第二話 リハビリ

 夢を見ていた。幼い頃の夢だ。

 鉄屑で埋め尽くされた広場。そこで僕は泣いていた。

 けれどここで、僕の目は覚めた。

 呆とした頭は、現状の認識を優先せずに、夢の続きを考えていた。この後はきっと、死んだ義理の父親が現れるのだろう。義父は僕の手を握り、2、3言だけ何か言うと、自分の家に連れ帰るのだ。自分の息子にするために。

 そうした思考は、頭がはっきりしていくにつれて片隅に追いやられていった。代わりに現れたのは、視界に映った光景についての考察だ。

 純白の天井が広がっていた。僕は柔らかなベッドの上に寝かされているようである。自ら斬った左腕には、白い包帯がぐるぐると巻かれている。

「起きたね」

 ふと声がした。僕は声の方へと顔を向けた。心配そうな顔をした加藤真由美が丸椅子に座っている。

 どうして、と聞く前に、真由美は僕が知りたかった答えを言ってくれた。

「ここは病院さ。……あの後に、やっぱり心配になって、アドバンスレース場で待っていたのさ。いや、びっくりしたよ。唐突に洋が担架に運ばれてきたんだからさ、それもそんな状態で。それであれから――そうだな、2時間ぐらいしか経っていないかな」

「……ごめん」

「謝ることはないさ。むしろ私としては、生きて帰ってきてありがとうと言いたい所だしね。でね、レースの方だけれども、洋の代わりに私が説明を聞いておいたよ」

 ふいに、僕は気づく。真由美の目は赤く充血していた。けれど僕は、あえて気づいていない振りをして尋ねた。

「そっか。ありがとう。それでなんて言ってたんだ?」

「次のレースは一週間後だそうだ。時間は今日と同じ。辞退するなら申告すればいいそうだよ。……もしも辞退するのなら、私が伝えようか?」

「いや、しないさ」

 そう言ってから、ようやく思い出す。凛である。今頃僕の帰りを待っているに違いない。

「早く、帰らないと……」

 思わず、僕はそう言った。反射的と言って良かった。しかし真由美は、真剣で、かつ悲しそうな眼差しをして遮った。

「……そんな怪我で?」

「あ」

 その通りだった。何しろ今の僕には左腕が無いのだ。こんな状態で凛の所に帰るというのか。全く僕は馬鹿である。凛が心配しないはずが無い。

 だが、どうしろと言うのだろうか。まさか左腕が生えてくるわけでもなし、一体どのようにすれば凛が心配せずに済むのか。

「ほんと、洋って凛ちゃんのことになると、凄く心配そうな顔になるね。少しだけ、妬けるよ。きっと私に対しては、そんな風に考えることなんてないんだろうからね」

 呆れたような表情を浮かべて、真由美は言った。

「そこで、提案があるんだ」

 真由美は少しだけ後ろめたそうに視線を逸らす。

「……機械にするんだよ。なくなった左腕の代わりに」

 機械。

 つまり、凛が嫌いな機械化をしろというわけか。

 僕は失ってしまった左腕の先を見る。左腕が機械になった所を想像する。その結果、凛にどう思われるかを推測する。

 十中八九、嫌われるに決まっていた。凛がどれだけ機械化が嫌いなのかは、僕が一番知っているのだ。そして僕は、出来ることなら凛に嫌われたくなかった。

「不服そうだね」と、真由美は言う。「でも、それしかないんだ。例え凛ちゃんが機械化を受け入れないとしてもね。アドバンスレースで、洋は勝たなければいけないんじゃないのかい? 洋は、どんなことをしてでも凛ちゃんを助けるんじゃないのかい? それとも、あれかい。洋は、レースで片腕を無くしたっていうのに、これから先のレースも勝つつもりでいるのかい? 片腕がないというのにさ」

 真由美の一言一言が胸に突き刺さる。腕を斬った時よりも、傷口を焼いた時よりも、真由美の言葉は痛かった。

「頼む、からさ」真由美の目から、涙が零れ落ちた。「機械化を決断してくれ、洋。私は、ただでさえ心配で心配で、胸が張り裂けそうだって言うのにさ。君は、無茶に無茶をかさねて、そのまま死んでしまうつもりなのか? 私に、止めを刺そうとしているのか? そんなにも、凛ちゃんに嫌われたくないのかい?」

「……ごめん。機械化をするよ」

 僕は折れた。

「凛に嫌われる事なんか、気にする場合じゃなかったよな。レースで失敗したら、凛が助かるための唯一の希望がなくなってしまう。僕が死ぬことで凛が助かるわけじゃないのにさ。僕は、生きてレースをクリアしなければいけないんだ。そのためなら、例え全身が機械になってしまっても、その結果凛と絶交することになってしまっても、気にしてはいけないんだ」

