傲慢なる私的小説論
このサイトに寄稿した「夏休み」にしろ、「水龍川軽便鉄道」にしろ、私は小説、特にSF小説を書く際には「和」に拘って書いています。「押し出して」と言ってもいいくらいです。
主要な登場人物は日本人だし、情景を描くにも日本、或いは日本的な情景を描く事に重きをおいています。未発表の超未来のSF小説でも主人公は日系人という設定です。未来世界の、地球から遠く離れた惑星やコロニーで人々が生活する世界ではそんなこだわりは必要ないかもしれません。それでも「和」に拘らずに入られません。
それは勿論、日本人であることの優越を主張する民族主義的なものでもありませんし、流行に流されたり、伝統にこだわるというわけではありません。
文章は、それを書いた人間が育った環境が大きく関係していると考えているからです。作者が育った国、地域、ゲマインシャフトによって文章は変わり、そして、それらからどういう待遇を受けたかによって書く文章は変わってくると思いますし、書く意味も変わってくると思います。
外国人が、日本人、或いは日本を描いている文章を読んだ時、「コレ、ちょっと違うんじゃない?」と思うような文章を読んだことはないでしょうか?
最近はネットで色々調べられるし、有名な作家は日本やその他、異文化国を描写する場合、所謂、取材旅行などをしていますが、それでも「コレって変だよ」って日本描写は絶えません。
それは文化の違いを実感できていないから起きることだと思います。自分の常識は世界の常識だと思い上がっているのです。
ある著名な作家が、敬虔なイスラム部族の女性が顔にベールを下ろし、手や足を露出しない服装をしているのを、「強制されてしている」と書いていました。しかし、彼女らにとっては手足を露出して外出するのは、我々でで言えば、素っ裸で公共の
日本人として生まれた私は、日本人が見た光景、感情、善悪しか描けません。だから、無理をして日本人以外の考えや受け止め方は表現できないと思っています。
また、外国人が「日本人が書いた小説」を読もうと思った時、アメリカナイズされた日本の小説に魅力を感じるでしょうか?
私はドイツ人が書いた小説はドイツっぽく、フランス人が書いた小説はフランスっぽくあって欲しいと思います。
外国語を勉強する時、その国の言語で書かれたネイティブな小説をテキストにしたいと思いますが、その国らしさが出ていないとガッカリしてしまいます。外国語を学ぶということは、その国の文化を学ぶという事と同義だからです。
私の小説は稚拙では有りますが、その辺の事を熟慮して、誰か一人でも役に立って頂きたいと思い、自分ができる精一杯の日本と日本文化を表現したいがために「和」に拘っているのです
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