第3話

 鬼龍の屋敷から自転車で二十分ほどの所に、将隆と康則が通う〈私立叢雲学園横浜校〉があった。

 十九世紀末の有名なオランダ人建築家が建てた美麗な学園は、東京湾を望む自然豊かな高台の景観に荘厳な存在感を与えている。

 高槻家の件から一夜明けた月曜日、康則は学園へと続く私道に自転車を走らせていた。

 新緑のケヤキ並木は朝日を受け、コンクリート上に煌めく模様を映し出す。ロードワーク中のラクロス部女子達が、明るい笑顔で通り過ぎていった。

 後方に車の気配を感じ振り向くと、黒塗りのセダンが康則の自転車を追い抜いた。

 後部座席で目を閉じ、眠っているように見える端正な横顔。線が細く、同い年にしては幼くも見える将隆の、いったいどこに揺るぎない気概と強さと冷酷さが潜んでいるのか。

 選ばれた名家の子女が通うこの学園でも、鬼龍家は別格だった。

 生徒ばかりでなく、教師までも将隆に敬称を付ける。成績は常に首位、全校生徒に義務付けられた部活動では乗馬部と弓道部に所属し相応の実力を持っていた。しかし部としての活動に参加することはなく、競技会に出ることもない。

 中等部・高等部あわせて女子生徒憧れの的ながら、透明で冷たい瞳は他者を排斥する光を宿し、近付く者を許さなかった。


 昔は、違った。


 家柄の違いから将隆は〈私立叢雲学園横浜校・中等部〉に入り、康則は公立の中学校に入ったが、小学校時代は房総にある縁者の屋敷で共に生活し、学園本校の小等部に通っていた。

 互いの名を呼び捨て、大人に隠れて海辺の岩場に秘密基地を作り、厳しい剣の稽古に励み、時には行き過ぎた悪戯を諌められた。


 いまから思うと、一番楽しい時間だった……。


 中学校の卒業間際、鎧塚では本家筋から一番遠い康則に〈露払い〉の達示があった。

〈露払い〉は大事な役目だ。鬼龍家では若い当主に年長者を付けることが定石となっている。康則のように若輩で、家柄が下位に当たる者が任命される事など本来なら有り得ない。

 短い時間に過酷な訓練を受け、四月になって満開の桜に彩られた鬼龍家の門をくぐった。


 風が強い日だった。


 視界を遮るほどの花びらが庭に舞い、桜色の霞を作る。


 その霞の向こうに、一人の少年が立っていた。


 心の中まで見透かされそうな、冷たく、透明な瞳。


 康則は知った。二人の関係は、一変したのだと。


 将隆の瞳に映る自分は、既に友ではなかった……。


 頭を振って当時の記憶を振り切り、煉瓦で作られた高塀を回って駐輪場のある裏門に向かう。

 自家用車の送迎は、将隆を含め特例を認められた数人だけだ。名家の子女であろうと通学は徒歩か自転車が学園の方針だった。

 徒歩と言っても大概は私道の下まで送迎車を使う家が多く、自転車で通うのは主に男子の少数派だ。


 裏門の門柱手前で自転車を降りた康則は、背後に視線を感じた。それも直視ではなく、伺い見るような視線。

 振り向かず、半分ほど開かれた真鍮の門扉に向かう。気配に敏感なことを気取られると、相手に警戒心を与え正体が掴みにくくなる。

 数メートル歩いたところで、声が掛かった。

「きみ、ちょっといいかな?」

「えっ? ボクですか?」

 驚いた顔を作り、自然に振り返った。道路を挟んだ歩道に、二十代後半から三十代前半くらいの若い男が人当たりの良い笑顔を浮かべて立っている。どうやら道向こうの敷地外駐車場から出てきたようだ。

 量販店物の濃紺スーツ、ブルーのピンストライプシャツ。ワインカラーのドッド柄ネクタイは、結び目がだらしなく緩んでいる。

 小走りに道路を横切り、男は康則に近付いた。

「駐輪場に並んでるの、外車ばかりだけど君は国産車なんだ? 趣味が良いなぁ……これ、アンカーでしょ?」

 バイクを口実に、話の糸口を作るつもりらしい。

 男の言う通り、門扉越しに見える駐輪場には名高い海外メーカーのロードバイクばかりが並んでいた。康則の自転車は国内メーカーの〈アンカー〉だが、フォルムも性能も海外メーカーに遜色なく気に入っている。

 康則としては中学校の登校に使用していたママチャリで不自由なかったが、執事の鈴城が渋い顔をしたのでロードバイクに換えたのだ。

 康則は、男に話を合わせて時間を無駄にするつもりはなかった。

「あの、何か用ですか? 始業前にやることあるから、急いでるんですけど」

「いやぁ、悪いね。実は僕、神奈川県警の者なんだけど二、三、質問に答えてくれる? 一応、学園の敷地外という条件で許可はとってあるから」

 提示された身分証には、神奈川県警捜査一課・相馬祐介と書いてある。身分は巡査部長だ。

 捜査一課所属刑事と解り、康則の中に警鐘が鳴った。

 鬼龍家の役目柄、警察との関係は深い。しかしそれは上層部で行われるやり取りで、巡査部長クラスでは分厚いカーテンの向こうを覗き見るなど不可能なのだ。

 高槻家の件で無いことは、明白だった。ではいったい、何だろう?

「ええと、名前聞いても良いかな? うん、鎧塚康則くん……っと。君は昨日、何時くらいに帰宅したかな? 自転車置き場に来た時間は?」

 昨日は鎌倉近くの高槻家に出向くため、所属する理学部に出ないで帰った。

「三時半くらいだと思います……昨日は用があって、早く帰ったから」

「何の用?」

 そんな事まで、詮索するのか? 

 少し不快に思ったが、警察に協力的な一市民を装う。

「鎌倉に住んでる叔母が病気で、見舞いに行きました」

 裏を取りに行くとは思えないが、念のため執事の鈴城に話を合わせてもらう必要がある。

「そっか、じゃあ、もう一つだけ。最近、裏門のあたりで不審な人物を見かけなかったかな? この学校は一般道に面した入り口がないから、外部の人間が近づくと気配ですぐ気が付くんじゃない?」

 相馬は口元だけに笑みを浮かべ、上目遣いに康則を見た。嫌な言い方をする刑事だ。

「刑事さん以外の不審人物なんて、見てません。何かあったんですか?」

 すましてやり返すと、相馬はきまり悪そうに笑った。

「まあ、いずれ解っちゃうと思うけど……僕からは言えないんだよ。急いでるところ呼び止めて悪かったね、ありがとう」

 素直な反応に、康則は当惑した。

 肩書きを、意識しすぎたか? 警戒の必要は、無いようだ……。

 軽く頭を下げて、その場を後にした。

 だが門扉に遮られるまで、まとわりつく視線は康則を追いかけていた。




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