修羅編
諦めるという希望
オレが目を覚ました時、最初に覚えた違和感は、決して不快なものではなかった。
むしろ逆だ。
沈み込むようなマットレスに、全身を温めてくれる布団。
既に眠気はないはずなのに、少し目を瞑れば溶けるように眠ってしまうと確信できる。
上半身を起こすと、五人くらいは平気で眠れそうなベッドの上にいることが分かった。
ベッドのすぐ近くにあるナイトテーブルの上に、丸いガラスが二つはめ込まれた奇妙な針金がある。
それを手にし、ガラス部分を覗こうとすると、その針金がちょうど耳の上に掛かった。
そのフィット感からして、用途はこれで間違いないのだろう。
しかしガラス越しに見る風景は全てがぼやけていて、思わずそれを放り投げてしまった。
隣にあった手鏡で、自分の顔を覗く。
痩せ過ぎているわけでもなく、太り過ぎているわけでもない。
中肉中背の健康的な身体がそこにはあった。
物腰が柔らかそうで、理知的な顔だ。
たぶん、大勢の人間と一緒にいるのは苦手で、話の中心にいるというよりは、少し端の方でいつも静かに笑っているような。
そんな、大人しい人間を想像した。
素足でも冷たさを感じないカーペットの柔らかい感触を噛みしめ、バルコニーのある窓を見やる。
オレはそこで、ここが金持ちの家だということを実感した。
修羅編
「お坊ちゃま。お医者様がいらしております」
執事という身の回りの世話を仕事にしている老爺が、穏やかな口調でそう言った。
オレはベッドに横たわり、返事もしない。
この執事が言うには、オレは昨晩、ここゴーダ王国で厳重に管理されている女神の石板の前で倒れていたらしい。
最初にそれを聞かされた時は、何らかの処罰が下されるかと身構えたが、すぐにそんなことが起こり得ないと分かった。
「国事を執り行った後、陛下もすぐお伺いになります。お父上にこれ以上心配をおかけしてはいけません」
そういうことだ。
不幸なことに、今回の呪いの犠牲となったのは、一国の王子様だ。
だからといって、それについてどうこう言うつもりも、あれこれ考えるつもりもない。
もう疲れた。
二度の転生を経験し、自分なりに魔物と戦い、勇者の使命とやらで殺される毎日に疲れてしまった。
今はただ、ずっと眠っていたかった。
オレは執事に一言も口を利かず、そのまま目を瞑り、眠りに落ちた。
「シーダ‼」
そんな叫び声が突然聞こえて、オレはハッと目を覚ました。
「いつまで眠っているつもりだ! 医者からは命に別状はないと聞いているぞ!」
オレは布団にくるまりながら、目がチカチカするようなカラフルで大仰な服を着る、無精ひげの男を睨みつけた。
「父親に向かって、なんだその顔は‼」
今にも殴りかかろうとするその男を、近くにいたオレと同い年くらいの女子が慌てて止めた。
「待ってください、おじさま! シーダはきっと疲れているんです。お医者様も、精神的疲労があるとお話してくださったじゃありませんか」
茶色に染まる長い髪。
見たこともないドレス。
気品溢れる所作と言葉遣い。
まるでおとぎ話の中から現れたような子だった。
彼女はくるりとオレに振り向き、にこりと穏やかに笑った。
「シーダ。身体はもう大丈夫? 倒れたと聞いた時は、本当に心配したんだから」
「……名前は?」
「え?」
しばらくの間、彼女は硬直していた。
執事や国王が、驚いた様子で互いの顔を見合っている。
「あ……ティ、ティアよ。どうしたの、シーダ。もしかして……私の顔、忘れちゃったの?」
ごまかすこともできたが、そのことについて考えるのも面倒だった。
オレは放っておいて欲しいと言わんばかりに、ぶっきらぼうにうなずいた。
「……そう、なの」
この世の終わりだとでも言わんばかりの表情だった。
笑顔を取り繕っているが、今にもその仮面が剥がれて泣き出しそうだ。
二人についてまったく知らないオレでも、二人が親密な関係だったことが、その反応から理解できた。
彼女と本物のシーダは、どういう間柄だったんだろうか。
