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その一本東の通りは公共施設の密集地帯になっている。
市役所本庁舎はもちろん、中央省庁や県庁の出先庁舎、市立医療センター、警察署、税務署に地裁、市立文化ホールなんかもこの付近にある。
そして、風情ある煉瓦造りの澤ノ井区総合庁舎と並んで建つのが鴉原市立中央図書館。
俺の職場であるここは全国でもトップクラスの蔵書数で、一般蔵書約二百四十万冊、別途、稀少文献および貴重史料類計五百点以上を所蔵し、市内七区の各区民図書館の蔵書も合わせれば三百五十万冊を優に超えてくる。
司書と言えば不遇な職業にランクインしがちな薄給で有名だが、今の鴉原では全く違う。
『教養文化都市』なるマニフェストを掲げて当選した市長の改革により、あらゆる教育系予算が倍額拡充されたから。素晴らしい。
設備費や備品費はさることながら、人件費の厚遇具合はすさまじかった。
その分批判もえらいことになっていたと聞くけども。
全市立学校の教員三人に一人の割合で配置されたサポートの事務職員のおかげで、あらゆるトラブルは効率的に解消され、学力は劇的に向上しつつある。
そして図書館は指定管理制度を廃して直営に戻り、司書採用枠は十倍になった。
現市長の当選翌年、俺はこの採用枠で鴉原市の正規司書として入庁したのだった。
それから二年半。三年目の秋ともなれば、仕事はほとんど覚えてしまった。
そもそも異動の少ない司書職では、最初の数年で職員個人の担当業務がある程度固まってしまう。
こいつにこれをやらせれば上手い、というのが分かりやすいからだ。
そんな環境で俺、
これは司書ならではの仕事だからまだいい。むしろ能力を認められたのはありがたい。
ただしいくら司書でも所詮は地方公務員。雑件仕事も山とあって、その中で俺は広聴業務――特に対クレーマー対応を命じられた。
精神的に強く、臨機応変な対応力と行動力がある、からだそうだ。
端的に言ってクソである。
クレーマーの相手なんてのは本来管理職がするべきものだ。なんで俺がわざわざやらなきゃならんのだ。
とはいえ、所詮は地方公務員。上に命じられればせざるをえない。
面倒事が起きればすぐに引っ張り出される立場になって、本当に色んな人間を見てきた。
蔵書を破いてしまったが、破れるようなものを貸すのがおかしい。
本をコピーするのにいちいち申請しないといけないなんておかしい。
その他もろもろのクレームに、おかしいのはてめえだよと言いたいのをオブラートで包装してにっこり返す、それが仕事。クソだ。
鴉原は、決して治安のいいところではない。ごく稀にとはいえ刃物も見る。浅く切られたこともある。
だからこそ俺みたいなタイプは残念ながら燃えるわけだが。
別の意味で怖い客だっている。
「斎城飛鳥って人、知ってるよね?」
俺の顔と首から下げた名札を見るなり、ずけずけとそんなことを聞いてくる男がいた。
場所は中央図書館7階専門レファレンスカウンター。
秋から冬にかけてはこういう事案はオフシーズンだ。特に十二月なんて件数の一番少ない月だと思うのだが、それでも別にゼロではない。
およそ弁えた質問とは思えない。いきなり本題に入るやつはおおむねクソだという独自理論もある。
だからわざと頑なな返答をした。よく言えば公務員的な回答である。
「図書館利用者に関するご質問でしたら、お答えすることはできません」
「いやいや、君のプライベートなことだよ、簾くん?」
馴れ馴れしくも名を呼んで、空気に似つかわしくない大声で煽ってきた。
乗るな、堪えろ。
言い聞かせて、ぐっと抑えた声を絞り出す。
「今は開館時間中ですので、そういったご質問にはお答えいたしかねます」
そう、司書は暇ではないのだ。
仕事はいくらでもある。貸出返却の業務以外は目立たないからイメージがわかないかもしれないが、むしろあれ以外の方が時間と手を取られるし重要だ。
どこの誰とも知れぬ男の、くだらない質問に付き合っている暇などこれっぽちもない。
司書の仕事は、世に散らばる数多の書籍とそれを求める利用者と繋ぐこと。その流れに沿わない質問であれば、こちらに答える義務はない。
俺はそういう仕事のために司書になったんだ。クソ野郎の話し相手をするためでは断じてない。
そういう主旨のことを――もちろん後半は伏せて――小声ながらシンプルに伝えてやれば、男は案外にすんなりと引いた。
ただし、俺のエプロンのポケットに名刺のようなものを捻じ込んでから。
いなくなった後で係長が寄ってきて事情を聞いてきたが、人違いでもしているんでしょうとはぐらかす。
あの男に言う気はもちろんないが、同じくらい係長にだって言う気はない。
カウンターで受け取ったままだった破損書籍を館内カートに乗せ、立ち止まらずに書庫へ向かう。名札に挟んだIDカードを翳して解錠。
クソだ、クソだと頭の中で繰り返す。
暗い中を、自動点灯のLEDが追い付かぬほど早足に進み、一番奥の、貸出しに耐えない古い近代文学の棚の隙間でへたりこんだ。
膝が笑う。
腰が抜けた。
横隔膜がひくつく。
カートが壁を打つ音と、俺の荒い息が響いた。
日々異常なまでのストレスに晒される公務員は、厚さに違いはあれどみんな仮面を被っている。
そうでなければ半日で心を切り裂かれてしまうから。
クソだと連呼するのも同じ理由だ。
自分は正常なのだ、相手がクソでおかしいのだと常に認識していなければ、すぐに飲まれる。
俺の仮面はとびきり厚い自信があった。どんな利用者も、いかなる不審者も、灯油を撒き散らしたクソ迷惑な奴にだって怯まなかった。
鴉原市立中央図書館の常勤司書として、いつでも毅然とした態度で、しかし優しく柔らかく、信頼に足る姿を保つことが俺のプライドを形成しているといっていい。
なのに、さっきのは駄目だった。利用者の目に触れるところではなんとか凌いだ。それだけでも褒められていいだろう。
「なんなんだ、あいつ……」
斎城飛鳥――サイジョー。
失った親友の名を不意に、それも見知らぬ男に言われて、動揺しないほうがおかしい。
そりゃあもちろん、二十一年近く生きた人間だ。名前を知っている者だっているだろう。
けれど、だからってなんで俺に会いにくる?
「……まさか、あいつが」
サイジョーは自殺だったとされているが、俺たちは未だにそれを信じていない。
誰かが殺したんじゃないかとずっと疑っている。
震える指で、ポケットに入れられた名刺を取り出した。
黒葉篤彦。フリーライター。
このクソ野郎の正体だけは、なんとしても暴かねばならないと思った。
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