第6話
屋敷の出入りは敷地南にある正門を使うように言われているが、自転車を押しながら、いかつい黒服の前を通るのは苦手だ。
康則は普段から使っている東の通用門インターフォンに「ただいま」と声を掛け、監視カメラに軽く手を挙げて挨拶した。セキュリティ解除の電子音が鳴り、ドアノブ横のライトがグリーンになる。
肩で扉を押し開け石塀の中に自転車を引っ張り込んだ途端、音を立てて扉が閉じ、再びセキュリティが掛かった。
「お帰りなさい、康則さん」
内側に設置された警備室窓から、人の良さそうな作業服の男性がニコニコしながら顔を出した。
「こんにちは、久米さん。今日は、何か変わった事ありましたか?」
白い物が混じる髪と目尻に刻まれた皺から、六十代後半と思われる久米は、左手を顎に当てて視線を泳がせた。
「そうですねぇ……昨夜のお務めで受けた損失と事後処理のために、人の出入りが多いですね。鈴城さんが、走り回っています」
昨夜は高槻家で多数の人間が死に、その中には鬼龍の隊員八名も含まれていた。執務を取り仕切る鈴城は、高槻家の事後処理に猫の手も借りたいほど忙しいに違いない。
おそらく犠牲になった隊員への配慮は、後に回されているだろう。憂鬱になる仕事だが、手伝いに行った方がよさそうだ。
「後で、鈴城さんの所に顔出してみます」
窓に向けて軽く会釈してから、自転車を押して警備室脇を通り過ぎる。すると、久米が外に出て追いかけてきた。今まで窓から顔を覗かせるだけだった久米の立ち姿は、驚くほど背が高い。
「康則さん、もう一つご報告がありましたよ! 池の南にある菖蒲園が、見頃です。是非ご覧になってください」
わざわざ追いかけて来て、報告する事でもないだろうに。
嬉しそうな久米の笑顔に戸惑いながら、康則は愛想笑いを返した。
久米がせっかく勧めてくれたのだ、好意を無下にするのは悪い。少し遠回りになるが、菖蒲園を観てから母屋に戻る事にした。
室町時代の地泉回遊式庭園を模した鬼龍家の日本庭園は、蓬莱山を設けた大きな池を中心に橋や築山を周囲に配し、季節を彩る四つの園路を巡る事が出来た。菖蒲園があるのは、春園と夏園の間だ。
訪れてみれば、濃い青紫色をしたアヤメが花の盛りだった。ハナショウブは、ほころびかけた蕾も幾つかあるが、見頃は十日ほど先になりそうだ。湿地に渡された八つ橋を歩き、康則は池の畔に出る。すると足音と人影を察し、金、銀、朱の輝きがアヤメの映る水面を揺らめかせ近付いてきた。
「悪いけど、何も持って無いんだ」
学生鞄を置いた岩の下、水飛沫をあげる錦鯉に話しかけて康則は苦笑する。この屋敷で敬語を使わなくて済む相手は、錦鯉くらいだ。
しばらくして、餌が貰えないと解かった十数匹の錦鯉は優雅に身を翻し、水深の深い石橋の影に戻っていった。ところが、ひときわ大きく金の鱗が美しい錦鯉が一匹、その流れに逆らい雑魚を押しのけて康則の前に進み出た。餌を求める様子もなく、ただじっと、水面下から康則を見ている。
錦鯉とはいえ、腹が立つほど不遜な態度だ。
「そんな顔で見るなよ……この池の平穏を乱したとでも言いたいのか? それとも、連中の期待を裏切ったと責めてるのかな? ハッキリ言ってくれないと、解らないよ。半端な覚悟って、どういう事なんだろうな……おまえ、解るか?」
はたして鯉に向かって話しているつもりが、最後は愚痴になっている。我ながら滑稽な姿だと、苦笑した。
相談したり愚痴を言ったりする相手がいれば、少しは楽になれるのだろうか。しかし、この春に、たった一人で鬼龍家の門をくぐった康則に話し相手はいない。執事の鈴城や警備の久米が相手をしてくれたとしても、分かち合える内容ではなかった。
いや、楽をしようなどと考えてはいけない。
〈露払い〉に就いたときから、自分のやるべき事は解っているはずだ。学業も友人も、たとえ万由里であろうとも、将隆を護り鬼を狩る為だけに活かしている。半端な覚悟など、していない。
それでも将隆は、何かが足らないと言うのか?
