迷信と科学の法則

 人間は法則を好む。

 何故なら、法則は生き抜く手段だからだ。

 人類が知性を発達させたのは道具のおかげだけではない。鏃や銛だけでは狩りはできない。獣道の存在や新しい分の見分け方、海鳥の動きの意味等を理解しなければ、獲物は取れない。

 ここは獣がよく通る道だからここで根気よく待っていれば獲物は自分からやってくる、という法則を知らなければ、獲物は取れない。

 以来、人間は、万物には法則があり、その法則を全て知り得ることが出来れば、あらゆることが出来ると信じている。その一つが科学だ。


 法則の発見には、ニュートンの万有引力の法則のように日常にある「当然」を見方を変えて考察することにより得られるものと、同じ行為を何度も繰り返して、その中から同一性を見出すものの二つがあり、そのどちらか、或いは両方によって発見される。

 この時点でその「法則」はまだ科学ではない。科学というのはそれを検証されて、多くの人間に納得されて初めて「科学」といえるようになる。

 検証されなければ、それは思い込みや偶然の一致と変わらない。

 マーフィーの法則が科学でないのはそれが検証できないからだ。

 

 また、同一性や共通性から法則を見出す場合、実験の回数を増やし、「確率の正確性」を上げなければならない。確率が高いだけでは駄目なのです。

 例えば、初めて宝くじを買った人が一等を当選したとすると、その人の当選確率は100%になる。しかし、その後何回買っても一等ならその確率の正確性や信用性は高まるが、そうでなければ当選確率は100%でもその確実性は0に近い。

 だが、当たった本人は自分の当選確率を信用したくなってしまう。分かっていてもまた宝くじを買えば当選するような気になってしまう。それを否定して諦めさせてくれる言葉に「ビギナーズ・ラック」と云う言葉がある。

「初めて買ったから当たったんだよ。そういうことはよくあることだよ」とビギナーズ・ラックの法則を教えてあげれば、当人も納得して諦められるのである。


 なんと人間は法則が好きなものか。

 しかし、法則は知性あるものだけが、獲得したがるものでもない。マウスやラットは餌を得るために迷路という法則を見出すし、野良猫たちは「猫おばさん」がくる時間や日にちを法則として見出す。

 法則というのはあらゆる生命体が、生き抜くために求める本能に他ならない。


 だが、人間は「法則」を積極的に求める。病的なまでと言っていいほど執拗に法則を求めてやまない。


 何百回という実験や観測で統計をとったり、数式にして証明したり、「科学的」な法則は元より、迷信や験担げんかつぎと言われる非科学的なものまであらゆる法則を欲しがる。


 通勤や通学時にちょっと遠回りだけど、ここを通るといいことがあるような気がするとか、ある車メーカーの特定の色の車種を見かけるといいことがあるような気がするとか、馬鹿なことだと分かっていながら考えたり行動してしまうことはないだろうか?


 それは新しい法則を発見することが、本能から欲求に変化しているからではないだろうか。

 人間の三大欲求の「食欲」、「性欲」、「睡眠欲」を満足させると、快感を得られる。

 権力欲のある人間は偉くなると快感を感じる。金銭欲の強い人間は大金を目の前にするだけで快感を感じる。探究心がそれらと少し違うのは、完全に満たされることがないということだ。

 一つの法則を得られたら、もう一つの法則を見つけたくなる。永遠に終わることはない。

 現在の人間の科学力や知識など、百年後の人間から見れば、愚かで幼稚だと思われることなど誰でも承知だ。


 そう考えると、科学的探究心も験を担ぐのもあまり変わりのないことのように思える。どちらも生き残るために芽生えた本能からやっていることで、正しかったり間違えたりを振り子のように揺れ動きながら未来へ歩いて行くのは、とても人間的な事のように思える。


 少なくとも、間違えたり迷ったりすることは、消去法で一歩前に進んだということになるのだから

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