親友? 親戚? それとも……。
そんな素朴な疑問を掘り下げようとして、しかし条件反射でそれを止めた。
これ以上探ると、そのシャベルで自分の心に深い傷をつけてしまう。
ティアは気丈な様子で、ひと際明るい笑顔をオレに見せた。
「私はシーダのいとこのティアよ。たぶん、シーダは記憶喪失になってるんだと思う。あ、でも安心して。私もここにいる皆様も、シーダの味方よ」
国王が耳打ちし、執事は慌てて部屋から飛び出る。
おそらく医者を呼びに行ったのだろう。
「……放っておいてくれ」
「え?」
「聞こえただろ。放っておいてくれ。何もかも、もううんざりなんだ」
オレは布団を被り直し、ティアから背を向けた。
彼女を傷つけるかどうかなんて、オレにはどうでもよかった。
ただ、そっとしておいてほしい。
もう何も考えたくない。ただそれだけだった。
「シーダ! ティアにここまで言わせて、なんだその態度は‼」
国王に思い切り腕を引っ張られた。
オレがそれを振りほどこうとした時、自分の腕に小さな感触を覚えた。
アリだ。
アリが、オレの腕に乗っている。
一瞬で、以前の記憶が蘇った。
無数のアリに食われる感触。痛み。絶望。
「うわあああああ‼」
アリを振り落とし、オレは自分の腕を何度も何度も掻いた。
血が出るまでかきむしり、ようやくアリがいないと確信できると、逃げるように布団を被った。
身体が震える。
どうしようもない恐怖で身が縮む。
こんな薄い布を被ったところで意味はない。それでも、少しでも外界を隔てる何かが欲しかった。
怖い。怖い。怖い。
そんなことを延々と心の中で呟いていると、やがて疲れて眠ってしまっていた。
オレの行動があまりにも異常だったのか、誰も話しかけては来なかった。
◇◇◇
「お坊ちゃま。夕食の時間でございます。もう二日も食べておりません。そろそろ何か召し上がりませんと……」
オレがいつものように無視していると、執事はすごすごと引き下がった。
「……この程度で下がるなら、最初から話しかけるな」
暗闇の中、ぼそりと言った言葉は、誰にも届かなかった。
窓から差し込む月の光は、オレの心を照らすにはあまりにもか細い。
オレの何が悪かったんだ?
月の光を見つめながら、オレは自然とそんなことを考えていた。
どうすればよかったんだ?
他の奴が勇者なら、今頃魔王を討伐して、安寧の時を迎えていたのか?
そうだ。
きっとそうだ。
オレはなんて自信過剰だったんだろう。
普通の人間なら、きっともっとうまくやっていたに違いない。
多くの人間を死に追いやって。
こんな人間が。魔王を討伐するなんてできるわけがない。
ふと、バルコニーの手すりが目に映る。
あそこから飛び降りれば、楽になれるのか?
せめぎ合うように脳を侵食する負の感情から逃げられるのか?
そんなことありえないと理屈では分かっていながら、オレは希望を捨てきれなかった。
そんなわけがない。でも、もしかしたら……。
オレはゆっくりとベッドから降りた。
悩むことを止めるために命を捨てるなんて馬鹿げている。そんな当たり前のことすら考えられないくらい、オレは疲れていた。
そう。オレは疲れたんだ。
眠っても眠っても、この疲れは取れない。
生きている限りは、永遠に。
オレは窓を開けた。
急に夜風が部屋に入って来て、思わずよろける。
何も食べていなかったからだろうか。
足がもつれて、慌てて近くにあったキャビネットの取っ手を掴むも、引き出しと一緒に背中から倒れ込んでしまった。
身体を起こそうと床に手を置き、ちくりと痛む。
手をどけると、そこには木でできた指輪があった。
引き出しの中に入っていたものだろう。
おそらく子供が作ったものだ。
ちくはぐで不格好。でも懸命さは、不思議と伝わってくる。
それを見て、当たり前のことを思い出した。
オレが転生したことで死んだシーダにも、大切な人がいた。
彼を想う人がいた。
……捨てていいのか?
そんな人間を殺してまで奪ったこの身体を、こんなことで使ってしまっていいのか?
