大義


オレとティアとアランは、バタクが向かう先に何も言うずについて行った。

後ろには、アランを取り押さえた屈強な男たちがいる。

時折アランが振り返っては、苦虫を噛んだような顔をして前を向く。

あの一件以来、アランは彼らのことがどうも苦手らしい。


バタクが入って行ったのはスラムだった。

ゴミや糞尿が散乱している道で、平気な顔をして横になっている浮浪者が何人もいる。

すれ違う人々は当然のように上半身が裸で、やせこけた頬と肋骨が露わになった身体は、生活の厳しさを如実に表している。

オレのいた村でも、食糧難に陥った時はだいたい皆このような状態になっていた。


「ねぇ、シーダ。もうよそう? ここ、危ないよ」


相変わらず、ティアは及び腰だ。


「貴族のお嬢さんってのはビビリだねぇ」


アランの言葉に、ティアはむっとした。


「私はシーダの身を心配してるだけです。あなたは分かってないみたいですけど、彼は唯一魔王を倒せる人類の希望なんですよ」

「んなこと言ってたら魔物一匹倒せねえっての」

「避けられる危険は避けるべきだと言ってるんです!」


言い合いながらも、アランはスラムの人間とすれ違う度にティアを意識している。

どうやら、この男を仲間にしたのは正解だったらしい。


「ここだ」


そう言ってバタクが止まったのは、今にも倒壊しそうな木造の一軒家だった。


「シーダだったか? 入るのはお前さん一人だけにしてもらいたい」

「分かった。アラン、ティアを頼むぞ」

「ええ⁉ ちょっと、シーダ!」


ティアを無視して、オレは家の中に入った。

中には大きめのテーブルと丸椅子があるだけで、他に何もない。

その椅子に座っている黒人の男二人が、じろりとオレを睨んだ。


バタクがオレの知らない言葉で二人と話している。

何の話をしているのかは分からないが、三人とも落ち着いているし、特に変わった様子はない。


「シーダ。彼らはワシの仲間だ。でかい方が兄のウレイ。小さいのが弟のムルトだ」


二人は不愛想ながら手を差し出してきた。

オレも黙って握手する。


「この二人は何かあった時のための逃走経路を確保する役目でな。聞けば輸送屋を既に買収しているらしい。すぐにでも出発できる」

「待て。オレはお前の話を聞きに来ただけだ。今すぐここから出発するなんて一言も言っていない」


バタクは小さく息をついた。


「ワシは長年旅をしてきた。二十の頃からになるから、実に三十年か。その間、様々な苦難があった。野党に襲われたり、遭難したり。魔物に食い殺されそうになったこともしょっちゅうだ。そして分かった。……奴らには知性がある。それも人と同じくらいのな」


オレの知る魔物達の姿がフラッシュバックした。


「あのアリの大群がやられたことは、すぐに魔王の耳に入る。当然、お前さんのこともだ」

「話が見えない。当然オレもそれは考えていたが、だからこそ早く仲間を──」

「いや、すぐに出発しろ。でなければお前さんはともかく、この国は滅ぶぞ」


バタクは真剣な眼差しをオレに向けている。

どうやらバタクとオレの中で、危機感があまりにも違い過ぎているらしい。


「お前さんが打ちのめしたアリの大群。あれは一国を滅ぼせるほどの戦力。いわば一個の軍隊だ。それをお前さんは、たった一人で潰してしまった。そんな人間を、魔王は放っておかない。居場所の知れている今、早急に魔物達をこの国に集結させるはずだ。人間が考えも及ばないほどのスピードでな」

「……そんなに奴らは統率が取れているのか?」

「間違いない。魔物には人型、動物型、植物型とさまざまなタイプがおる。唯一人だけがワシらと同じように言葉を話すので、皆勘違いしている。魔物の知性にタイプの違いはほとんど関係ない」


