第6話 一件の兄弟殺人 Ein Brudermord

 その殺人は以下のように起きたのだと、そう明らかになった。

 殺人犯シュマールは明澄な月夜のもと向こうの街角に立っていた。被害者のヴェーゼはその曲がり角を通らなければ事務所からは帰れなかった。

 つめたくてなにもかもが見通せる夜の空気。けれどもシュマールは一枚の青色の薄い服だけしか着ていなかった。そのうえ上着のボタンは開いていた。彼は寒さを感じなかった。ずっと動いていたのだ。凶器は、銃剣ともキッチンナイフともいえるような代物で、ずっとそれを剥き身のまましっかりと握りしめていた。月光にナイフを照らすと、切っ先が煌いた。しかしシュマールは満足せず、それを舗道の煉瓦にむかって叩きつけた。火花がたった。おそらくそれを後悔したのだろうが、損傷を補填するために、ブーツの底をつかってバイオリンの絃みたいにナイフを撫でつけ、片足で立ったまま前かがみになり、ナイフがブーツに擦れる音を聞ききながら不幸な運命を担った片側の小路へ耳をそばだてた。

 どうして退職者パラスがその一部始終を見ていないことがあるだろうか。その現場付近にある自宅の三階の窓から観察していないことが。人間の本性を究明せよ! 襟を立てた寝巻に包んだ弛んだ身体にベルトを締めて、頭を振りながら見下ろしている。

 そして五軒向こうの、そのはす向かいに、ヴェーゼの妻が、夜着のうえから狐の毛皮を着て、自分の夫が今日はいつにもなく事務所から出るのを長く躊躇っている事に対して気を遣っていた。

 ついにヴェーゼの事務所の扉に備えつけられたベルが鳴り響き、一回にしてはあまりにも喧しく、音は街を貫き、天を上った。ヴェーゼは勤勉にも夜遅くまで働いていたが、向こうの小路へ踏み出した。こちらの小路には未だ見えない。ベルの合図だけが、彼が外に出たのだと通知するのみ。同時に舗道が彼の穏やかな足取りを数えた。

 パラスはさらに前かがみになって、なにも見逃すまいとした。ヴェーゼの妻はベルに安堵して、軋む音をたてながら窓を閉めた。しかしシュマールは跪いて、ほかに露出するところがなかったので、顔と両手だけを床石に着けた。あらゆるものが冷える床石に、シュマールは火照った。

 ちょうど二つの路をわける境界に、ヴェーゼは立ち止まって、杖だけで向こうの小路へ身を投げた。

 気紛れ。夜空の藍色と金色に惹かれたのだ。なにも知らず空をみつめ、何も知らずに帽子を少しもちあげて髪の毛を撫でつけた。そのうえに集まるなにものも蠢かなかった。それらはすぐ近くに迫った未来を彼に示していたのだ。全てのものが、無意味で、理解しがたい場所に立ち止まっていた。ヴェーゼがまた歩きだしたのはそれ自体は分別のついたことだったが、シュマールのナイフの方へ歩いていたのだった。

「ヴェーゼ!」シュマールは叫んだ。つま先立ちで、片腕を振り上げ、ナイフを鋭く沈み込ませた。「ヴェーゼ! ユーリアが待ってたのは無駄だな!」そして頸部の右へ、左へ、三度目は腹部に深く、シュマールは突き刺した。水鼠は、引き裂かれると、ヴェーゼに似た叫び声をあげる。

「やったんだ」シュマールは言った。ナイフを手近の玄関に投げ捨てた。それはもう血に塗れたお荷物だった。「殺人の幸福! 他人の血が流れると身体が軽くなって翼でも生えそうだ! ヴェーゼ、おれより年老いた夜の影よ、わが酒飲み仲間よ、お前は暗い路の底に干からびるんだ。どうしてお前は血で満たされた唯の一つのあぶくではないのだろうか。俺がすわったら、お前はぜんぶ消え失せてしまえばいいのに。万物が叶うわけではない、すべての花々の夢が成熟するわけではない。お前の残滓はここに在りて、もう一歩も近づけない。おまえの、その沈黙の質問をどうしろというのだ?」

 あらゆる悪意が入り乱れるのを身体のなかに押し込めたパラスは、二枚扉をぱっと開いて、そこに立っていた。「シュマール! シュマール! みんな見ていたぞ、なにも見逃してなどいない」パラスとシュマールは互いをじっと見つめていた。パラスは満足しきっていたが、シュマールのほうでは決着がついていなかった。

 ヴェーゼの妻は驚愕のあまりめっきりと老け込んだ顔のまま、両脇に群衆を引き連れて急ぎ駆けつけた。毛皮のまえは開かれ、ヴィーゼのうえに覆いかぶさった。その夜着を着た身体は彼のもの、まるで墓地の芝生のように夫婦のうえを覆った閉じられた毛皮は群衆のものだ。

 シュマールは、最後の吐き気を、歯を食いしばってこらえ、その口を保安警官の肩に押しつけた。その保安警官は足取り軽く、彼を連行していった。

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