 僕の話を聞いた真由美は、悲しそうに笑った。真由美の両目から、止めどなく涙が流れていった。

「ほんとに、洋は馬鹿だよ。凛ちゃんにはもちろん死んでほしくないさ。でも、洋にだって、生きていて欲しいんだよ。ほんとに、馬鹿だよ」


 左腕の機械化は、思ったよりも簡単だった。何しろ殆どの作業は、全て機械とコンピュータによって行われたからだ。医師はただ、機械とコンピュータの補助に努めただけで、あとはせいぜい傷口の消毒などの簡単な処置を行うだけであった。

 新しい左腕は、いかにも機械だった。剥き出しになっている鉄、かすかに聞こえるモーター音。人工皮膚を被せて生身の腕らしくすることも可能らしいが、それには予算が心許なかった。

 装着間もないせいもあって、機械の左腕には違和感があった。時折思い通り動かないこともある。医者が言うには、三日ほどのリハビリで通常通り動かせるようになるらしい。アドバンスレースの第二ステージは一週間後だから、十分に間に合う計算である。

 しかし差し当たっての問題は、凛である。

 医師の説明が終わった後、真由美は提案した。

「帰る前に、服を買うことにしようか」

「服?」

「うん。ああは言ったものの、やっぱり私も、洋が凛ちゃんに嫌われる姿なんて見たくないからね」

 真由美はそう言って、僕を服屋に連れて行った。店の中は、所狭しと服が並んでいる。全て新品のようだった。どれもそれなりの値段がかかりそうである。

「古着屋にしてくれないか? 左腕のおかげで、第一ステージで手に入れた賞金は殆ど無くなってしまったんだよ」

「大丈夫だよ」真由美ははにかんで言った。「なにしろ私がおごるんだからね」

「いやいやいや、悪いよ。真由美もお金がないことぐらい、知ってるんだから」

「ふふん。気にするものではないよ。服一着ぐらいで洋に喜んでもらえるなら安いものさ。それに洋とは、きっともう会えることがなくなるだろうしね。これは私なりの餞別なのさ」真由美は不敵に笑いながら、ハンガーに掛かっている服を一着一着丁寧に手に取って見ていく。「でもその代わりに、服を選ぶのは私に任せてくれないか。大丈夫。これでもセンスだけは自信があるんだ。決して君を格好悪くはさせないさ」

 僕は承諾した。

 真由美は選んだ服を僕に渡して、次から次へと試着させていく。僕は着せ替え人形にでもなった気分だった。文句でも言ってやろうか、そんな風にも思う。

 しかし、真由美はとても楽しげなのだ。ここ最近見たことが無いほどに、真由美は笑っているのである。こんな表情を見てしまったら、閉口するしかなかった。特に、僕が原因で真由美を何度か泣かしてしまっているのだから。着せ替え人形で真由美が笑ってくれるのなら、いくらでも人形になろうではないか。

 ひとしきり僕を着せ替えると、真由美はようやく満足したようだった。僕の意見をごく僅かに取り入れながら決めた一着を真由美は購入して、店主の許可を取ってからその場で僕は着替えた。それでようやく、僕らは帰路についたのだった。


 凛はベッドの上で上半身だけを起こして、壁掛け式の端末でテレビを眺めていた。特に面白い番組ではないらしく、実につまらなそうな顔だった。けれど凛は、僕と真由美が部屋の中に入ってきたのに気づかない。凛の意識は、風船に括りつけて中空にでも放り投げてしまったかのようだった。

「ただいま」

 僕が声をかけることで、凛はようやく気づいた。

「お帰り」凛は微笑みながら振り返り、僕を見た途端に目を見開かせる。「その服どうしたの? それに真由美さん、どうしてここに?」

 凛の不思議がった表情は、それからすぐに合点したような顔へと変化した。

「ああなるほど。ようやく兄さんは、真由美さんと付き合い始めたのね。それで私に報告と……」

 ふむふむと頷きながら凛は言った。

「それが残念なことに違うのさ、凛ちゃん」即座に否定したのは、意地の悪い笑みを浮かべた真由美だった。「私は振られてしまってね」

 凛は目を丸くし、そうして僕を鋭く睨みつける。

「どういうことなの兄さん」

 強い口調だった。凛は怒っていた。けれどその声は、やはり以前のような大きな声ではなく、静かな声だった。

「兄さんが真由美さんと付き合わなかったら、いったいこの先だれと付き合うというの。兄さんのことを認めてくれる女性なんて、私を除けば真由美さんぐらいしかいないじゃない」

 反応を示さなかった僕に対して、凛は気にせずに捲し立てた。それからげほげほと激しく咳き込む。興奮したせいに違いない。

 僕は凛の背中をさすった。凛は僕を見上げる。すごい剣幕だ。

「まあまあ」と、真由美は取りなした。「私が振られたのは仕方の無いことさ。それだけ私に魅力がなかったということなのだからね。まだまだ女として精進が足りなかったんだよ」