オレは顎に手をやって考えた。


「あのアリ達は意図的にこの国を襲ったのか?」

「お前さんを狙ったということか? いや、それはないだろう。ああいう動きをする魔物を何匹も見かけたことがある。この国を根絶やしにして、自分たちの巣にしようとしていたんだろう。指示を受けた侵攻と本能に基づいた行動には明確な違いがある。勇者を狙ったのなら、三毒の誰かが来ているはずだろうしな」


ぞわりと、身の毛が奮い立った。

スネイクの笑い声が蘇り、ケイトの怒りに震える顔を思い出した。

一瞬だけ怒りに囚われそうになるも、オレは深呼吸して自分を落ち着かせた。


大丈夫だ。自分を見失うな。

今のオレは勇者だ。そのことを思い出せ。


「……どうかしたか?」

「いや。……すぐにと言われても、旅の準備は必要だ。オレはこの国から出たことがない。魔物が跋扈する道中をどうやって歩くのか、基本的なことから何も知らないんだ」

「そうだと思ったからワシが手を挙げた。ワシらなら、お前さんらの経験不足を補える」


願ってもない話だ。

それだけ聞けば、こちらがバタクの提案を拒否する理由はない。

しかし、だからこそ不審でもある。


「何故そこまでする? お前の言うことを信じれば、魔物達は確実にオレを殺しにやって来る。そんなオレと行動を共にするより、世界中を渡り歩いてイモを売っている方が危険も少ないし、富も得られる」


バタクはそれを聞き、自嘲するように小さく笑った。


「何故ワシが三十年にも渡って旅をしてると思う? 魔物に殺されるリスクを払い、詐欺師呼ばわりされているにもかかわらずだ。商人は目先の金のことばかり考えているわけじゃない。そんなことしか考えてなければ、こんな根っこを売るために故郷を捨て、この身を危険に晒しはせん」


遠い昔を思い出すように、バタクは目を細めた。


「若い頃。がむしゃらに働いて金を貯めた。貧民街からも抜け出して店を持って成功して、そんなある日、ふと何かの声が聞こえたんだ。卑しいと蔑まれる商人が、商人としてやるべきことがあるんじゃないかと。商人にしかできない、多くの貧民を救う術があるんじゃないかと。救えるはずだという想いが救わなければならないという想いに変わった時、ワシは旅に出た。合理的な理由など存在しない。しないが……おそらくそれが、大義というものだ」


その気持ちは、オレにはよく分かった。

きっとバタクは、オレと同じものを見たんだろう。

オレがあの地獄で見た何かを。

決して諦めてはいけないものを。


「分かった。バタク。お前を信じよう」


オレは手を差し出した。

バタクは笑みを浮かべ、その手を握った。

細くて皺のある老人の手だ。

なのにこれほど力強いのは、彼の魂が老いていない証拠だった。


「よし。じゃあ早速──」


カンカン! カンカン! カンカン!


突然、鐘の音が遠くから聞こえてきた。

オレはバタクと顔を見合わせ、慌てて家から飛び出た。


「ティア‼」


彼女は青ざめた顔でオレを見た。


「魔物か⁉」

「ううん。この鐘の鳴らし方は違う。これは……これは、魔物が潜伏していたことを知らせる鐘」

「……潜伏?」


どういうことか問い詰めようとして、ハッとした。

ここに来る途中に出会った女の子のことを思い出したのだ。

そうだ。あの子は確か、今日……


ふいに、誰かが走ってくる音が聞こえた。

それは女の子だった。

フードを目深に被り、必死に走っている。

だが、オレ達を見つけた途端、彼女は止まった。

明らかにこちらを認識し、その子供は踵を返した。


「待てっ!」


オレは思わずその子の腕を取った。

彼女は何も言わない。


「……こっちを向いてくれないか」


彼女は動こうとしなかった。しかし、振りほどこうともしなかった。

オレは心臓の高鳴りを押さえ、ゆっくりと彼女をこちらに振り向かせる。


オレは目を見開いた。


女の子、ニナの額には、ゴマの儀式で描かれる魔物の紋章が、くっきりと焼きついていた。


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