第2話

 横浜市の南西、多くの神社仏閣が建ち並び、古い歴史の面影を色濃く残した丘陵地。

 その一番奥まった場所に、高い石塀で囲まれた鬼龍家があった。

 約七千坪の敷地には、手入れの行き届いた木々と優美な日本庭園、広大な書院作りの武家屋敷と七つの蔵、厩舎と馬場、射場と武道場、別棟が二つあり、竹林に守られた背後は切り立った崖になっている。

 康則に与えられた自室は母屋の東側、リビングを挟んで繋がる六畳の和室と八畳の洋室だ。

 部屋に戻りドアを閉めると、腰を落ち着ける暇無く学生服を脱ぎ、肩口の傷を調べる。

 幸いなことに、十センチほど皮膚が裂けているだけで軽傷だった。出血も止まっているので、消毒してガーゼを当てておけば二、三日でふさがるだろう。

 だが問題は、学生服だ。

 キャビネットの引き出しから簡易救急箱を取り出しソファに身を沈めた康則は、慣れた手つきで包帯を巻きながら小さな溜息を吐く。

 戦闘に、学生服を着るのは理由があった。

〈業苦の鬼〉は、由緒ある一族に出ることが多い。従って、退治を請け負う鬼龍家としては礼節を重んじ、正装にて対応しなければならないのだ。

 その点、学生の正装である学生服は丈夫で機能性もあり、あらゆる場面で見咎められない便利な服だった。

 通学時は無論のこと、普段の生活でも外出の際は不測の事態に備え、改良してある制服を着用することになっていた。替えならいくらでもあるが、新しく用意して貰うためには面倒な手続きが必要だ。

 いっそ、裁縫は苦手だが自分で縫ってしまおうか?

 だが染みついた血痕は、誤魔化しようがない。 

「康則さま、御在室ですか? お怪我をされたと、伺いましたが」

 遠慮がちなノックと共にドア越しから、やわらかな少女の声がした。

 鈴城万由里。鬼龍家執事である鈴城の孫娘だ。

「あ、いえ、たいした傷じゃないから自分で包帯巻きました」

「ダメです! ちゃんと見せて下さい!」

 ドアが勢いよく開かれ、眉間に縦皺を刻んだ万由里が部屋に入ってきた。

 深夜だというのに普段着姿なのは、将隆の帰りを待っていたからだろう。唇を真一文字に結んで、大きな目に浮かんだ涙を堪えている。

 ……これだから怪我のことは、知られたくなかった。

 面倒な手続き、それは万由里の涙無しに、新しい制服を手に入れられない事だった。

「私は御爺さまから、将隆さまと康則さまのお世話を言い付かっています。お怪我をされた手が不自由なら、ご入浴のお手伝いでも何でも致します。まずは傷を見せて下さい」

「いや本当に、かすり傷だし。不自由も、全然ないから!」

 同い年でありながら、母親や姉と同じ目で康則の身を案じる。

 たとえ母親や姉であろうと、女子に入浴の手伝いをしてもらうなんて断固拒否するところだ。

 まっすぐ差し出された、白く華奢な両手に血の付いた学生服を渡しながら、康則は天井を見上げ万由里の視線から逃げた。

 しかし、傷を見せない限り引き下がるものかと必死に睨みをきかせる万由里に根負けし、しぶしぶ包帯を解く。

 持ち込んだ救急箱から新しい包帯と消毒セットを出し、万由里は手際よく手当を始めた。

 息の掛かりそうな距離で、小さな頭が揺れる。

 ほんのりと香る甘い匂いは、万由里の好むシャンプーの香りだ。普段ポニーテールに纏めてある艶やかな黒髪は、就寝前のためか二つに分けてゴムで縛り、胸元に垂らしてあった。

