魔物の大移動<2>


オレは元来た道を全力で走りながら、湧き上がる後悔を抑えられなかった。


フィリスはオレの腕を取り、一緒にいたいと言った。

何故、オレはそれを拒否したんだ。

こんなことなら、一緒についていてやればよかった。

一緒に──


『後悔しているのですか?』


突然、女神が話しかけて来た。

オレが必死に走っているというのに、女神はただ突っ立っているだけで、オレと並行している。


『最初から彼女の要望に応えてあげていれば、今これほど焦ることもなかったでしょうに』


うるさい。

あの状況ではあれが正しかった。

下手にフィリスを危険に晒すより、オレが一人で行って魔物を片付けた方がよかった。


そうだ。

それがベストだったんだ。

この事態は仕方のない出来事だ。


オレが心の中で必死に自己弁護しているのを見抜いてか、女神は冷徹な目でオレを見下ろした。


『悟りなさい。人が更生できるのは、罪を悔い改めた時だけなのです』


まるでそれが合図だったかのようだった。

地面を震わせるほどの地鳴りが前から聞こえ始め、オレは思わず足を止めた。


「どうしたんだ勇者! 何かいるのか⁉」


ズン、ズンと、規則正しく広がるそれは、近づくほどに大きくなっていく。

足から伝わる微細な振動が波のように広がり、身体全体を震わせる。


オレは先ほど、コウモリの大群を撃退した。

魔物なんて楽勝だと、鼻で笑った。


だが、本当にそうか?

本当にあれは、魔物の姿だったのか?



道から突き出た目の前の建物を抜けると、そこにオレの家がある。

地鳴りはもはや、足の裏に痛みを感じるほどに強く鳴り響いていた。

何か金属のようなものがカチャカチャと音をたて、時折獣のような吐息が漏れ聞こえる。


この奥にいる。

オレはごくりと息を飲んだ。

建物の角から、ゆっくりと前へ歩いた。


そこにいたのは、アリだった。

隊列を組んだ姿かたちの違うアリが、通りを歩いているのだ。

だいたい二メートルくらいの大きさだろうか。どのアリも四本の足で歩き、前体を持ち上げ人間のように歩いている。

その中でとりわけ目立つのは、大きさの違う三匹。

左右を守る、腕がカマキリのような刃になった三メートルほどのアリ二匹と、一番奥にいる、五メートルはあろうかという巨体を六本足で揺らすアリだ。


オレの家が倒壊していないことに安堵する余裕もない。

早まる心臓の音を押さえるのに、オレは必死だった。



前列を守る、平(たいら)な頭をしたアリが、歩く事に地面を叩く。

それに呼応するように、ひと際図体の大きなアリが、石畳を穿つような力で地面を叩く。

大の大人が怖気づくような威力のそれを、奴らは鼻歌を歌うような気軽さでやってのけていた。


GIAAAAA‼


突然、左右のアリが吠えた。

この世のものとは思えない奇声で、唾液を迸りながら体を身もだえさせているその様子は、以前猟師によって捕らえられたイノシシを見た時と、同じ印象を持った。

目を血走らせ、泡を吹くほどの異常な興奮で暴れまわるその姿に、死を間近にした生物の狂気を見た。

その狂気を、奴らは持っている。

敵もなく、何の命の危機も感じていない状態でありながら。


オレが思わず竦んでいると、遠く後ろの方から叫び声が聞こえた。


「勇者! 今こそお前の出番だ‼ 奴らを八つ裂きにしろ! 今まで縮こまって生きてきた人間達による、反逆の鐘を鳴らすのだ‼」


反逆……。

そうだ、反逆だ。

オレの人生を滅茶苦茶にした魔物を、一匹残らず殺し尽くしてやるのだ。


「うおおおおお!」


オレが胸に手を翳すと、光と共に剣が現れた。

炎のように輪郭が揺れる、実体が朧げな剣だ。


「さあ来い‼」


アリ達はようやくオレに気付いた。

小首をかしげるような動作を繰り返し、その場にとどまっている。

しかしずいぶんと落ち着きがない。

前に進んだと思えば後ろに進み、隊列が乱れない範囲で、身体を揺すりながらうろうろしている。


「ハハッ! 勇者がいると分かって、奴らも慌てふためいているようだな!」


オレも思わず頬を緩ませる。

戦う前から気負されている奴らなど、恐るるに足らない。


そろそろ突っ込んで行ってやろうかと思った時、一匹のアリが、上下に身体を揺らし始めた。

オレは眉をひそめた。

まるで、それが助走をつけているかのようで──


その時だ。

上下に揺れていたアリが、一気に跳躍した。


建物の高さを優に超える跳躍で、一気にオレを飛び越える。

二メートルもの巨体が宙を舞う様子は、あまりに現実離れしていて、一瞬夢でも見ているのかと錯覚したほどだ。


はっと気づいた時には、そのアリは、何十メートルと離れていた町長の身体に飛び乗った。


「ぐえっ!」


何メートルもの高さからの落下に直撃し、抉れた石畳と共に町長の口から血が飛び出る。

町長が抵抗する間もなく、アリは彼の首筋に噛みついた。


「ぎゃあああああ‼」


遅れて、町長の悲鳴が聞こえる。


「勇者‼ 助けて‼ 勇者様‼ 勇者様ああああぁああ‼」


バリ、バリ、ガリ、ゴリ。


人が食われていく歪な音を呆然と聞きながら、オレはその場で立ち尽くしていた。

声もでなくなった町長の身体は、びくんびくんと痙攣し、既にもの言わぬ肉塊と化している。


くるりと、バッタのように飛んできたアリがこちらを向いた。

アリの口角の中に、獣のように尖った歯が見える。

その歯を敢えて見せるかのように、小さく口を開け、瘴気を含んでいるかのような息を吐き出す。


オレは衝動的に駆け寄り、そのバッタアリに必殺の一撃をお見舞いした。


Gyaaaaa!


