第6話

 闇色を増しながら広がる雲を、一条の光線が斬り裂いた。地を揺らす雷鳴。屋敷背後の森で枝が爆ぜ、焦臭い風が空気に混じる。

「あぁ……困りました、鎧塚の血に狂いそう。残念だけど仕方ないわ……私が狂う前に可愛い鬼達の手で、おまえを始末してもらいましょう」

 亜弥子は頭上に挙げた右手を、ゆっくり康則の方向に下ろした。

 途端、一斉に黒い影の包囲が動く。

 隷属にされた部下の数は、計算外だ。推測通り黒幕が亜弥子と判明した時、出来れば説得して角を断ち、贖罪を果たしてもらいたかった。戦う事になっても、将隆の迷いは康則が正せると信じていた。

 しかし今、強い力を持つ〈三角鬼童子〉の呪縛に囚われ掛けている将隆を前に康則は、鎧塚の血を求める多勢に囲まれ為す術がない。

 亜弥子が啜った血は僅かだ。薬物が多少の力を抑えたとしても、死に至らす事は出来ない。

 将隆の抵抗が折れ、堕ちるのが先か。康則が鬼達を倒し、亜弥子を退けるのが先か。

 肋骨に仕込んであった薬物は、人体にも弊害がある。どちらにせよ、長くは戦えない。

「生憎、雑魚にくれてやるほど俺は安くない」

 言い切りざま、背後から飛び掛かってきた鬼を左にかわして蹴り上げ、抜刀の勢いで斬り捨てた。続けて左右二体が、同時に頸目掛けて牙を剥く。逆手に持った刀で左手鬼の首を突き、右手鬼の顎に拳を捻り込む。

 息も乱さず、数秒間に三体の鬼を地に沈めた。警戒して、他の鬼達が動きを止める。

 訓練を積んだ嘗ての部下だが、下級な鬼化のため思考力が低下している。幸いな事に、武器も扱えないようだ。〈業苦〉をなるべく持たない者を採用した、鈴城の厳しい身元調査のおかげだ。

 だが、昨夜からの疲労と怪我、さらに薬物がもたらす倦怠感に耐えて、全ての鬼を倒す事が出来るだろうか?

 やるしか、ない。

 覚悟を新たに、柄を握る手が力を込めた、その時。

「加勢、いたします」

 いつの間に、混じっていたのか? 鬼達の輪から一人進み出たのは、庭番の久米だった。

「私は、この日を待っていたのです。鬼達が血の匂いに惑わされたおかげで、加勢に駆けつける事が出来ました」

 久米は手にした竹箒の長い柄を、一体の鬼に向けた。目に留まらない速さの突きが、鬼の左胸を貫く。踵を返し次の敵に向かい合うと柄の先で喉を突き、手首を翻して脛を打つ。骨が砕ける、鈍い音。

「これで五体、意外と手応えがない。鬼化で戦闘力を上げたつもりでしょうが、とんだ見込み違いでしたね?」

 おそらく鉄芯が仕込まれている竹箒を肩に掛け、久米が微笑む。心強い、味方だ。

 耳障りな歯軋りが、聞こえた。修羅の形相で、亜弥子が久米を睨んでいる。

 ところが急に表情を緩めて膝から崩れ落ち、自らの両手で肩を抱きながら嗚咽を漏らした。

「助けて……将隆さん。私には、あなたが必要なの。なぜ……なぜ優希奈は犠牲になったのでしょう? 死んだ方が良い人間など、いくらでもいるのに! 余命の短い老人や非道な罪人が、代わりに死ねばいいのに! わたくしは、生きるべき人間を救いたいだけなのよ」

 将隆を見上げた亜弥子に角はなく、いっそう若返った少女のように美しい顔で涙を浮かべている。その姿に、康則の心は痛んだ。

 確かに、優希奈も亜弥子も一族の犠牲者だ。運命を受け入れられないからと言って、責める事は出来ない。しかし今となっては、亜弥子の〈業苦〉を断つ事だけが解決方法なのだ。

 承知しているはずの将隆は、まだ動けずにいた。将成は黙って、将隆の判断を待っている。

 その間にも鬼達は、途切れず康則に襲い掛かった。

 共に戦った仲間、自分と年の変わらない隊員の面影を見て一瞬、戦意が鈍る。だが殺らなけらば、殺られる。将隆の判断を待たず、死ぬわけにはいかない。

 ひときわ体格の良い正面の鬼は、実働部隊長だった男だ。動きが、早い。袈裟懸けに振り下ろした刃を身軽に避け、長い足を繰り出して康則の腹を蹴り上げた。

 立木に叩き付けられ、先に折れた肋骨が内蔵に食い込む。咳き込むと口腔内に、血の味が広がった。

 体勢を立て直す間もなく、鬼化した部隊長は康則の肩を鷲掴みにする。ブツブツと皮膚が破れる音をさせ、大きく口が裂けた。血の混じる唾液を滴らせ、剥き出しになった歯茎が眼前に迫る。