「俺の怪我のことは、将隆さまが?」

 沈黙に耐えかね、康則は口を開いた。

「はい、心配されている御様子でした。将隆さまは、お怪我もされませんし、制服にほころび一つも作らないから……私には何も、出来ることがありません」

 万由里は、少し拗ねたような言い方をした。

 良く気が付き、こまめに働く誠実な少女にとっては、主人に必要とされない事がよほど不満らしい。代わりに康則の世話を完璧にやろうとするので、たまに困った事態を招くこともあるのだが。

 今夜、怪我をしたのが肩口で良かったと、つくづく思う。怪我の場所によっては、丸裸にされかねない。

 一般男子なら歓迎すべき状況かもしれないが、康則にとっては居心地が悪かった。深く考えもせず、夜中に少女を使わす主人を恨めしく思う。

 手当を終えた万由里は、救急箱に包帯とハサミを片付けていた手を、ふと止めた。

 気付いた康則が様子を覗うと、俯いた横顔に際立つ美しい唇が微かに震えている。

 やがて意を決して顔を上げた万由里が、か細い声で問いかけた。

「この度のお務めは……高槻家、頼子さまがお相手と伺いました」

 途端、大粒の涙が頬を流れ落ちた。

「誰からそれを?」

「……将隆さまが、教えてくださいました」

 他者への気遣いなど、将隆には無用だ。

 康則の手当を命じたのは心配してではなく、次の務めに支障がないか確かめるためだろう。

 しかし、高槻頼子の件を自ら万由里に伝えるとは、無神経にも程がある。

 鈴城の家系は代々、特殊な家柄である鬼龍家の執務を取り仕切ってきた。従って万由里は、かつて親交が深かった高槻家の頼子をよく知っている。

 高槻家、初夏の園遊会。真紅のツツジが咲き誇る池の畔で、姉妹のように寄り添い談笑する二人を羨ましく思った。

 気高く美しい姉姫と純真で可憐な妹姫の姿に、誰もが口元をほころばせた。

 だが今夜、その池は頼子の血で彩られる事になったのだ……。

 戦国の時代より鬼龍家は、政財界名家からの依頼を受けて「渡辺綱」が「酒呑童子」を斬ったと謂われがある〈鬼斬り〉を操り、〈業苦の鬼〉を斬ってきた。

 遠慮はいらない、情けを掛けるなと将隆は言う。

 一族の〈業苦〉を背負い鬼と化した者は、仲閒を増やし人間の生き肝を喰らう化け物でしかないからだ。

〈業苦〉の証である角が現れても、完全な鬼となる前に〈絶戒〉で角を断てば死に至らす事無く人に戻れるが、ただ生きているだけの廃人となる。

 そのため、鬼の出現を忌み嫌い、廃人を抱える事を望まない一族からは死を望まれるのだった。

 実の娘の始末を頼み、頼子の弟である十二歳の長男だけを逃して妻と共に死を選んだ高槻家当主は、何を守り何を得たのだろう。

 考えてみても仕方ないが、目の前で一人の少女が悲しんでいる事は確かだった。

「えっと……将隆さまは頼子様さまの件で辛い思いをされたから、ご機嫌が悪かったんですよ。だから万由里さんと頼子さまが親しかったことも忘れてつい、いつも通りの報告を……」

 万由里の涙に戸惑い、慰めにもならない嘘が口を突いた。

「康則さまは、お優しいのですね……。わかっています、将隆さまの御務めのことは。でも時々、恐ろしくなるんです。いつか将隆さまが、将隆さまではなくなってしまう……そんな気がするんです」

「心配いりませんよ、将隆さまは変わりません」

 康則は、万由里よりも自分の為に、強い口調で言い切った。応じた万由里の、無理に作った笑顔が痛い。

「明日の朝、新しい制服を持ってまいります」

 破れた制服と救急箱を抱え、万由里は一礼してから部屋を出て行った。

 その小さな背中が消えた途端、康則は戦いよりも緊張する時間から解放されたのだった。

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