「……真由美さんに魅力がないわけがないじゃないですか。この馬鹿兄さんが、真由美さんの魅力に気づけないのがいけないんですよ」

 全く、これでは僕が悪役のようではないか。

 凛はそれからまた、何かに気づいたような顔をして、僕と真由美の顔を交互に見た。僕の胸の内に不安がよぎった。

「もしかして……」凛の視線は沈み込んだ。「私の……せい? 私がこんな病気だから、真由美さんを迷惑にかけられない。そんな訳なの? 兄さん?」

 妹の勘の鋭さには、時々本当に肝が冷える。

 僕は真由美の顔を見た。気まずそうである。何かを言わなければ。

「そうじゃないよ、凛」

 僕は、肺臓の奥底からどうにか声を絞り出した。しかし何を言えば凛が納得するのか分からない。

 凛は僕の言葉を待っている。

「そうじゃない。問題があるとすれば、僕の方なんだよ、凛」

 どういうことなの? そんな風に凛の目が問うている。

「真由美は、僕みたいな甲斐性なしと一緒になるべきじゃないんだ。なにしろ僕なんかよりも良い野郎は、その辺りにごろごろいるだろうからね」

 咄嗟に出した嘘は、馬鹿みたいに自虐的であった。僕は一瞬だけ真由美に対して視線を送った。

「ふむ、実はそうなのさ」真由美は乗ってくれた。「そんな風に一も二もなく断られてしまってね。どんなに君ほど魅力的な男性はいないと力説しても、無理だ、駄目だ、相応しくない、と頑なでね。洋の新しい服は、せめて私の気持ちがどれだけ本気かを伝えるためにも、私からプレゼントさせてもらったのさ」

「はあ」凛は地の底に届きそうな溜め息を吐いた。「ごめんなさい真由美さん。妹としての意見は、兄さんと真由美さんが一緒になってくれることが一番良いと思うのですが……」

「うん。しかしもしかしたら、凛ちゃんのために断ったのかもしれないがね」

 と、真由美が言うので、僕はどきりとした。まさか本当の理由を白状してしまうつもりなのだろうか。

「どういうことですか?」

「これは個人的な見解で、洋は絶対に否定するだろうけれど」真由美は意地悪そうな顔をしながら、横目で僕を見る。「洋は友人の私から見ても、ものすごいシスコンだからね。凛ちゃんのことしか目に入らなくて、私なんか眼中になかったのかもしれない。もしも兄妹でなかったなら、洋が恋人になりたいと思う相手は凛ちゃんなのかもしれないと妬くほどにね」

 くすくすと笑いながら、真由美は僕をからかった。

「ああ、多分そうなんでしょう」

 驚くべきことに、凛は同意を示した。

「私から見ても、兄さんは私に構いすぎるように感じます。今やたった一人の家族なのですから、仕方が無いんでしょうけれど。ただ、妹としては、早く妹離れをして欲しいものです。……いつまでも一緒にいられるわけがないんですから」

 凛は寂しそうに言った。出来ることなら、ずっと一緒にいられるさ、と軽く声をかけてやりたかった。しかし今の凛に対してそんな言葉は、あまりに無責任だと思う。

「それに、兄さん」と、凛は言葉を続けながら僕を直視した。「兄さんは、そんなに駄目な人間じゃない。いくら何でも卑下しすぎ。兄さんは私が会った男の子の中では、マシな部類に入りますよ」

 凛は小さくはにかんだ。


 翌日、僕は医者の所に行った。左腕のリハビリをするためである。

 医者は、背もたれと肘掛けが付いた椅子に座っていた。年齢は40歳を超えたぐらいだろうか。広い額を隠さない程度の短さで、白髪が生えている。顔から下の右半身が機械となっているようで、不自然な膨らみが薄汚れた白衣の上から分かった。

「私は、所沢だ。今日から三日間ほどの日程で、君のリハビリを指南する」

 所沢と名乗った医者は、厳格な顔つきで言った。

「お願いします」

「ま、そんなに堅くなることはない。やることはとても簡単なことだ。ここで行うことの目的は、その機械の腕で問題なく日常生活を送るようになることだからね。実際の所、その腕は、使えば使うほど君の身体に馴染んでいく。今は違和感があるだろうが、すぐに問題なく使えるようになるはずだ」

 所沢はそう言って、左腕を出すように指示をした。

 僕は左腕を伸ばした。やはり動作がぎこちなく感じる。まるで自分の身体ではないようだった。

 所沢は機械の右腕を上げて、人差し指をまっすぐにする。人差し指の先端から、プラスのねじ回しが捻り出た。

「私も昔、アドバンスレースに参加したことがあってね」所沢は、人差し指のねじ回しを使って僕の左腕を開きながら、淡々と話し始めた。「結局第一ステージを命からがらクリアしたところで、リタイアしたのさ。この機械の身体は、その時にこしらえた怪我を治療するために作ったものさ。ま、医者になってから、大分改造を施したがね」

「どうしてリタイアをしたんですか?」

「ふむ。そうだな、恥ずかしい話なのだが……怖くなったのさ。第一ステージで本当に死に際にまで行ってね。クリアすることができただけでも奇跡的だった。それでもこの先のことを考えたとき、ぞっとしたね。第二ステージは第一ステージよりもずっと過酷になっているだろう。そうしたら、もっと恐ろしい目に会うのは間違いない。自分には耐えられそうにもなかった。例え、機械で自分の身体を強化したとしても、私は2度とあの恐怖を味わいたくはなかったのさ」

