第7話
夕食後、自室で待機していた康則を執事の鈴城が呼びに来たのは、深夜0時を過ぎてからだった。
万由里ではなく、鈴城が迎えに来たからには本務だ。単なる状況説明では終わらない。将成から、何かしらの指示があるのだろう。
鈴城は綺麗にプレスした白シャツに海老茶のタイ、黒無地のスラックス姿だ。早朝であろうと深夜であろうと、この執務服以外の姿を見た事がない。
少々気難しいが真面目で実直な執事は、先に立って将成の私邸である離れに康則を案内した。
「康則さまが、いらっしゃいました」
離れとはいえ、門を構えた立派な一軒家である。玄関先で来訪を告げた鈴城が辞してから、康則は緊張の面持ちで奥の間へと進んだ。
「康則、参りました」
襖の手前で跪座し声を掛けると、部屋の中から低い声が「入りなさい」と応えた。より一層、気持ちを引き締めて襖を開く。
最初に目に入ったのは、和装の広く逞しい背中だった。
将成は文机に向かい、何か書き物をしているようだ。下座に座して姿勢を正し、康則は待った。
「遅い時間に、すまんな。将隆にも話したい事があったが、どこかへ出かけているようだ。待つうちに夜が明けてしまうだろうから、おまえだけ来て貰った」
背を向けたまま、将成が言った。
「将隆さまは、館山の別邸に行かれたのでは? 最近、週末を過ごされる事が多いですから」
有料道路を利用すれば、館山まで二時間の距離だ。中型のロードバイクを駈って将隆は月に一度、鬼龍家別邸がある館山に行く。別邸には、将隆の母である鬼龍亜弥子が住んでいた。
しかし今夜の目的は、館山ではない。なぜなら、普段持ち歩かない連絡用携帯を持っていくと、康則に伝えて出たからだ。
取り繕う康則の言葉に将成は、ゆっくりと身体を向けた。
「ほう、このような時に? まったく将隆は、何事も康則任せで困る」
後ろに流し、一つに纏めた豊かな黒髪。鼻梁が高く彫りの深い、端整な顔立ち。きっちり着こなした和服の襟元から、太い首と筋肉の盛り上がった肩を見て取る事が出来る。
その口元に柔和な笑みを浮かべながらも、眼光は鋭い。康則の浅知恵など、見透かされているのだ。
怯まず視線を受け止めたが、脇に冷たい汗が伝った。
「……まあ、いい。今日は、おまえで務めが足りる」
緊張の糸が少し緩み、康則は細く息を吐いた。その様子を見た将成の笑みが、気を許したものに変わる。
「そう、硬くならずとも良い。どうやら鬼龍の監視網に、不備があったようだな。一般人から、鬼の犠牲者が出たと聞いたが」
「……はい」
「これまで解った事を、話しなさい」
将隆に報告してから、新しく得た情報はなかった。私見を挟まず、現状で知りうる全てを伝えると、将成は厳しい表情で黙り込む。
瓦屋根に当たる静かな雨音が、僅かな沈黙さえも永遠のように感じさせた。
「検死報告と警察内部の情報は、明日になれば鈴城に入るだろう。鬼の仕業と確定すれば、あとは我々の仕事になる。表沙汰にならないように、留意して貰いたい」
「心得ております」
鬼龍の配下は警察内部のみならず、政庁、病院、金融、流通、裏社会など、あらゆる組織の中枢に入り込み監視に目を光らせている。失態を演じれば信用を失い、今後の仕事や情報収集に影響が出るだろう。
「責務を譲ったからには、私が手を出すつもりはない。しかし将隆は、人を使う術が欠けている……おまえの助けが必要だ」
「はい」
はたして自分は、本当に将隆の助けになっているのだろうかと疑問が湧いた。将隆は、誰の助けも必要としていないのではないか?
半端な覚悟……。
図書室で、将隆が言った言葉。将成に相談した方が、いいだろうか?
いや、ダメだ。
理由は何であろうと将隆は、将成を拒絶している。康則の主人は将隆だ、相談は出来ない。
「どうした、康則。言いたい事があるなら、言いなさい」
逡巡する思いを察し、将成が水を向けた。
「いえ、何もありません。将隆さまのお役に立てるように、尽力致します」
動揺を押し隠し、硬い声で応えると将成は眉根を寄せた。が、次の瞬間、破顔する。
「あっはっはっは、康則、おまえは全てにおいて生真面目すぎる。将隆と付き合うなら、もっと肩の力を抜いた方が良いな」
「えっ? あ、はい……」
「固持しすぎれば、見えるものまで見えなくなる。将隆は、おまえが真の務めを理解する時を待っているのだよ。さて、昨夜からの務めで疲れているだろうから、今夜はもう休みなさい。明日、人手が必要なら鈴城に手伝わせよう」
「ありがとうございます」
背を向けた将成に、用件が済んだと判断した康則は一礼して席を立った。が、ふと違和感を感じて部屋を見渡す。
「将成さま……庭の花菖蒲は、ご覧になりましたか? まだ早咲きが何本か咲いているだけですが、この雨で明日は見頃になるでしょう」
肩越しに顔を向けた将成は、苦笑を浮かべた。
「花菖蒲は好かんな、特に青いのは辛気くさくていかん」
「知らず、余計な事を言いました。申し訳ありません」
「いや、構わんよ」
釈然としないまま、康則は部屋を辞した。
確かに万由里は、将成の部屋に花菖蒲を飾ると言った。しかし、床の間に活けられていたのは、白い百合の花だ。
万由里が、将成の好みを間違うはずがない。康則と会話した後で気付いたとも考えられるが、あの時の態度からして普段と違った……。
詮索するつもりはなかった。しかし、康則に隠さなければならない事とは何だろう?
