ミントビアを飲んで下さい

 気がつくと俺の横には女がいた。

 小さな寝息を立て、俺に凭れるように眠っている。呼吸と共に豊かに隆起した身体が薄いシーツを上げたり下げたりしている。俺は女に背を向けた。

 夢、に、違い、ない。そう、だ、これ、は、夢、だ。リアルな、夢、だ。

 俺はゆっくりと女のほうへ手を伸ばした。

 柔らかい感触。

 サーッと血が引いていくのが判る。

 誰だ?これは 何だ?コレは

 恐る恐る俺は自分の手のほうを見た。俺の左手の下に女の唇があった。女の寝息が手の平を柔らかくくすぐっている。

 どーしたんだ一体。何だってこんな事に…だいいち昨日は…

 そう……昨日は……会社へ行って―――課長が、…ああ、そうそう二週間前のことで課長に呼び出しくらって、あのクソオヤジ小さなことをネチネチネチネチ…あのシツコサにはほんと感心するよ。と、問題はこんなことじゃなかった。そんでそれから、えーっと、昼飯はいつのも定食屋“松前”で食ったんだっけ。そうそうホッケの開きが大きいの小さいのって前島たちどうりょうが騒いでて…うんそうだ思い出してきたぞ。それから、銀行へ行ったらシステム課の美人秘書にあったんだ。それでーえーえーえーっ……でも、コレは彼女じゃないし―――……。

 俺は再び女のほうを見て顔を確認した。

 うん。彼女じゃない。彼女はもっと華やかでバラが咲いてるよーな…あれ?どんな顔だっけ……?ま、いっか。ところでこいつ目え覚まさねーなー。

 俺は左手で鼻をつまんでみた。女は『うん』とうなって俺に背を向けるとまた寝息を立て始めた。俺は再び“昨日”を思い出す努力を始める。

 昨日会社を出たのが、確か7時すぎ、ま、早いほうだな。それから玄関で誰かに会って……?誰だっけ?思い出せないぞ。とにかく二人で新宿へ出て『ライン……なんとか』って店に連れてかれて……そう、俺が飲んだのがなんだか変な色のビールだったような……緑色だったかな?それから……あれ?それで――――――――――???


「はい、よろしいです」

 ドクター・エガワの声で我に返ったナツキ′は呆けたような眼でエガワの顔を見つめた。まだ夢から覚めきらない、鈍痛にも似た感覚の欠落に少し当惑していた。

「大変順調ですよ。あなたの脳細胞は少しずつ活性化しています。“ダッシュ”のとれる日もそう遠くはないでしょう。気分はどうです?」

 平衡感覚のない世界の向こう側でぐにゃぐにゃ身体を揺らしながら(揺れているのは俺の方か)ドクター・エガワは相手を警戒させないためだろう(しかしかえって相手を警戒させてしまうような)商業的な微笑みを満面にへばりつかせて言った。

「あんまり……なんだか靄がかかったように頭がぼんやりしていて……」

 ナツキ′は頭を振りながら答えた。

「眠りが足りないのでしょう。これを飲んでもう一度お休みなさい。目覚めたときにはすっきりしているはずですよ」

 ドクター・エガワは黄緑色の発泡性飲料のような物を差し出した。ナツキ′は、グラスに入ったそれを受け取り一気に飲み干した。酷く苦いビールの味がした。

「部屋の場所は忘れていませんね」

 席を立ったナツキ′にドクター・エガワが問い掛ける。ナツキ′はコクリと頷くと、ゆっくりと吐き出すように言った。

「思い出しましたよ。昨日行った店で、それと同じものを飲みました。確か『ミントビア』という名前でしたけどね。確かにそれですよ」


「感づいているようですわね。ナツキ′クローンは」

 ナツキ′が去った後、隣室から出てきた女が言った。

「もうじき“′”も取れる。まあ、ナツキという名前も一緒にだが……。彼が『ラインゴールド』で出会うはずだった奥さんの代わりに貴女に会ったというプログラムに変更してありますから、問題はないでしょう。大体非合法なんですよこんなことは。ナツキ本人オリジナルに出会ってしまったら大変なことになるんですから」

「ご心配には及びませんわ。だってナツキ本人オリジナルはもう…」

 “ナツキ′の横で眠っていた女”が赤い唇をゆっくり弓ならせた


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