 所沢は、表情を一向に変えることがなかった。過去を懐かしむというよりも、ただ事実をありのままに話しているようだった。

 作業自体は、何の滞りなく進められていた。いつの間にかにカバーを外し、中の何かをいじっている。僕には何をしているのかが分からなかった。

「さて、と」作業は終わったらしく、所沢は一息を吐いた。「腕のリミッターを外させてもらったよ。これで本来の力を発揮することが出来る」

 その言葉を受けて、僕は、指を折り曲げてみる。しかし別に、力が増したようには感じられなかった。

「で、こいつだ」そう言いながら、所沢は、懐から黄色いピンポン球を取り出した。「左の指で、摘んでみな」

 僕は右手でピンポン球を受け取り、左手の人差し指と親指でそれを摘んだ。

 パキリ、と軽い音を立てて、ピンポン球はあっけなく砕けて散った。

 力を入れたつもりはなかった。むしろ、右手で摘むよりも、より慎重さを意識した。力を抜きに抜いた、はずだった。しかし、機械の指先は、あっけなくその力を発揮してしまったのだ。

「日常生活の中では、その力は逆に不都合だ。なにせ、壊す気はなくても、力を入れたつもりはなくても、上手くコントロールすることが出来なければ、勝手に壊れてしまう」

 僕は想像してみる。左手で、凛の手を握ることを。上手く力の加減が出来ずに、凛の手がぐしゃぐしゃになってしまうのだ。凛は感じたことのない恐ろしいほどの痛みを受け、泣き叫んでしまうにちがいない。

 思わず、ぞっ、とした。

「リミッターをかければ、平均的な成人男性程の力しか出なくなる。それに、少しばかりだけ、力の調節もしやすくなるだろう。私としては、そちらを薦める。しかし、君は、違うのだろう?」

 そう、その通りなのだ。僕はアドバンスレースをクリアしなければならない。

「リミッターは、かけません」

 そのためには、この機械の左腕が、絶対に必要なのである。

「加減の仕方を、教えてください」


 リハビリは想像以上に難しかった。何しろ普通の手ならば難なく出来ることなのだ。しかし機械の手に変わっただけで、こうも出来なくなるとは。まったく予想していなかったことだ。

 僕は今度こそと意気込みながら、左手でピンポン球を摘む。今までは摘んだ瞬間に割れたのが、今回は割れなかった。よし、と、思わず心の中でガッツポーズをする。だが次の瞬間には、ピンポン球はあっけなく四散してしまった。

「ふむ」

 所沢は重々しく頷く。

 逆恨みなのは分かっている。しかし、僕は所沢のその行為で少しばかり苛立った。何よりも上手く出来ない自分に対しても憤る。

「どうだ、なかなか難しいだろ」所沢は、相変わらずの無表情で言う。「こいつは神経と機械の疑似神経とが上手く馴染まなければ成功しない。だから、今出来なくて当然なんだ。気にすることはない。諦めずに何度も何度も繰り返せばそのうち出来るようになる」

 僕は右手で割れていないピンポン球をいじくる。結局所沢は、やるしかない、としか言わない。やはりそれしか方法がないのである。

 僕は右手で持ったピンポン球を、再度左手で摘む。そして割れる。

「ともかく、少し休もう」

 と、所沢は言うが、僕は首を横に振って断った。やるしかないのならば、何百個でも何千個でも割ってやろうじゃないか。なにしろこいつは、アドバンスレースほど過酷な訳ではないのだ。これぐらいできなければ、アドバンスレースをクリアすることは不可能だ。

「私はこの仕事を長い間続けてきた。当然アドバンスレースの参加者も数多く見てきた。だから、君のような患者も初めてではない」

 ため息をつくように所沢は言った。どういう意味だろうか。僕は左手でピンポン球を割り続けながら、視線で続きを促した。

「君はきっと、諦めという言葉を否定しているんだろう。どのような目に会っても、絶対に挑戦し続けてやる、そんな意志が君の目から窺い知ることが出来る。そしてそんな目を、私はたくさん見てきた。だが誰もが、アドバンスレースをクリアすることが出来ずに、2度と帰ってはこなかった。だから私は、レースに参加している人たちに対して同じことを言い続けた。私は君にも同じことを言おう」

 所沢は、僕の目をじっと見つめる。思わず僕の手が止まる。

「諦めろ。無理だ。死ぬだけだ」

 想像通りの言葉が、所沢の口から放たれた。僕は所沢の目を見つめ返した。

「諦めることはできません」

 僕の返答。所沢は大げさに肩をすくめてみせた。

「同じようなことをみんなが言ったさ」

 この台詞も、きっとみんなに言ったのだろう。

 所沢の表情は変わらない。

 僕はリハビリを再開した。

「まあ、しかし、一つだけ君にレースに対するアドバイスをすることができる。聞きたいか?」

 僕は頷いた。アドバンスレースの受付は、彼をレース専属の医師だと言って紹介した。きっとレースに対する蘊蓄を多く知っているのだろう。僕はそう思って、素直に耳を傾けた。何らかの情報を得ることが出来るなら、願ってもないことだった。

