第3話

 黒のメルセデス後部座席に戻った将隆は、エンジンが掛かると同時に運転席間の仕切り窓を閉じ、声を上げて笑い出した。肩を震わせながら笑う姿を呆れ顔で見つめ、康則は溜め息を吐く。

「相馬刑事のこと、からかっているんですか?」

「そんなことはないよ。でも、あの顔は、面白かった」

 言いながら、また、将隆は笑いを噛み殺す。

「失礼ですよ」

「礼は、表したつもりだけど? グローブも外したしね」

 確かに、将隆が握手を求めるなど、滅多にないことだ。ただし、グローブは最初から付けていなかったのだが。

「堀川警視正に握手を求められたときは、無視されました」

「ああ、ビジネス関係の人間とは手を握らない主義なんだ。相馬刑事とは、友人になれそうだから握手したんだよ」

 事件発生の一報が入って直ぐ、外出していた将隆に連絡した。屋敷近くにいたらしく数分で現れた将隆は、出動準備よりも先に、堀川警視正を呼び出せと命令したのだ。

 その理由を聞き、康則は驚いた。

 将隆が鬼龍家と警察の繋ぎ役として指名した人物が、相馬祐介だったからだ。

 しかも「友人になれそうだ」とは……。

 どこまで本気の言葉か、康則には計り知れない。

 もしかして自分も、からかわれているのか? だとすれば、不愉快だった。

「不満そうな顔だな、康則。相馬刑事を指名した理由は、下っ端を取り次ぎ役にすることで上層部が動きにくくなると考えたのさ。警察に勝手な真似をされると、面倒だからな」

 友人になれそうだと言いながら、下っ端扱いとは将隆らしい。少なからず、遊びで相馬を指名したわけではないようだ。

「ところで康則は、この状況を、どう考える?」

 この状況とは言うまでもない、一般人の鬼化のことだ。

 康則は頭の中で情報を整理し、言葉を選んで口を開く。

「二本以上の角を持つまでに成長した〈業苦の鬼〉は、鬼化の素因を持つ人間を嗅ぎ分けて操り、新たな鬼を生み出します。そこで先日の鬼狩り、高槻頼子と男の接点を調べましたが無関係でした。餌にされた女子学生と男の接点は不明ですが……実は、今の男も犠牲者かもしれません」

「俺も、そう思う。鬼化は本来、段階を得て進行する。だが今日、鬼化した男は変化に混乱して暴れ、知性を失った。頼子が兵隊にした鬼共と同じだ。強力な力を持つ鬼は、ターゲットにした相手の精気を枯れ果てる直前まで吸い取り、自らの一部を与える事で急激な変化を起こさせる。鬼化した男の近くに、真の敵がいたはずだ」

 誰かが、いや、強い力を持つ〈業苦の鬼〉が意図的に一般人を鬼化している。

 何のために? 

 将隆の口調も、表情も、いつもと同じく醒めていた。しかし、車中という狭い空間で近くにいると、そこに含まれた僅かな心象を感じることが出来た。

 将隆は、「敵」と言った。怒っているのだ。

 その怒りの矛先が、康則には解っていた。自らの欲望と罪を背負い、鬼になるのは業報だ。だが敵は、報いを受ける段階にない人間を利用し、多くの犠牲者を出している。

 もはや、鬼龍家の体面は問題ではなかった。

 将隆の怒りは、康則を奮わせた。一刻も早く敵の存在を、明らかにしなくてはならない。

「えっ……?」

 その時、康則は自分の中に沸いた感情に戸惑い、思わず声をあげた。

 主君に対する忠誠と、献身とは違う。純粋に、将隆を怒らせた敵が憎いと思ったからだ。

「なんだ? 心当たりがあるのか?」

 怪訝そうに康則の顔を覗き込み、将隆が尋ねた。

「いえ……もう少し検証してからご報告するつもりでしたが、餌になった二人目の犠牲者は精気が枯れ果てていませんでした。鬼化に、失敗したとも考えられます。過去五十年ほどの統計から見ても、同じ地域で一般人の鬼化が連続発生した例はありません。鬼は、意図的に生み出されていると考えて、間違いないでしょう」

 努めて平静に答えたが、胸にはまだ、不思議な感覚が残っていた。

 顎に手を当て将隆は少し考え込んでいたが、顔を上げると運転席間の仕切り窓を開いた。

「車を、横浜にまわせ。今夜は帰らない」

「了解しました」

 ハンドルを握る黒服隊員が無線を鬼龍家本部に繋ぎ、執事の鈴城に指示を仰ぐ。

「鬼化した男の身辺調査は、私がします。将隆さまは、屋敷に戻って下さい。確か今日は……」

 将隆の母、館山の別邸に住んでいる鬼龍亜弥子が来訪しているはずだ。

「調査じゃない、屋敷は息が詰まるから外で遊んでくるだけだ。気が向いたら帰るよ」

 館山まで会い行くことはあっても、父である将成の元で会うのは嫌なのだろう。その気持ちが理解できた康則は、それ以上、何も言わなかった。

「康則、おまえはどうする?」

「自分は残務処理と、男の身辺情報収集があるので帰ります」

「なんだ、つまらないヤツだな……」

 必要とあれば、護衛も宿泊先も鈴城が用意する。一滴の返り血も浴びず、涼しい顔の将隆とは違って康則は、我が身に纏い付いた殺戮の臭いが気になった。

 常時利用しているホテルは地下駐車場の直通エレベーターを使い、最上階にキープしてあるスイートまで誰にも会わずに行くことが出来る。それでも、その場所に存在する人々とは世界が違うのだと、思い知ることになるのだ。

 相馬刑事の、異質な物を目にした人間特有の表情が、脳裏にこびり付いて離れない。

 将隆が、ドア・ウィンドウを下げた。

 心地よい夜風が、髪を掻き上げ頬を撫でた。この風が、血の臭いも拭い去ってくれればいいのにと思う。車窓の向こうに明滅する色とりどりの明かりに、平和な生活が垣間見えた。

 世界の違い……。

 康則は、広げた両手を見つめ、強く握りしめる。

〈業苦の鬼〉と鬼斬りの一族。相馬から見れば、どちらも化け物に思えるだろう。だが自分は、欲望に支配され殺戮に愉悦を覚える鬼とは違う。戦う理由があるのだ。

 戦う理由? それは何だ? 主である、将隆のためだけか? 

 何度も繰り返される疑問の答えが、まだ見つからない。

「到着しました」

 気が付くと車は、ホテルの地下駐車場に停まっていた。

 部屋まで送ろうとした康則を断り将隆は、専用ケースに収めた〈鬼斬りの刀〉を携えて直通エレベーターのドア向こうに姿を消した。

 再び走り出した車が、駐車場を出たときだった。普段使いの携帯電話が、メールの着信を知らせた。

『件名/お疲れ様

 本文/今度、ゆっくり飯でも食おう』

 相馬刑事からのメールに、康則は苦笑した。


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