第5話


 今朝、康則が相馬のマンションを出たとき湾の沖にあった雲が、昼を過ぎて陸まで流れてきたようだ。

 低く垂れ込めた、薄ねず色の幕に閉鎖され地上に風はない。じんわりと、汗が滲み出る蒸し暑さだった。

 しかし将隆は、外気を遮断した涼しい顔で母屋の玄関先に現れた。〈鬼斬り〉を携えた、隙のない美しい身のこなしは普段通りだ。

 強者を演じる者は脆く孤独だと、相馬は言った。

 真実が明らかにされ強者の鎧が砕かれたとき、将隆は何を想い、何を選ぶだろう? 

 自分は、将隆を支えることが出来るだろうか? 

 何があろうと、将隆を信じる。康則の覚悟は、揺るがなかった。

「将成さまは園で、お待ちになっています。万由里が御案内いたします」

 茶事に備え、しとやかな和装姿になった万由里が先に立ち、将隆と康則を庭園へと案内した。

 雲に遮られた日差しが、茜色に変わりつつある池の畔。

 仲睦まじく寄り添う、二つの影……。

 将成の和装は、普段の長着ではなく袴姿だ。帯刀はない。亜弥子は錆朱地紋に南天が描かれた小紋を、品良く着付けていた。

 人の気配で水面に現れる鯉の姿が、今日はなかった。不思議な事に池辺りの空間だけ、妙に空気が冷たい。

 足下の杉苔からは、薄い靄が立ち上っていた。

「将隆さま、康則さま、いらっしゃいました」

 将成の背に声を掛けた万由里が、後ろに下がるのを待たず将隆が進み出た。

「貴様に、聞きたいことがある」

 ゆっくりと身体を向けた将成は、優しい眼で将隆を見つめる。

「家族が揃うのは、久しぶりだな」

 途端に、将隆の目付きが険しくなった。

「家族? ふざけるな! ここには優希奈が居ない。今日は、貴様が口を閉ざしてきた真実を、話してもらう」

「真実とは?」

「優希奈を斬り、何を思った? 後悔はなかったのか? そして清愁が死んだ、本当の理由は何だ?」

 詰め寄る将隆の前を、亜弥子が塞いだ。

「口を慎みなさい、将隆。お父上に向かって、何という乱暴な言葉を使うのですか?」

 凛とした姿勢で息子を正す、断固とした口調。一瞬、将隆は怯んだが、亜弥子の肩越しに、なお将成を睨みつける。

 亜弥子の肩に、将成が手を置いた。亜弥子は物言いたげな眼で将成を見たが、黙って退く。

「優希奈は、可哀想なことをした。後悔があるとすれば、命を絶つだけの覚悟が、私になかったことだ。生き存えさせたことで、将隆……おまえと亜弥子を余計に苦しませてしまった」

「死が、全てを精算するとでも言うのか? どちらにしても、貴様のした事は変わらない!」

「優希奈の無念を、おまえは自分の迷いに重ねているのだ。優希奈を哀れみ私を恨むふりをして、自分を哀れみ己の責務を恨んでいる。康則は、おまえの良心だ。康則の存在が、おまえの崩壊を防ぎ、自分の正義を信じる支えになっていた」

 将隆は康則に視線を走らせ、きつく唇を結んだ。康則に聞かれるのは不都合らしいが、否定もしない。

 康則は改めて、自分の不甲斐なさを後悔する。そして同時に、将隆の力になりたいと心から思った。しかし将成の態度に、ある疑問が浮かぶ。

 将成は将隆に、何かを期待してるのではないか? 