「もっとも、私は第一ステージしかクリアしていない身だ。これから言うことは、私自身の言葉じゃない。私の患者の中で、唯一クリアすることができた人間の言葉さ」

 勿体ぶった口調で、所沢は淡々と話す。僕は辛抱強く待った。

「前進しろ。後ろに進んではクリアできない。とにかく前へ進むんだ。――だとさ」

 少し拍子抜けした。

「それだけですか?」

「ああ、これだけだ。もともと口数の少ない無口な奴でな。この言葉はクリアした後に聞いたんだ。後学のために何か参考になりそうなことを言えって半ば強引にな。そしたら、これさ」

 僕は前進しろ、と声に出さずに言った。なんて当たり前な言葉だ、と思う。

「そいつの名前は、君も知っているだろう。何せ有名人だからな」

「誰ですか?」

「フェクト・アンダーソンさ」

 驚いた。有名人もなにも、アンダーシティでは英雄とまで言われた人物だ。Cクラスの中でも最も治安が悪く、最も貧困な層出身の彼は、全身を機械化し、その上でレースに挑み、クリアした。Bクラスになった後、そこからもさらなる躍進をし、Aクラスにまで上り詰めたという。Bクラスになった人間は少なからずもいるのだが、そこからAクラスになることができた人物はフェクト一人だけだ。そのため、アンダーシティの人々は、フェクトのことを英雄と呼び、僕らの希望的存在となったのである。フェクトのことを嫌う人物と言えば、僕が知っている限りでは、妹の凛だけであろう。

「フェクトの機械化をしたのはこの私でね。彼とはそこからの縁なのさ。そのおかげで、私は上の世界のことを少なからず知っている。もちろんばれたら私は捕まってしまうがな。だが君になら大丈夫だろう。何か知りたいことはないかね?」

「……上の世界の医療技術は、あらゆる病を治すことができる。そんな噂を聞いたことがあります。それは本当のことでしょうか?」

 所沢は僕の目を見た。凛のことでも見抜いたような視線だった。

「ふむ。私も一応は医者を名乗る身の上だ。もちろん医学に関しては興味があるから詳しく聞いてみたことがある。全ての病を治すというのは少し大げさになっているだけだろうが、あながち嘘というわけでもない。上の世界では再生医療という代物があるそうだ。そこでは人間のあらゆる部分を再生することが出来るのだそうだ。例えば君の左腕。この技術を使えば元通り腕を生やすことができるだろう」

「部分……つまり、それは内蔵であっても……ですか?」

「そうだ。機械化を代替品とするならば、再生医療は、悪くなった部分を交換させる技術だ。これなら大抵の病が治るだろう」

 再生医療とは、何て素晴らしい医療技術だろうか。グラウンドシティはやはりとんでもない世界だ。ここに行けば凛の病も治るに違いない。

 何が何でも、グラウンドシティに行かなければ。

 僕はピンポン球を左手で摘んだ。割れた。


 リハビリ二日目の昼前。

 僕はようやくピンポン球を割らずに持てるようになった。部屋の片隅には、僕の苦労を証明するように、山積みになっているピンポン球の破片がある。片付けないんですかと尋ねると、所沢は、そういう決まりでね、と言った。

「よし、次はこれだ」

 所沢はトランプを用意した。そしてカードを使って三段ほどのピラミッドを作る。その動作は素早く無駄がない。

「とまあ、こんな具合なことをやってくれ。もちろん左手でな。こいつはさらに弱い力のコントロールと、器用さの訓練だ」

 試しに左手で摘んでみる。トランプはへなりと曲がってしまった。

「トランプを曲げずに持つことはすぐにできるようになるだろうから心配するな。ピラミッドは三段だけ作ればいい」

 僕は別のカードを持つ。また曲がってしまった。しかし何度か続けていくうちに、トランプを曲げずに持つことができるようになった。

 早速ピラミッド作りを始める。だが一段も出来ずに崩れてしまった。機械の手だから震えることはない。その代わりに上手く動かすことが出来ずにトランプ同士を接触させて崩してしまうのだ。細やかな制動。これが今回のテーマなのだろう。

