黒い小箱
ベンチに腰かけて空の向こうを見ると灰色の雲がうねりながら近づいてくるのが見えた。工場の向こうから黒い斜をひきずって灰色の雲がやってくる。
「ひと雨来るな」
傘はないが避難しようとは思わない。たまには打たれるのもいいさ。
音をたてつつ近づいてくる雨はオレにもその冷たいしずくを落としてくれる。優しい雨。おまえだけがオレを抱いてくれる。
通りすがりの雨は行き、オレの座っているベンチには黒い小箱が残されていた。何気なくそれを手にとってみる。
継目のない黒光りする小箱。いったい何なのか見当もつかない。と、底をささえていた小指がざらざらする何かに触れた。
箱をひっくり返してみる。
文字が彫ってある。
“Don´t touch Me.”
―――えっ、そんなこと言われたっても困る。もう触っちまってるし、それどころかひっくり返しちまってる。
“Don´t Tolk to Me abut It”
―――何について言うなってんだ。それがわからんきゃ言わないこともできないじゃないか。
「変なブラック・ボックスだな。」
言葉を口にした瞬間、オレは箱に吸い込まれた。すすけた黒のマジックミラーの外に、箱を持ったオレがいる。虚ろな目をして……
「やあ、あんたもか。」
背後から声がした。振り返って見ると、若い男が立っていた。
「俺もこれにひっかかっちまったんだ。もう何年も前にな。」
オレはなんとかここを出ようと箱の壁面を力まかせに叩いた。が、壁はくずれもしなければ、ひとすじのヒビさえはいらなかった。
「やめな。ムダだよ。出られねぇんだ、ここからは。俺もやってみたんだよ。ありとあらゆることをな。けど、ムダだったよ。ここで、こうして肉体が朽ち果てていくのを見てるしかないんだ。」
虚ろなオレの目に映った工場の煙は何も語らない。しこたま後悔をかかえてオレはオレの体が朽ちていくのを見ているしかなかった。
朽ちたオレの手から落ちた箱はベンチの下で時を待ち続ける。いつかまた誰かがそれを手にし、それを口に出すまで。あるいは、オレたちが解き放たれるその日まで。
どれくらい時がたったのかはわからない。再び誰かがベンチに座り、黒い斜をひきずった灰色の雲を知ってか知らずか、動こうともせずそこにいる。
そして、通り雨。
彼はそれを手にとり、文字を読む。
また新たなる犠牲者が生れるのか……
喉の奥からこみあげてくる言葉を、思いを、吐き出す肉体のない自分が悔しくてならない。押さえつける理性を押退け、オレは叫んだ。
「助けてくれ! 出してくれぇ!」
声は箱の中で反響し、全体を揺がした。
「うわわっ。」
彼は驚いて箱をとりおとし、そのまま行ってしまった。
そして間もなく、老人が小箱を拾い上げる。しげしげとながめ、何も言わず大切そうにふところにしまうと、どこかへもっていく。
ガクンという振動と共に、箱が何かに組み込まれる。と、とたんに周りの黒い壁がなくなるのを感じた。いや、実際にオレたちは解放されたのだ。
しかし、肉体を失ったオレは途方に暮れ、再び、ベンチに戻った。
そしてベンチに腰かけ、工場の向うから黒い斜をひきずって灰色の雲がやってくるのを見つづけていた。
もう、犠牲者は出ないのだ。
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