 両手に満身の力を入れて押し留めた牙が、喉を喰い破るまで数センチ。いきなり、鬼の頚ごと吹き飛んだ。久米が突き倒したのだ。

「助かりました、久米さん」

 康則の礼に微笑んだ久米は、しかしすぐに眉を曇らせた。

「礼には及びませんよ、康則さま。しかし奴等との戦い、我々の力では決着が付かない……」

「わかっています」

 将隆が〈鬼斬り〉で角を断たない限り、頭だけになろうと胴だけになろうと鬼は、戦う事を止めない。下級ゆえに、本能だけで動くのだ。

 五体満足な鬼は残り数体だが、最初に久米に倒された鬼達が折れた足を引きずり、戦線復帰してきた。

 重い腕を振って、刀の血糊を払う。構えて息を整えた。

 頭上間近に雷鳴が轟き、一滴の雨粒が目蓋に落ちた。

 瞬きした隙に、正面から二体が襲いかかる。咄嗟に身を屈めて勢いをやり過ごし、払い上げた刃で一体。左に持ち手を変え、足を引きずる一体の頚を刎ねた。

 足と頚を失えば格段に動きが鈍る、と、油断した。頚のない鬼が、康則の腰に腕を巻き付け引きずり倒す。

 限界近い体力で、のし掛かる肉塊から逃れようともがいた。

 不利な状況を嗅ぎ取った鬼が、前後左右から集まる。久米が気付き助けに来ようとしたが、他の鬼が遮った。

 死を、覚悟した。

 以前に覚悟した、諦めの死ではない。自分は自分自身のために戦った、悔いは無い。康則が死のうと将隆は、必ず正しい道を選ぶと信じる。

「……将隆!」

 心中に、名を呼んだ。

「助けがいるなら、早く呼べ」

 霧の中に、声がした。

 と、同時に、澄んだ鈴の音が響き、一瞬で霧が掻き消える。続いて砂袋を投げたような、鈍い衝撃音。

 見渡せば、康則を取り囲んでいた鬼の姿が一体もない。大量の血を吸い緋色の絨毯となった杉苔に、数多の鬼が角を断たれて転がっていた。

 暗闇を斬り裂く稲光に、浮かび上がる姿。

「……べつに、助けなんて呼んでいません」

「そうか、俺の耳には聞こえた」

 人に戻った憐れな肉塊の下から這い出す康則を見下ろし、将隆は涼しげに笑った。

 亜弥子は、どうなったのか? 片膝立ちで目を向けた先、表情のない白い顔があった。康則の視線を捉え、紅い口元が歪む。

 ぞっとする、意味深長な笑み。

 慌てて顔を反らすと、今度は将隆と眼があった。

「心配するな、康則。おまえに偉そうな事を言った俺が、簡単に堕ちる訳にはいかない。俺は……俺を取り戻す。おまえもまだ、戦えるな?」

「もちろんです」

 言い切った康則の中に、力が湧く。久米もまた、強く頷いた。

「昨夜、倉庫で俺が言った言葉を覚えているか?」

「……はい」

 将隆は言った。「おまえは二度と、俺の前に立つな」と。蔑まれ、見捨てられたと感じた瞬間だ。いまさら、何を確かめるつもりだろう?

 訝る康則に、将隆が手を差しのべた。

「これからは、俺の背中を任せる。前に立つ必要はない」

「はい!」

 差し出された手を握り、将隆の気持ちを受け止めた。錯綜する想いを封じ込め、康則は起ち上がる。感傷に浸る暇など、無い。

 鬼達の上げる鬨の声が共鳴し、鼓膜を破る雄叫びとなった。離れた距離から素早く間合いを詰めた一体の鬼が、手負いの康則目掛け飛び掛かる。

 額の角は、二本。

〈二つ角鬼童子〉に進化した連中は後方で戦いを眺め、康則の抵抗が終わる時を待っていたのだ。知能も身体能力も高いが、将隆が参戦したからには向かうところ敵は無い。

 身体を左に捻り、鬼の右肩を斬り落とす。軽やかに地を蹴った将隆が、前のめりに突き出された頭から角を断った。右足の爪先が、飛石に着いたかと思う間に繰り出された蹴りが、後ろで隙を狙っていた一体の顎を砕く。