 神経を集中させて、慎重に指を動かす。あまり動かさないように意識する。しかし今度は力が入りすぎてトランプが折れ曲がってしまった。

 何度も何度も倒壊させながらピラミッドを作り続けていくと、さすがに疲れてしまう。ピンポン球よりもはるかに難しく、集中力のいる作業である。

「そろそろ休憩しようか。根を詰めすぎると出来ることもできなくなる」

 所沢は僕の疲労度を見計らって言った。僕は素直に従う。集中力が途切れ始めていたのを自覚していたからだ。

「私が第一ステージをクリアした後に、レースを諦めたという話をしたね?」

「はい」と、僕は頷く。「その機械の身体はその時に作ったのだと」

「ああ。その時、私は医者は何て簡単な仕事なんだろうと思った。君もそう思うだろ」

 あまりにもぶっちゃけた話に僕は面食らった。

「隠さなくてもいい。みんなそう思ってるんだからな」

「えーと。確かに、そう思いました。端から観察していると、ただ機械のスイッチを押すだけで、特殊な技術は必要そうには見えませんでした」

「そう、その通りだ。そして内蔵を機械化する時も同じなんだよ。全て機械がやってくれる。とてもシステム化されているんだ。だから私が機械で、機械が医者だと言っても一向に構わん。何しろ私がそう思うぐらいなんだからな」

「はあ」

「でだ。私はこう思ったんだよ。こんなに楽な仕事なら、私がやってしまってもいいじゃないか、とね。そして私は医者になったのさ」

「それは、あまりにいい加減な理由ですね」

「ふ、君もそう思うか? 奇遇だな。私もそう思う。だが、それでいいのさ。理由なんてなんだっていいのさ。それはレースに挑む理由であってもそうだ。君がどんなに深刻な理由を抱えているのか私には分からない。だが、簡単な理由で医者になってしまう奴がいるように、簡単な理由でレースをクリアしてしまう奴だっているのさ。けれど深刻な理由を持っていても失敗する奴は失敗する。そんな奴のような目を、君はしている。私に言わせてもらえば、君は危なっかしいんだよ」

「つまり、レースを止めろ、と言いたいんですか? しかし」

 所沢は手の動きで僕の発言を止めた。

「わかっている。君は絶対に止めない。止めてはいけない理由がある。そうだな? もっとも、あえて詳しい内容は聞かないがな」

「……その通りです。僕は、僕は絶対にクリアしなければならないんです」

「そして、それがいけない。君はそのせいで妙に力を入れすぎているんだ。もっと力を抜きたまえ。.でなければできるはずのことができなくなる。どうにも君は実直すぎるようだ。例えば君は音楽が好きかね?」

「はい」

 と、僕は答えた。脳裏に凛が歌っている姿が見える。

「この頃は聴いているかね?」

「いえ、そういえば暫く聴いていないですね」

 僕はいつも凛と一緒に聴いていた。音楽と凛は僕の中でセットになっていた。だから僕は凛が聴かない限り音楽鑑賞をしないのだ。

「それはいけない。レースは過酷そのものだ。そしてリハビリも集中力を使う。とても疲れるだろう? 君には癒しが必要なのだ。君の荒んだ心を慰めてくれる癒しが」

「それが、音楽?」

「癒しは人それぞれあるものだ。別に音楽じゃなくてもいい。音楽を引き合いに出したのは、単に私が大好きだからさ。けど、君が音楽が好きなら、もう一度聴いてみると良いさ。私のお薦めはリリー・シュナイゼルの『出発』。今の君にぴったりの曲だと思う」


 僕は家に帰り着くと凛の部屋に入った。凛は眠っている。時計を見るともう遅い時刻だった。

 僕は壁掛けの端末に向かい電源を押した。画面をタッチし、音量を控えめに設定。さらに凛が集められるだけ集めた膨大な音楽ファイルのうち一曲を検索に掛けた。

 目当ての一曲はすぐに出た。

「兄さん、何をしているの?」

 と、僕の背後から凛が声をかけた。ギクリとして僕は思わず振り返る。凛は目をこすりながら身体を起こしていた。

「ちょっとね」

 僕は微笑みを浮かべながら画面を操作する。音量を上げて曲を再生させる。

「ちょうどいいや、凛も聞いてくれ」

 綺麗で静かなピアノの旋律が流れ始めた。

「これって……」凛の顔が険しいものになる。「リリー・シュナイゼルの『出発』」

 さすがは凛だ。出だしだけで正解を言い当てた。しかしその表情が険しくなるのはどういうわけなのだろう。

 ピアノの音に、リリー・シュナイゼルの美しく透明感のある歌声が重なった。これが処女作とは思えない完成度。アンダーシティーだけの範囲に収まらずに、グラウンドシティーの人々にさえデータを出回らせたという伝説的な一曲でもある。