 いや、将隆だけではない。康則に向けられた、決着を委ねる視線。

 将成の望みは、解らなかった。真意を測るためには、自分の役割を演じるしかない。

「私を殺せと、堀川に指示したのは将成さまですか?」

 康則の選択は、間違っていなかったようだ。将成は眼を細め、緩く微笑む。

「未明に、堀川から連絡があった。鳴海の失敗は、自分で始末をつけると」

「なん……だと!」

 怒りの形相で掴み掛かろうとした将隆の腕を捻り上げた将成は、右膝で左大腿部を払い上げた。倒れず踏み留まった将隆は、距離を離さず体勢を整え、すかさず〈鬼斬り〉の柄に手を掛ける。

「父親を斬れるか、将隆? おまえは恐れていたはずだ。優希奈が斬られたように、自分も近しい者を斬らねばならない状況を」

「……優希奈と、貴様は違う。堀川の話を、康則から聞いた。貴様が求める理想世界は、理不尽で横暴な我欲世界だ。優希奈は、貴様のように汚れた欲望で鬼になったんじゃない。我が一族の負う、業苦の犠牲者だった!」

 将成が、いかにも神妙な顔で頷いた。しかしそれは、相手を見下した態度だ。

「なるほど、世に仇為す存在ならば、斬るための大儀名分が立つな。では、おまえの責務を果たせ。〈鬼斬り〉で、私を斬るがいい」

「望み通り、俺が貴様の業苦を断ってやる! さっさと鬼化して、俺と戦え!」

「鬼化の必要は、無い。変化せずとも、おまえは私に勝てない」

「ほざけ!」

 将隆が、〈鬼斬り〉を鞘から引き抜いた。りん、と、涼しげな鈴の音が鳴り、光乏しい池まわりに一条の輝きが際だつ。

 その時、康則は将成の意図が解った。

 全ての罪を背負い、将成は将隆に斬られる覚悟だ。

 しかしそれは、間違った結末だ。正しい決着を付けなくては、悲劇の連鎖は終わらない。

「待って下さい、将隆さま。〈鬼斬り〉の使い手は、鬼のみを斬り人は手に掛けないと誓約しています。どれほどの罪があっても、人間を斬れば人殺し。あなたを、人殺しにするわけにはいかない。鎧塚の血で、鬼を呼び出します」

 康則は携えた刀の鞘を右脇に抱え込み、肋骨の間を抉るように両腕を大きく捻った。生木が裂けたような鈍い破裂音がして、康則は僅かに顔をしかめる。

 康則の目的に気付き、将成の表情が変わった。

「止せ……康則。その必要はない!」

「同じように、鬼を誘い出そうとして清愁氏は斬られた。将成さま……これ以上、我々を欺く事は出来ません」

 鞘を払い、抜き身の白刃で左前腕を斬る。ゆっくり流れ出した血は肘を伝い、黒味を帯びた鞍馬石の飛石に色濃い円を描いていく。

 むせるような香りが、鼻腔の奥を刺激した。焼けた鉄の臭いと、熟れた果実の甘い香りが混じり合い、五感を酔わせる。

「鬼龍の血族が〈鬼斬り〉に呑まれ、〈業苦の鬼〉と化したとき。薬物を仕掛けた我が身を喰わせ、命を絶つのが鎧塚の務めです。この血は、毒と分かっていても鬼が抗う事の出来ない甘露。正体を隠す事は出来ません」

 蹌踉めくように将成は数歩下がり、将隆と亜弥子を交互に見つめた。将隆は、これから起きるであろう出来事を、固唾を呑んで待ち構えている。

 緊迫した間を突然、亜弥子が破った。

「いけません、康則さん。これは、あまりにも……」

 着物の袂から懐紙を取り出し、苦悶の表情で康則の手を取る。

 そして……傷口から流れ出る血を、啜った。

「もったいない、でしょう?」

 真っ赤に染まった唇の端を懐紙で拭い、亜弥子は妖艶な笑みを浮かべた。

「亜弥子……さま」

 力なく康則は、呟いた。

 確証無く鬼の正体を結論付けたとき、心のどこかで間違いであって欲しいと願った。確かめる術は、このやり方しかなかった。

 蔵に保存されていた古書を調べるため、鈴城に鍵を借りた時。亜弥子が数冊、持ち出していたと知った。その時は、一族と掛け離れた家系から嫁いできた亜弥子が、鬼龍の記録に興味を持つのは当然の事だと思った。