 顎を押さえながら鬼は、手負いの康則に狙いを変えた。その足下を斬り払い、反対側から掴み掛かろうとした新たな鬼の肩に入り込んで投げ飛ばす。

 将隆の前に、首が二つ並んだ。手首の返しだけで刎ね跳ぶ、四本の角。

 秒殺された三体が、同時に崩れ落ちた。

 残り数体、片を付けるまでに時間は掛からなかった。康則は鬼を誘い、効率よく角を斬るため最小限の仕事をして、後を将隆に任せればいい。

 数分後、庭園の血溜まりを洗い流すように雨は勢いを増し、鬼の姿は一掃されていた。

 亜弥子一人を、除いて……。

 将隆は〈鬼斬り〉の血糊を払い鞘に収めてから、亜弥子の前に立った。

 何を考えているのか、康則には解る。亜弥子が罪を認め、自ら角を断つ事を願っているのだ。

「母さん……あなたは、間違っている。優希奈は、自分の身代わりなど求めない……そんなこと、母さんだって解っているはずだ。優希奈を失った悲しみで、あなたは大切な事を忘れてしまった。死んでも構わない人間か、そうでないかなんて、誰にも決められる事じゃないんだ」

 俯いた亜弥子の肩が、ぴくりと上がった。

 将隆の願いを、受け止めてくれたのか? 先ほどの笑みが、気になる。 

 亜弥子の出方を見守る康則の視界が、意外な人物に遮られた。戦いの最中、将成と亜弥子の間に立って身を縮めていた万由里だ。

 怪我もなく無事な姿に安堵したが、何をするつもりなのか?

「お待ち下さい、将隆さま! どうか、どうか亜弥子さまを助けて頂きたいのです。康則さまと会わせないため、養女の話を進めたなんて嘘です! 亜弥子さまは言われました……養女に行く先は鬼龍と違って普通の家系だから、優希奈の気持ちが変わらなければ康則さんと見合わせてあげたい……と」

 万由里は身を屈め、庇うように亜弥子の肩を抱いた。

「優希奈さまが、あの様な事になるなんて誰にも解らなかった……。亜弥子さまは悲しみで、お心を失ったのです。角を断たなくても館山の御屋敷に、お隠れになればいい。お心を取り戻すまで、万由里が御世話いたしますから! だから……」

 亜弥子を、隠す……。

 空気で、将隆の気持ちが揺らいだのが解った。

 もしも意見を求められたら、善悪を問わず将隆の判断に任せると答えるつもりだった。将隆も、康則の答えが分かっているから問うことはしない。

 唇を固く結び、目を閉じて将隆は〈鬼斬り〉の柄に手を掛けた。

「万由里、そこをどけ」

 再び開かれた目に、強い意志の光。決断は、下されたのだ。

「嫌です! だってもう、亜弥子さまは……きゃあああぁぁぁっ!」

 万由里の言葉が突如、悲鳴に変わった。

 ゆっくりと、亜弥子が万由里の肩口から顔を上げる。

 隆起した三本の角、金色の瞳。万由里の首を噛み切り、血塗れになった唇と顎。

「万由里さん!」

 康則に生じた一瞬の虚を衝き、それまで岩のように動かなかった将成が素早く手から刀を奪い、亜弥子の前に立った。

「可哀想な万由里……あなたの願いも、無駄でしたね。将隆さん、母は優希奈とあなたを誰よりも愛しています。私と共に生き、一緒に悲劇の連鎖を止めましょう。康則を殺し、私の為に鬼狩りをすると約束してくれたら、万由里を助けてあげるわ」

 残忍な笑みを浮かべ、亜弥子は眼を細めた。

「……断る!」

 怒りに満ちた瞳で将隆が睨んでいるのは、亜弥子に操られている将成だ。

「そう……狩り手がいなくては不都合ですが、仕方ありませんね。万由里や康則と一緒に、将隆さんも私と同じ鬼となってもらいましょう」

 亜弥子の言葉で、将成が動いた。

 記録の残る近世代で、最強と謳われる〈鬼斬り〉の使い手、鬼龍将成。一線を退いたといえども、将隆が楽に勝てる相手ではない。

 全身のバネを使い、ストリートダンスのステップで刀を操る将隆。反して、日本舞踊の優美な動作と流れるような足裁きで力強く刀身を翻す将成。

 鋼の討ち合う音が、間断なく響く。胴を払えば巻き取られるように弾かれ、振り下ろされたなら鍔元で受ける。僅差で突きを避け、相手の懐を狙い合った。

 康則の出る幕は、無い。

 攻守は将隆が、不利だった。じりじりと池に架かる太鼓橋の欄干際に追い詰められ、後ろがない。将隆の跳躍力があれば、欄干を超えて足場の良い場所に跳ぶことが出来る。しかしその隙を、将成は許さなかった。

