように僕に倒れかけて来た。僕は慌てて真由美を支える。
「おい、本当に大丈夫なのか?」
「……ああ、大丈夫だよ。どこも怪我はしていないさ。ただ、ほんの少しだけ、疲れただけだよ」
「そっか」
「ありがとう、来てくれて。本当は不安で一杯で、怖くて怖くて仕方がなかったんだ。もう駄目かと思ったよ。口に出しては言わなかったけれどね。だから君の姿を見たとき、本当に嬉しかったんだ」
それでつい抱きついてしまったよ、と真由美は微笑んだ。
「今日は僕の家に寄っていけよ。それで三人で一緒に飯を食べよう」
「うん、すまない。お言葉に甘えさせえてもらうよ」
僕らはゆっくりと帰路についた。
「ど、どうしたの? 兄さんと真由美さん? すごく疲れた顔をしてる」
凛は僕と真由美を見た途端に驚愕で目を見開いて言った。
僕らは晩ご飯を食べながら事の顛末を語った。だが、レイニーの事を僕は話さなかった。
真由美は泊まった。
凛の様子は少しおかしかった。どうかしたのかと聞いても、曖昧に誤摩化すだけで、答えてくれない。
そうして、翌日。
僕は会社を休みにしたことにして、一日家にいる事にした。真由美の工場も暫くは稼働する事が出来ないから、真由美も今日一日は、僕の家で過ごす事になった。別に僕や真由美がそう言った訳はなく、凛の強い要請だった。
昼になった。昼食を終えた僕らは、凛の部屋にいた。
「ねえ、兄さん」
と、凛は言った。不安そうな瞳だった。
「どうした?」
「頼みがあるの」
「頼み?」
「手を、握らせて欲しいの」
絶句した。それでも僕は平静を装って、
「……どうして?」
と、返した。
真由美は固唾を飲んで僕を見ている。
「最近、不安なの。それで兄さんの手を握って、安心がしたい」
「真由美のじゃ駄目なのか?」
「だめ。兄さんのがいいの」
僕は覚悟を決めた。手を差し出す。凛は細い手をそろそろと伸ばし、手を握った。
「……やっぱり」
力なく凛は呟いた。それから、怒りに満ちた眼差しで僕を睨みつける。来るべき時が来たと、僕は思った。
「裏切り者」
凛の言葉は鋭いナイフのように僕の胸を抉りとる。
「……ごめん」
僕はこれ以外の言葉を見つけられなかった。覚悟はしていたつもりだったが、いざこの時が来ると、自分で想定していた以上のショックがあった。それでも僕は言い訳をしないと決めていた。
「――出てけ。もう二度と来るな。顔も見せるな」
凛は静かに、しかし強い口調で言った。
真由美は何かを言おうとしているのが気配で分かった。何も言わない僕の代わりに、説明をしようとしているに違いない。だけど僕は凛に対して何も言うつもりがなかった。だから僕は真由美を手で制す。
「……凛の事、頼むよ」
そう言って立ち上がった僕は、静かに家を出たのだった。
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