第4話
屋敷に帰り熱いシャワーを浴びた康則は、ようやく人心地がついた気がした。
将隆が不在の時は大抵、自室で食事を摂るのだが、迎えに出てきた万由里に遅い時間を希望しておいた。済ませたいことが、あったからだ。
まずは、将成の正室、鬼龍亜弥子に挨拶をしなくてはならない。
新しい学生服を手に取り、考えた。康則を実子の将隆と同じに扱う亜弥子は、堅苦しい挨拶を嫌う。礼を欠かない程度の私服に着替え、母屋に向かった。
おそらくは将成の住む別邸にいるであろう亜弥子に挨拶するタイミングを、執事の鈴城に聞こうと思ったのだ。
執務室の前を通りかかると、丁度ドアを開いて中に入るところだった鈴城が、康則に気付いた。相変わらず綺麗にプレスされた白シャツに海老茶のタイ、黒無地のスラックス姿。艶のある銀髪を普段よりきっちり後ろに撫でつけてあるのは、亜弥子が来訪しているからだ。
「これは……康則さま。お務め、お疲れ様でした。ところで此度の鬼ですが、切り落とされた右腕を発見するまで処理部隊が難儀したようです。しかし、先ほど無事に見つかったと報告がありましたので、ご安心下さい」
銀縁眼鏡の奥、少し咎めるような上目遣いで鈴城は康則を見た。右腕は確か、海中に没したはずだ。
いつもの務めと違い、今日は警察という招かれざる客がいた。
戦闘前、相馬に気付いた将隆が「派手なショーを観せてやろう」と言ったので、少し気負いすぎた。
悪いのは自分だ、責められても仕方がない。
「……申し訳ありませんでした。気をつけます」
殊勝顔で康則が詫びた時。
「鈴城、そのような言い方は私が許しません。康則さんは、命を懸けて大事なお務めをされているのですよ?」
背後から、凛とした女性の声が響いた。
木賊色の加賀小紋に黄檗の帯、朱の帯締め。襟元からすっと伸びた、細く白い項、ほつれ一つ無く結い上げられた髪。
鬼龍亜弥子が、初夏らしい和装の佇まいで居間から姿を現した。
「失礼いたしました、康則さま。他意はなかったのですが。では私は執務がありますので、これで」
鈴城は亜弥子に目礼した後、僅かに片眉を上げて康則に詫びてから執務室に入った。
「鈴城の難点は、職務に忠実すぎるところです。気に障る時がありましたら、わたくしに免じて許してあげて下さい」
居間から出てきた亜弥子は執務室に顔を向け、困ったように微笑んだ。弧を描く眉、細い鼻梁と顎。将隆は母親似だなと、改めて思った。
「あ、いえ、とんでもないです……今日の件は、自分に非がありますから。それで、あの、実は……」
言いにくそうにする康則を気遣い、亜弥子が遮る。
「将隆なら、気にしなくても良いのです。あの子は、わたくしと将成さまが一緒にいることを嫌います。ところで万由里から聞きましたが、まだ夕食を済ませていないそうですね。こちらに運ばせましょう。康則さんと少しお話しがしたいのですが、よろしいかしら?」
「承知、いたしました」
畏まる康則に、亜弥子が笑った。無邪気な少女のような笑顔だ。性格な年齢は知らないが、若々しい美しさは、高校生の息子を持つ女性には見えない。
「いらっしゃい、お茶を入れましょう」
居間に招かれた康則は、亜弥子にお茶を入れて貰い夕食を摂った。亜弥子は将成と一緒に夕食を済ませたと言って自分にもお茶を注ぎ、康則の話に耳を傾ける。
仕事の話は、敢えて聞いてこなかった。
康則が話したのは、学校のこと、友達のこと、授業で習っていることなどだ。亜弥子は季節の花や、館山の別邸で見たという鳥の話をしてくれた。
本当は、将隆の様子を話すべきなのだが、亜弥子を心配させる内容しか思いつかない。そう言えば今夜、将隆が横浜のどこで何をして遊ぶのかさえ知らなかった。亜弥子との会話で気が付き、康則は愕然とする。
学生の顔、鬼狩りの仕事をする顔、屋敷内で父親である将成に反発する顔。
職務に囚われすぎて自分は、将隆の本当の顔を見ていない?