ふと視線を感じて、康則は焦った。
振り向いて確かめるまでもなく、どうやら一番苦手な人物に体裁悪い場面を目撃されてしまったようだ。ゆっくりと足下に置いた背負い型学生鞄を持ち上げ、菖蒲園を見渡す所作で視線の主に顔を向ける。
「お帰りなさいませ、康則さま。……あの、どなたかと、お話しされていたようなので、お声をかけては悪いと遠慮していたのですが……」
八つ橋の上で、鈴城万由里は戸惑いの笑みを浮かべていた。康則は携帯電話も、通信機らしき物も手にしていない。当然の反応だろう。
「……鯉と、話していました」
「鯉……と、ですか?」
「はい。今日のように天気が良い日は、鯉も気持ち良いだろうなと思って」
正直に答えてから、思い直した。「考え事をしていた」と言うべきだった。案の定、万由里の笑みは固まり、返答に困っている。
「ええ……本当に……その、初夏の天気が良い日は、鯉も気持ち良さそうです。でも……今日は、先ほどから雲が出てきて今にも雨が降りそうですけど……」
康則は空を見上げ、掌を前にかざした。掌に感じるより早く、メガネのレンズに水滴が落ちる。
「あ、本当だ。いま、雨が当たりました」
眼鏡を外し、雨の跡を確かめている康則を見た万由里は突然、吹き出した。
「……康則さまって、面白い方ですね」
声を殺し、肩を震わせて笑い続ける万由里を前に康則は戸惑った。この場合、どうやって場を取り繕えばいいのだろう。すると、万由里が抱えているアヤメの花束が目に入った。
「その花は、将成さまの部屋に飾るのですか?」
「えっ?」
意外な事に万由里は顔色を変え、視線を宙に泳がせた。
「あ、そう……そうです。将成さまは、この花がお好きですから離れに飾ろうと思って」
挙動に不審を抱いたが、職務に無関係に思えたため、詮索はしないことにした。
「それにしても、康則さまが庭にいらっしゃるとは思いませんでした。お休みの日は時々お見かけしますけど、この時間に珍しいですね」
「警備の久米さんに、菖蒲園の鑑賞を勧められました」
「久米さんに勧められたから、わざわざ遠回りして菖蒲園に?」
「はい」
万由里は、桜色の唇をほころばせて笑った。堪えた笑いではなく、いつもの可愛らしい笑顔だ。もしかしたら面白い人物という認識を、加算してしまっただろうか?
「久米さんは驚くほどの観察眼で、その時の気分にあった庭の眺めを勧めてくれるんです。康則さまは、よほど難しい顔をしてたのですね? 久米さんは、考え事は水の近くが良いと言っていました」
久米は、不思議な空気を纏った人物だ。康則の表情を読んで勧めた事が本当なら、見た目からは想像出来ないが、鋭い観察眼をもち細やかな配慮が出来る男なのだろう。
修行不足だ……今後は気付かれないように注意しなくては。自重というよりむしろ愉快な気分になった康則は、気持ちが軽くなっていた。
こんな風に気に掛けてくれる人がいるのは、素直に嬉しい。
やがて細かな雨が、足下の石に小さな点を描き始めた。
雨は万由里が抱えるアヤメの花びらで銀色の珠になり、真っ白なシャツに滴り落ちる。高い位置で纏めたポニーテールにも、ガラスのビーズのような水玉が散りばめられていた。
康則は常備している折りたたみ傘を学生鞄から取り出し、広げて万由里に差し出した。
「ありがとうございます。あ、でも私は大丈夫ですから、傘は康則さまがお使いになってください」
言われてみれば、アヤメの花束を抱え万由里の両手は塞がっている。これでは傘は持てない。
「傘は俺が持ちますよ。万由里さんは前を歩いてください」
「いけません、それでは康則さまが……」
慌てて万由里は、申し出を断った。しかし無言で譲ろうとしない康則に、とうとう降参して遠慮がちに前を歩きだした。
初夏の雨が、優しい音をたてて庭木を洗う。
いっそう鮮やかになった新緑は美しく、日中に暖められた地面から立ち上る薄い靄が、菖蒲園を幻想的な景観に変えていた。
前方に傘を差しかけていると、自然と万由里の白く細い項が目に入った。濡れて貼り付いた後れ毛に、女性らしさを意識してしまう。
和服が似合いそうだな、と、思った時。
青紫の薄い花弁と一人の少女の姿が、情景に重なった。
「アヤメを見ると、優希奈さんを思い出します。お元気で、お過ごしでしょうか……」
振り向いた万由里は、一瞬、複雑な表情をしたあと目を伏せた。
「優希奈さまが養女になられたのは、仙台の旧家と伺っていますが……ご事情があるらしく、私には何もわからないんです。お里帰りも許されていないようですし」