 ひときわ高く澄んだ音が、余韻を残し響きわたる。

 将隆の〈鬼斬り〉が弾かれ、弧を描いて池の畔に突き刺さった。康則の足下から、数メートルの場所だ。

「動くな」

 切っ先を将隆の喉元に付け、将成が康則を制した。刀を取ろうと数ミリでも動けば、将隆の首は池に落ちると言っているのだ。

 万由里を地面に横たえ、亜弥子が太鼓橋を渡った。

「私と同族になった将隆さんが、最初に喉を潤すために万由里は取っておきましょう」

 傍らに亜弥子が立つと、将成が一旦、刀を引く。

「堀川も、頼子も、簡単に私の手に落ちたわ……。悪いのは、私ではないのよ? 呪うべきは、自らの力で変えることが出来ない運命。力があれば、全てが変わる……。さあ将隆さん、あなたの血と私の血を交え、運命を変えましょう」

 亜弥子は自らの左手首を噛み切り、右手で将隆の顎を掴んだ。流れ落ちる血を、将隆に飲ませるつもりだ。

 目を合わせれば、心を操られる。

 硬く目蓋を閉じ歯を食いしばるが、ギリギリと喉を締め上げられ、将隆の口が開く。

 万策尽きたか……。

 残された道は、鬼化した将隆が万由里を手に掛け力を得るより先に、康則の身を喰らわせる事。

「アイツを鬼には堕とさない……今こそ俺の命、くれてやる!」

 呟きながら、笑みが漏れた。

 問題は、将成の行動だ。タイミングを計りながら康則は、不動の姿勢でいる将成を注視した。

 そして……目の前の光景に、絶句する。

 将成が、手にしている刀身を大きく振り掲げた。立木を断つような、力強い袈裟斬り。

 真二つに断たれたのは、亜弥子の背だった。

 風に煽られ、康則の足下にまで緋の雨が降り注ぐ。

「酷い人ね……優希奈だけでなく、この私まで手に掛けるなんて……」

 前のめりになりながら、亜弥子は向き直る。長く伸びた爪が闇の中に燦めき、将成の胸を突き上げた。 

 将成は自らの傷を深く抉りなから、亜弥子を抱き寄せる。肉を裂き皮膚を裂き、着物を朱に染めて亜弥子の爪が背を突き破った。

「聞け、将隆。優希奈を斬ったあと、私のしてきたことは間違っていた。義を振りかざす事無く、悲しみも苦しみも、おまえや亜弥子と共有すべきだったのだ。清愁……すまなかった。あの時、私は将隆から母を奪うことは出来ないと思ったのだ……」

 急に呪縛が解け我に返った将隆は、状況を理解し呆然とする。

「これはいったい、なんの……真似だ?」

「私は操られてはいない。亜弥子のために自らを餌としたのは贖罪だ。だが父として、最後のけじめはつけさせてくれ。亜弥子は、私が連れて行く。だから人間に、私の妻だった亜弥子に戻して欲しい」

 将隆は将成を見つめ、その視線を康則に移した。

 戸惑う瞳。

 母である亜弥子を斬ると決意しながらも迷い、万由里を犠牲にしてしまった。裏切ったと信じた父に、危機的状況まで追い詰められたはずが、救われてしまった。

 俺は、どうすればいい? 何をすればいい? 将隆の、言葉にならない声が聞こえた。

 康則は〈鬼斬り〉を地面から引き抜いて携え、将隆の元に向かった。目の前に立つと将隆は半歩だけ退き、俯いて小さく首を振る。

 世界も、存在も、現実も、責任も、全てを否定し放棄したいと願ったのかも知れない。

「将隆……将成さまも俺も、おまえと同じ想いでいる。だけど、終わらせることが出来るのは、おまえだけだ」

「こんな時に、名前で呼ぶな。父さんも康則も、勝手な事ばかり言いやがって……」

 左手を握りしめ、将隆が口元を拭った。夥しい血が拳から滴り落ち、雨に濡れた橋の白いコンクリートに染みこむ。

 将隆が、泣いている。

 唇を嚼みきり、涙の代わりに血を流して泣いているのだ。

 康則が差し出した〈鬼斬り〉を無言で受け取り、将隆は顔を上げた。

 将成が小さく頷き、動けないように強く抱きしめた亜弥子の首を、将隆に向ける。

 りん……と、澄んだ鈴の音が、小さく鳴った。

 いつしか雨はやみ、冷たい海風が雲を運び去っていた。大気の汚れが洗い流され、魂が吸い込まれそうなほど深い夜空に月が輝く。

 その青白い月の光は、亜弥子の美しい横顔を更に美しく浮かび上がらせた。






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