「優希奈に、会ったそうですね」
食事の膳が下げられてから、熱いお茶を入れ直していた亜弥子が唐突に切り出した言葉で、康則は我に返った。
流れからして、優希奈の話があるだろうと内心覚悟していた。
亜弥子の別居、月に二度の来訪、将隆の不在。疑問の答えは、全て明らかになっていた。だが実際に、その名が出てくると平静な気持ちではいられない。
「はい」
会った、とは言えなかった。優希奈は、康則のことが解らないのだから。
亜弥子は目を伏せ、一口お茶を含んでから再び康則に顔を向けた。
「お務めと解っていても、心穏やかではいられません。辛さから逃れようとして、家を出たわたくしを、将隆は恨んでいるでしょうね」
「それは、無いと思います。むしろ将隆さまは……」
亜弥子を慰めようとして、つい、口が滑った。
「将隆が、将成さまを憎んでいることは知っています。時間は掛かるでしょうが将隆も、いずれ将成さまのお考えが解るはずです」
「では亜弥子さまは、将成さまを……」
許しているのか? それでは、あまりにも将隆が不憫だ。
亜弥子は何も言わずに、悲しそうな目をした。それが、口にすることが出来ない答えだった。
居たたまれずに、康則は席を立つ。部屋を出ようとした矢先、亜弥子の声が背に掛かった。
「欲望だけが、鬼化の原因でしょうか?」
振り向くと、射貫くような真摯な瞳が、康則を見つめていた。
「それは、どういう意味です?」
着物の裾も乱さす立ち上がった亜弥子は、滑らかに康則の傍らへ歩み寄る。ふわりと、甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「高槻家御当主の依頼で、鬼となった長女の頼子さんを斬りに行かれたそうですね……。高槻家代々の〈業苦〉を背負ったとしても、女性である頼子さんが、お金や地位や名誉といった欲望で鬼になったと思いますか?」
「えっ?」
「頼子さんは家柄が違うという理由で、恋人を奪われました。その怨念が、彼女を鬼にしたのです。恋人は自ら鬼となって頼子さんと祝言を挙げ、一緒に斬られるつもりでした」
康則は、花嫁姿の頼子と黒羽二重の青年を思い出した。あの青年は、頼子と一緒に死ぬために、鬼になったというのか?
理解できない話だ。
「なぜ、亜弥子様はご存じなのですか?」
「高槻家とは……懇意にしていましたから」
高槻家の〈鬼狩り〉を依頼された時、調査した。当主の奥方は三年ほど前に病気で亡くなり、まだ大学生だった頼子を心配した亜弥子は、何かと相談に乗っていた。
まさか、頼子本人から打ち明けられたのか?
そして全ての事情を知った上で、将隆の初陣を見守るしかなかったとしたら……。
「申し訳ありませんが、亜弥子さまが言いたいことが解りません。自分は、自分に与えられた責務を果たすだけです。他に……何が出来ると言うんです?」
締め付けられたように苦しい胸から、やっと、声を絞り出した。
「人は、いつでも誰もが鬼になれる。鬼は、斬り捨てればいい。でも、それでは悲劇の連鎖は終わらない。〈業苦〉を断つのは、新たな悲劇を生むためではなく後に続く世代の幸せのためです。それだけは、忘れないで下さい。将隆を頼みます。あなただけが、あの子を守れるのですから」
そう言って亜弥子は、康則の右手を両掌で包み微笑んだ。とても、暖かな手だった。
不思議なことに、苛立ちや不安が霧散し、気力が蘇る。
亜弥子の言葉は、康則の心に一条の光をもたらした。
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