「……そう、ですか」
鬼龍優希奈(きりゅう ゆきな)は、将隆の一歳下の妹だ。康則が鬼龍家に仕える前に、ある名家の養女になったと聞いている。最後に会ったのは、小学六年生の春休みだ。
将隆が横浜の屋敷に戻り叢雲学園中等部に入る事になったので、館山に残る康則は別れるまでの数日を鬼龍家で過ごす事になった。
良く思い出すのは、三月だというのに雪がちらつく寒い日の出来事だ。
将隆がふざけて、餌を求め集まってきた池の鯉に石を投げた。すると優希奈が、泣きながら抗議したのだ。ところが将隆は面白がって、わざと石を投げるふりをした。
すると突然、優希奈は将隆を池に突き飛ばした。
さすがの将隆も、大人しい妹の暴挙を予想できなかったようだ。冷たい池に頭から落ちて、ずぶ濡れになった。
自分のした事に自分で驚いたのか、優希奈は更に激しく泣き出し、康則が必死で慰めた事を覚えている。
その日の夜、池に落ちた将隆は平気でいたのに優希奈が高熱を出し、二日も寝込んでしまった……。
和服の似合う、すっとした立ち姿。気品と華やかさを併せ持ち、青紫の花菖蒲がよく似合う少女だった。時を経て、さぞ美しい女性になっている事だろう。
「あ、ところで先日のお怪我の具合は、いかがですか?」
おずおずと尋ねた万由里に、康則は笑顔を返した。
「ありがとう、もう痛みもないし大丈夫です。手当が上手かったからですね」
「そんなこと、無いです……でも良かった。将隆さまや康則さまのお務めは危険なものだと知っていますが、どうか、お怪我には気を付けてください」
「はい、わかりました」
小首を傾げて微笑んだ万由里のポニーテールが揺れて、銀色の雫がこぼれた。
どうやら万由里は、優希奈の話題を避けたい様子だ。気にはなったが、万由里を困らせるつもりはない。
母屋の勝手口まできて康則が傘を閉じると、万由里が少し怒った顔をしてみせた。
「いけません、康則さまは表玄関からお帰り下さい。お爺さまや将隆さまに見つかったら、私が怒られます」
「……こっちからの方が、自分の部屋に近いんだけど」
「絶対に、ダメです!」
今回は康則が、万由里に降参するしかないようだ。仕方なく閉じた傘を、再び開く。
「あっ、それから、お伝えする事があって後でお部屋に伺うつもりだったのですが……」
「ここで伝えてくれても、かまいませんよ?」
一変して硬くなった万由里の表情で、伝言を頼んだ相手の予想がついた。
「将成さまが康則さまにお話があるので、夕食後、離れにいらして欲しいそうです」
やはり、将隆の父である将成からの言付けだった。
「わかりました……将隆さまも一緒なのかな?」
「さあ……私は康則さまだけに、お伝えするよう言われましたけど」
話の内容に、察しはついた。不審な死を遂げた学園の女生徒、坪井遥香の件だ。
〈鬼斬り〉の責務を将隆に譲っても、関わりある噂を見過ごせないのだろう。
将成の体調は日中に比べ夜の方が良いため、用件は大抵、遅い時間に伝えられる。高槻家の報告も、昨夜遅くに康則が済ませていた。
弱者をいたわり己に厳しく、広く柔軟な心を持つ将成は、一族ならずとも慕う者が多い。
日が落ちて、〈鬼斬りの刀〉を操り数多の鬼を斬り捨てた強者の面影を取り戻すと、嬉しく思う。
雨足が強くなり、勝手口の庇まで吹き込んできた。傘で風を避けるようにして、康則は勝手口に背を向けた。
「あの、雨が激しくなってきましたから……やっぱり、こちらから母屋に入って下さい」
心配顔の万由里に顔を向け、康則は微笑んだ。
「大丈夫です。考えたい事があるから、少し庭を歩いて帰ります」
「そうですか……お身体を冷やさないように、気を付けてくださいね。お部屋に戻られた頃に、コーヒーをお持ちします」
「ありがとう、お願いします」
庭に出た康則は、見送る万由里から見えない所まできてから溜息を吐いた。
将成に、どう報告したものか頭が痛い。将隆の機嫌を損ねても、面倒な事になりそうだ。
こんな時に優希奈がいれば、上手く間に立ってくれただろうか?
打ち付ける雨が、池の水面を白い飛沫で覆った。あの不遜な態度の鯉も、ひっそりと岩の影に隠れて雨をやり過ごしているだろう。
自分は、行く手に何が立ち塞がろうと逃げも隠れもしない覚悟は出来ている。だが取り敢えず目の前の難題を、どう解決したものか……。
冷え切った身体をそのままに、思案に暮れる康則だった。
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