オレが指輪を見つめながら考え込んでいた時だ。
急に部屋のドアが開いた。
「なにしてるの⁉」
ティアだった。
非常に慌てていたらしい。
ずいぶんと髪が乱れている。
彼女は開いた窓と、床に散らばった小物を確認し、オレを見つめた。
驚きと怒りが内在した目だった。
「お前に関係ねえだろ」
「関係なくない‼」
悲鳴のような叫び声に、オレは思わず気押された。
お淑やかで、笑顔を絶やさず、感情的になることなんてないような子だと思っていた。
ティアは下を向き、握りこぶしを作り、身体を震わせている。
「関係ないなんて言わないでよ。私のこと、忘れてもいいから。無下にしてくれてもいいから。だから……お願いだから、そんなこと言わないで」
彼女は泣いていた。
ガキの頃、喧嘩相手を泣かしていた時とは違う。
申し訳なくて。恥ずかしくて。どうしたらいいのか分からなくて。
ただオレは、その場で顔を俯かせることしかできなかった。
「……ごめんね。勝手に叫んで、勝手に泣いたりして。気味悪いよね」
「……いや」
口の中に籠っていたもののほんの一欠片が、なんとか口から這い出て来た。
「……おば様が亡くなった時も、そうやって一人で悲しんでいたよね」
オレは母さんのことを思い出した。
「本当はあの時も、私に相談して欲しかった。……甘えて欲しかった」
オレはそれを聞いて、衝動的に口を開けた。
しかし、ティアの後ろで女神がこちらに微笑んでいることに気付き、言葉は止まり、自然と口は閉じていった。
「あの時も、今みたいなことがあったよね。お薬を飲んでただけなのに、私ったら勝手に毒物かと勘違いして。泣きながらそれを放り投げてさ。でも皆があきれ果てている中で、シーダは一人、優しく微笑んでくれたよね。大丈夫だからって、私にそう言ってくれた。私が慰めてあげなきゃいけないのに、いつも私が慰められてた。……あのお薬ね。実はすごく高価なものだったみたいで、あとからお父様にこっぴどく叱られたの」
ティアは笑いながら、懐かしい出来事を語っている。
しかしオレはそのことを知らない。
シーダの母親の顔も、思い出も、何も知らない。
この世には、本当のオレを知る人間なんて、一人もいないんだ。
彼女の言葉を聞いていると、嫌でもそれを思い出した。
まざまざと、それを突きつけられる思いだった。
「すぐには無理かもしれないけど、私もあの時のシーダみたいに、あなたを慰めてあげたいの。だから──」
「何も知らないくせに、知った風なこと言うな!」
オレはとうとう激怒した。
それが理不尽な怒りだと分かっていながら、爆発させることしかできなかった。
オレは立ち上がり、ずかずかと彼女に近づいた。
怯える彼女の胸倉を掴み、ありったけの声で叫ぶ。
「誰もオレのことなんか知らない! 誰もオレの苦悩なんて分からない‼ ならもう放っておけよ‼ いちいち関わるな‼」
手を離すと、彼女はそのまま床にへたり込んだ。
目じりに涙を溜め、恐怖に震える彼女から目を逸らし、オレは再びベッドに横になった。
これでいい。
これで、ティアも懲りたはずだ。
自分の思い出の中にいた、優しいシーダはもういないのだと。
オレは何故か泣きそうになっていた。
これでいいと唱えながら、その気持ちを押さえつけていた。
これでいい。これでいい。これで──
心の中で唱えていた呪文が、思わず消えた。
オレの背中を、誰かがそっと、手で触れていたのだ。
「大丈夫。私はシーダの味方だから。ずっとずっと、味方だから」
……なんなんだ、こいつは。
あれだけ脅して、あれだけ怖い思いをしたのに。
なんで、こんなことが言えるんだ?
なんで、オレを見捨てようとしないんだ?
……馬鹿げてる。
今は心が荒んでいるだけで、いずれは元の優しいシーダに戻るとでも思っているのだろう。
おめでたい奴だ。
お前が好きだったシーダは、もういないのに。
この女がオレのことを理解していないことに変わりはない。
心を許す気もさらさらない。
でもオレは、もう彼女を追い出そうとは思わなかった。
続く
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