それだけが、気に掛かった。
離れの門を出て庭を見渡すと、柔らかな灯籠の光に浮かび上がる花菖蒲が風に揺れていた。雨は霧のような小ぬか雨になり、外気を冷やしている。
「肩の力を抜いて、半端ではない覚悟を決められるものかな? 万由里さんにしても久米さんにしても、解らない事ばかりだ」
大きく溜息を吐き、肌寒さに身震いしながら母屋の灯り目指して踵を返す。その時、目の端に人影らしき動きを捕らえて、康則は身を固くした。
鬼龍家の警備は万全だ、侵入者があるはずはない。
気配を探り目を凝らすと、庭を横切る黒っぽい傘を差した小柄な人影が、鈴城万由里だと確認できた。
「万由里さん……こんな時間にどこへ?」
万由里は菖蒲園から池を廻り、古い蔵が並ぶ裏庭方向に姿を消した。蔵に何かを取りに行ったのだろうか? こんな真夜中に?
暫く迷った末、戻るのを待つ事にした。偶然を装い、用事の内容を聞いてみようと思ったのだ。
これ以上、疑問を先送りにしたくない。
万由里は、なかなか戻ってこなかった。
敷地内とはいえ、時間が時間だ。心配になって様子を見に行こうかと思い始めた頃。手に盆のようなものを持ち、ようやく姿を見せた。
時々立ち止まっては、伺うような素振で辺りを見回している。あの様子では、驚かさないよう声を掛けるのは難しそうだ。
相手が先に自分を見つけられるように、勝手口の明かり近く移動する途中。
「康則、そこで何をしている? ああ、またアイツに呼びつけられたのか?」
突然、背後から冷たい声に呼び止められ、驚いたのは康則の方だった。
「将隆さま……いったい、今までどちらに? 将成さまが、心配されていました。そんな格好で出歩いていては、風邪を引きます。早く着替えた方がいい」
心持ち皮肉を込めた言い方に、将隆は肩をすくめた。ランニングにシャツを羽織り、綿のパンツにスニーカー。しかも、全身ずぶ濡れだ。
「は? 呆れてたの間違いだろう? こんな大事な時に、将隆はどこで遊んでいる! ってね」
水の滴る前髪を手で梳き上げ、将隆が笑った。「その通りだ」とも言えず、康則は口を噤む。
「ところで、アイツは何だって? いずれにしても俺は俺のやり方で、この件を始末するつもりだ。そっちは、適当に報告だけ……」
「将成さまは、将隆さまに任せると仰いました。それに、私がお仕えするのは将隆さまであって、将成さまではありません!」
思わず、強い語気で言い返した。嘲笑を含んだ言い方に、苛立ちを抑えられなかったのだ。
「あ……取り乱しました、申し訳ありません」
突然の反論に、将隆は酷く驚いたようだ。目を丸くして、康則を見つめている。
康則もまた、自分の言動に驚いていた。
将隆の〈露払い〉として鬼龍家に来たからには、余計な事など考えず任務に忠実であるべきだと思っている。しかし将隆も将成も、万由里も久米も、他の何かを自分に求めている気がするのだ。
それが何か解らないでいるのに、将隆は康則の立場を茶化すように言う。康則は小さく、唇を噛んだ。
しばらく康則を見つめていた将隆の顔が、徐々に赤味を帯びてきた。どうやら怒らせてしまったようだ。今さら悔やんでも、後の祭りだった。
「いいだろう……その言葉通りなら、俺を失望させるなよ!」
「えっ?」
投げつけるように言い放つと、将隆は背を向けて足早に去っていった。
予想外の態度だった。
康則が将成に呼び出されるのを、快く思わない将隆である。嫌味か、当て擦りの言葉が返ってくると覚悟した。ところが、康則の言葉に正面から応えたのだ。
まるで、口喧嘩のようだと思った。
将隆さまと、口喧嘩? ありえない。
「今夜出かけた先は……横須賀と本牧だ」
突然、暗闇から将隆の声が聞こえた。
「はい、了解しました」
我に返って返事をした康則は、声のした方向に頭を下げた。
これまで将隆が自分の行動を康則に教える事など滅多になかった。
先ほどのやり取りが、心情に変化を与えたのだろうか?
様々な要因が絡み合い頭が混乱したが、気持ちを切り替え、横須賀と本牧の意味を考える。
横須賀は、土地柄過去数年の〈魔伏〉出現率が高かった。本牧の倉庫群は、隠れ家として最適ということか?
将隆は、独自の見当を付けて様子を探りに行ったのだろう。裏付けを取る必要があった。
「……万由里さんを、捕まえ損なったな」
万由里の件は、考えない事にしよう。当面の問題は、自らの責務を果たす事だ。
雨と風で冷え切った体の奥、康則は静かに決意を固めた。
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