 しかし、その数冊の内容が、鬼化の症例と能力に関するものばかりだったのだ。

 恐らく清愁は、その正体に気付き暴こうとした。しかし将成は、亜弥子を庇い正体を隠すために清愁を斬った。

 将隆に目を向けると、事態を飲み込めないのか驚愕の表情で我を失っている。

「馬鹿な事をしたものですね、康則さん。その血の臭いは、他の鬼までも呼び寄せるのに。ほら、ご覧なさい? おまえの肉を爪で切り裂き、滴る甘い血で喉を潤すため、可愛い私の隷属達が集まってきました……」

 園に来る途中、足首を覆っていた靄は、何時の間にか膝上まで立ち上る霧となっていた。視界を遮る霧の中、黒い人影が数体、近付いてくる。

 池の向こうからも数体、見渡せば多数の影に取り囲まれていた。五体、六体……十、十五、十八……確認できるだけで二十体以上はいる。

 海の方角から、遠雷が轟いた。

「将成さまの言う通りにすれば、今までと同じように将隆と二人で生きてゆけたでしょうに。戦闘能力が高い嘗ての部下相手では、少し分が悪いかもしれませんね」

 美しく優しい微笑みの中、残忍な愉悦を欲する瞳が妖しく光る。

 亜弥子は茫然自失の将隆に近付き、そっと頬を撫でた。

「もともと優希奈は、鬼龍家の〈業苦〉を分散するため養女に出される定めでした。あなたに反対されると面倒なので留守中に話を進めたのですが、嫌がって酷い癇癪を起こしたのです」

 何を思い出したのか、亜弥子は楽しそうに笑う。

「将隆さんも、知っているでしょう? 優希奈は素直そうに見えるけど、意外と気が強くて頑固なんですよ?」

 戸惑いながら将隆は、亜弥子の眼に焦点を合わせた。だが、指一本動かさない。

「幼い頃から共に遊び、兄と同じように慕っていた康則が、鬼龍家からの要請で〈露払い〉として来る日を優希奈は信じていました。だから、なお早く養女に出したかった。〈露払い〉ごときに心寄せられては、困りますからね」

「養女の話がなければ、あなたが無理に康則と引き離そうとしなければ、優希奈は鬼化しなかった……?」

 ようやく口を開いた将隆を、亜矢子は優しく抱きしめる。

「優希奈はまだ、幼すぎたのです。もう数年待てば、自分の役目が理解出来たのかも知れません。何れにしても鬼龍家の〈業苦〉は、あなたの世代か次の世代で誰かが負う運命でした。結果的に、その時の激しい感情が引き金となり、鬼龍家に積み重なった〈業苦〉は優希奈に引き寄せられてしまった」

 亜弥子は将隆から離れ、襟元に両手を掛けて大きく開いた。白く長い首と、豊かな胸が露わになる。

「そう、私が優希奈を……愛する娘を鬼にしてしまった。私は自分が鬼になればよかったと嘆き、苦しみ、将成さまと鬼龍の一族を憎みました。そして優希奈を犠牲にした我が身を呪い、命を絶とうと思った」

 透き通った肌に浮かび上がる太い血管に、直径一センチほどの何かが埋まっている。

「これは、斬り落とされた優希奈の小さな角。死ぬつもりで頸動脈を突いた時、私と一つになった。優希奈は私に、教えてくれたのです。愛する人を守るには、犠牲になる者を選べばよい。罪深き者を鬼に変え、我が一族で始末すれば、悲劇の連鎖は生まれないと。優希奈に託された想いは、私が叶える!」

 結い上げられた亜弥子の髪が、扇状に解け宙に舞う。眉間に浮き上がった三つの黒点が隆起し、禍々しい角として起ち上がった。眦を吊り上げ大きく見開かれた眼に、緋色の瞳。顎は猫科の肉食獣に似た細さに尖る。

 康則の血の後が残る赤い唇に、長い犬歯を突き出し、恐ろしくも美しい鬼女の面が恍惚の笑みを浮かべた。




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