 新しい始まりを決意した少女の気持ちを綴った歌詞は、力強いフレーズでありながら、どこか物淋しさが漂っている。おそらく歌手自身の心情が反映されているのだろう。

「この曲、好きだったろ? 最近聴いていなかったせいか、なぜか急に聞きたくなったんだ」

「止めて」

「どうして?」

「いいから。そんな曲……私は、聴きたくないの」

 何も言わずに僕は音楽を停止させた。無音の空間が出来上がる。

 視線を凛の方へと向けた。凛は僕の視線から目を逸らし、申し訳なさそうに顔を俯かせた。

「ごめん、兄さん。でも、私は、今音楽を聴きたくないの。どうしても聴きたいのなら、データをコピーして自分の部屋で一人で聴いて」

「僕は凛と一緒に聴きたいな」

「……ごめん。どうしてもできないの。ごめん」

「そうか。どうしても、か」

 この曲は、凛が初めて聴いた曲だった。凛が一番好きな曲だった。毎日のように凛が聴いていた曲だった。

 凛は今では音楽が苦痛なのだろう。触るのさえ嫌なのだろう。きっとそれは、自分の夢への道が閉ざされていると感じているからだ。

 夢は諦めなければ叶う。そんな台詞を誰が言ったのか。そいつは同じ台詞を今の凛に対して言えるというのか。そんな台詞は、叶えた奴だからこそ言えるのだ。

「私は、もう音楽なんて嫌いなのよ。少しだって耳に入れたくない。音楽なんて低級な人が聴く物だわ」

 それなら凛はどうしてそんなに悲しそうな顔をする。どうして大量な音楽ファイルを残している。

 しかし、僕は、それらの疑問を凛に投げかけるつもりはなかった。その代わりに、僕は言う。

「じゃあさ、ちょっと歌ってみてもいい?」

「え?」

 素っ頓狂な声を凛は上げた。

 僕は気にせずに息を深く吸った。

「ちょっ、ちょっと兄さん」

 構わずに歌い始める。もちろんリリー・シュナイゼルの『出発』だ。何度も凛に聴かされたおかげで、僕も覚えてしまったのである。

 呆然とした凛の顔は、ちょっとした見物だ。

 やがて歌い終えた僕は、わざとらしく得意げな顔を作って、微笑みかけた。

「どう?」

「ぷう、くくく」

 あろうことか凛は、片手で口を抑えて笑いをこらえている。

「へ」素っ頓狂な声を上げたのは、僕だった。「ど、どうして笑う必要があるんだ? ここは感動して泣く所だろう?」

「だ、だって、下手すぎるよ、兄さん。初めて兄さんの歌を聴いたけど、音痴だったんだね」

 ついに我慢しきれなくなった凛は、声を上げて笑った。お腹さえ抑えて、涙目になっている。こんなに笑うことなんてないのに、とさすがに思う。

「し、しかも、あ、あんな得意げな顔をするなんて。あはは、お、おかしい」

 だけど僕は、嬉しかった。凛がこんなに笑うなんて、一体何時以来なんだろう。凛の笑顔を見れただけで僕は満足だった。


「音楽を聴いたのかい? 昨日よりも表情が柔らかくなっているぞ」

 所沢は会うなりそう言った。

「そうかもしれません。だけど、結局音楽は聴けずじまいだったんです」

「ほう、そうなのか」

「はい。その代わりに歌を歌いました」

「君は歌うのも好きなのか」

「いえ、昨日付けで嫌いになりましたよ。偶然聴いていた人が、すごい音痴だと笑ったんです」

 所沢は一瞬きょとんとして、

「そのわりにはやけに嬉しそうだな」

 と、不思議そうに言った。

 この説明で所沢が分からないのも無理はない。

「さて、今日で三日目だ」

 予定では、今日中にリハビリが終わることになっている。

「本当に、リハビリは終えることができるんでしょうか?」

 僕はそう尋ねてみた。もちろん今日のうちにピラミッドを完成させてリハビリを完了させる意気込みでここに来ている。しかし万が一ということもある。その辺りのことをはっきりさせておきたかった。

「大丈夫だ」所沢は胸を張った。「これまでのペースにはなにも問題はない。君なら出来るさ。しかしまあ、もし出来なかったとしても、きちんと終えられるまで面倒をみるから心配はいらない」

「分かりました」

 僕は納得し、手元にあるトランプを手に取る。さすがにもう曲がるようなことはない。僕はそのままピラミッドを作り始めた。今回は二段目の半ばまで進んだ所で崩落する。昨日は一段だけ作ることが精一杯だったことを考えると大した進歩だ。

 作っては崩れ、作っては崩れの繰り返しの中、僕の左手の指先が徐々に器用な動きを発揮していく。思い通りに動かし、狙った所で止める。そうして、ほんの少しだけ動きが粗野になる時、トランプは崩落するのだ。

 僕は慎重に慎重を重ねて、トランプを積み重ねる。あとは最後の一段を積むだけにこじつける。前はこの段階で崩壊してしまったのだ。

 僕は左手で摘み、右手で形を調節させた。緊張する一瞬。軽い深呼吸をして気分を落ち着ける。 

 トランプを乗せた。ピラミッドは崩れなかった。完成したのだ。

「で、できた……」

 思わず、僕は呟いた。達成感で胸がいっぱいになった。

「おめでとう」所沢はしかし無味乾燥に言い、アナログな針時計を見る。「さて、ちょうどお昼だ。次の説明は、飯を食べてからにするか」

「……次、ですか?」

 実のところピラミッドで終わりだと僕は思っていた。だから呆気にとられてしまった。

「ああ。だが、これで最後さ。それにこれもリハビリの一環と言っても対したことはしない」

 僕は持ち合わせた弁当を開く。合成食で埋められたメニューだ。

「前から気になっていたんだが」所沢は僕の弁当を見ながら言う。「その弁当はとてもおいしそうだな。誰かが作ってくれるのか?」

「いいえ」と、僕は首を横に振る。「自分で作っていますよ。作ってくれる人なんて、僕にはいませんから」

「ほう、そうなのか。大したものだ」

「冷凍食品を並べただけですから。それにもちろん合成食品ですからね。見た目だけですよ」

「それでも、さ。私などは生来からのものぐさでね。自分で作る気は全く起きやしないのだ。だから今日もコンビニ弁当なのだよ。おまけに独り身。ろくな者じゃない」

 僕は、くすりと笑う。

「ふむ。ここにきてから初めて笑顔を見せたな。とても良い顔だよ」

「所沢さんのアドバイスが効いたんですよ」

「それはなにより。私は機械化の指南は得意だが、心の方はなかなか難しくてね。仏頂面で現れて、仏頂面で帰るのが普通なのさ。中には一言も喋らないような患者だっている。特にレースの後ではね」それから所沢は、少しだけ間を置いた。「――私はね、医者としての本当の仕事は、そうした心のケアにあるんじゃないかとこの頃思っているんだ。何せ機械化は全て機械がしてくれるし、こうしたリハビリもマニュアルがきちんと出来上がっている。個人の能力を反映させられるのは、心のケアの部分だけなんだよ。こればかりは決まり事がないからね。だからこそとても難しいし、とても大事なんだと感じている。今回の心のケアは上手くいったようだから、成功と言ってもいいだろうな。うむ」

 満足そうに所沢は頷いた。

「自分で言いますか、それ」

「まあ、それはともかく」と、所沢は言った。「ほんの少しだけ情報規制に引っかかる話をしよう」

「いやいやまずいですよねそれは」

「大丈夫だよ。君か、私が話さない限りはね」

 興味がないわけではなかった。だから僕は止めることをやめた。所沢が僕の沈黙を了承と受け取り、話し始めるまで僕は待った。

「私のこの機械の身体、それに君の左腕。こいつはどこで作られたものだと思う?」

「アンダーシティではないんですか?」

「一部の部品はそうだね。しかし、これらはグラウンドシティで作られたものだ。再生医療のことは君に話したと思うが、向こうでは、機械化は、身体の一部を再生させるまでの代用品でしかないんだよ。そして我々が使っている機械のすべてが、グラウンドシティで使われた中古品を使っているだけなのだ。身体に機械を取り付ける装置だってそうさ。壁掛けの端末でもそうなのだ」

 初耳だった。僕はこれらの機械はみんな、アンダーシティで作られたものだと思っていた。機械技術だけがアンダーシティの唯一の取り柄なのだと信じていた。

「私たちは結局の所、グラウンドシティの足下で生活しているに過ぎないのだよ」

 所沢はどこか諦観した口調で言った。

 それから僕らは声を発することなく弁当を食べ、別の場所に移動した。

 案内された場所は、広々とした白い部屋だった。アドバンスレースのコースによく似ている。僕はそのことを所沢に指摘した。

「ああ、この施設自体も、グラウンドシティによって作られた所だからな」

 と、所沢は答えながら壁に触れた。すると壁の中から液晶パネルがせり出した。所沢は液晶パネルに手で触って操作する。部屋全体に起動音が鳴り響く。

 部屋の中心の床が左右に開き、下から立方体の白い塊が現れた。

「これから君の新しい腕がどれほど強いのかを体験してもらう。機械の腕の力を自ら知ることで、実生活のでより一層の注意を促す、というのが建前。ま、お遊びのようなものだ」所沢はそう言って、白い塊を指差した。「これまでのリハビリのストレスを発散するつもりで、こいつを思い切りぶん殴ってやれ」

 僕は白い塊に近づいて、まずは生身の右手で軽く叩いてみる。想像よりも堅い。少しだけ右手がじんと痺れた。鉄と同じぐらいの硬度かもしれない。

 僕は左手で殴るために身構えた。気合いを入れるために深呼吸を一度する。それから最大限の力で左手を握りしめて、右足で床を踏ん張りながら、思い切り上半身を回転。左腕を前へと突き出す。

 そして白い塊と左手が衝突する瞬間。左腕が従来の長さよりも伸びたのだ。

 左手が白い塊の中にのめり込み、放射線状に亀裂が走る。小気味よい音と共に砕け、破片が床に散らばった。

 僕は驚きと共に左手を引き、掌を開閉させた。腕も観察してみる。異常はない。

 想像以上の力だった。

「少しだけ機能を継ぎ足しておいた。本気で殴る時に、腕が伸びて、破壊力が増すようにね。なあに値段のほどは心配しなくていい」それから、間を置いて言った。「あの彼女、良い子だね」

 最後の一言が何もかもに対する説明として十分だ。真由美の計らいに違いない。

「これでリハビリの全行程は終了した。君が生きてアドバンスレースをクリアすることを祈っているよ」

 僕は所沢に一礼をした。

「ありがとうございました」

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