反応することもできず、アリは炎に焼かれた。

念願の魔物を殺したというのに、オレは自分の乱れた息を整えるのに精いっぱいだった。


奴と目が合った時。

その時に感じた感情を書き消そうとするかのように、オレは奴を攻撃した。

あの感情はなんだ?

魔物を見て、咄嗟に感じてしまったあの感情。


そうだ。

あれは……


SIAAAA!


巨大アリが、突然鳴き始めた。

砂を板の上で転がした時の音を、何百倍にも拡充させたような鳴き声だ。

それに呼応するように、アリの大軍は陣形を変え始めた。


頭が平のアリが頭を突き出すと、紫色の膜のようなものが広がる。

おそらく、魔力でできたシールドだ。

そのシールドアリは最前列で横に並び、左右で威嚇していたカマキリアリがその後ろに移動する。

防御に徹するような布陣が不服なのか、カマキリアリは両手の刃をぶつけて音を鳴らしながら叫んでいる。


明らかに闘争心が高まっているのに攻撃してこない。

それはあの巨大アリが、この大軍を指揮している証拠だった。


(あいつを倒せば、この大軍は止まる!)


しかし、巨大アリはその図体から考えられないほど慎重だった。

大軍の一番後ろに座し、遠くからこちらを観察している。

先ほどの部下の死を見て、絶対に近寄るまいと心に決めているようだった。


「来いよ! 人間一人にビビってるのか、軟弱野郎!」


まるでその言葉に呼応するように、斬撃がオレを襲い、咄嗟に後ろに後退した。

長い鎌のような足がシールドの隙間から伸びている。

横っ腹の皮一枚が掠れた程度だったが、その鋭さを実感するには十分すぎるものがあった。


ゆっくりと、その足がシールドの中へと帰っていく。

オレは炎の剣を振り下ろした。

大量のコウモリを焼き尽くした炎はしかし、シールドの膜に阻まれて、辺りを明るく照らすことしかできなかった。


「くそ‼」


オレは後ろに大きく跳躍した。

それ以外にできることがなかった。

シールドはオレの攻撃を防いでしまう。

ダメージを蓄積させれば突破できるのかもしれないが、その間ずっと鎌の猛攻を耐えなければならない。

どれだけ自分を鼓舞しても、それが可能だと信じて実行することはできなかった。


「女神‼」

『はーい』


相変わらずやる気のない返事だった。


「なんとかしろ!」

『なんとか、とは?』

「魔王に対抗できるのが勇者の加護なんだろ⁉ こんな雑魚を一掃できない力で、魔王をどうこうできるわけねえ! お前が何か細工してるんだろ‼」

『そんなことして何の得があるんですか。その剣はあなたの心そのもの。煩悩に囚われ自分を見失っていては、引き出せる力なんて知れています。そんなの当たり前じゃないですか』


アリの大軍の中から、何かが飛び出す。

町長を殺した、あのバッタのようなアリ達だ。

オレに向かって飛び込んでくるアリを転がるように避け、炎の剣を横薙ぎに振るう。


オレは驚愕した。

先ほど同じアリを焼き殺した炎は、アリの身体に燃え移った瞬間、小さくなって消えた。


「どうにかしろ‼」

『無理ですねー』


くそ! くそ!

女神の野郎。オレの邪魔ばかりしやがる‼


逃げたくても、何匹も飛んでくるバッタアリに、既に退路を断たれてしまった。

がむしゃらに近くのアリを切り刻むも、相手は傷一つついていない。


「なんで効かないんだよ‼」


考えている通りにならない子供が怒りを爆発させるように、オレは怒鳴った。


「女神! 鉄の剣を出せ‼ 一度出したことがあるだろ! こんな炎じゃ奴らを殺せない!」

『ふあーぁ』


他人事のように、女神は手を口に添えてあくびをした。


『……これはまた転生ですかねぇ』


女神の目を見て、オレはぞっとした。

まるで何も感じていない。

魔物に対する怒りもなく、使命感もなく、オレに対する憐憫の情すらない。

女神は慈愛の塊だと母さんに教えられた。

だが実際は、そんなものとは遠く離れた場所にいる。


神にとって、救いを求める叫びなど、人間一人の命など、ないに等しいのだ。



周りは敵だらけ。

何にも頼ることができない。

そんな大きく膨らんだ絶望が破裂し、コインの裏表のようにひっくり返った。


「うおおおおお‼」


退路はない。

立ち止まっていても未来はない。

ならば……‼


オレは跳躍し、壁を蹴ってアリの大軍の中へとダイブした。


(あの巨大アリを倒せば‼)


そう思って剣を振りかぶるも、そこに巨大アリはいなかった。

辺りを瞬時に見回すも、影も形も見当たらない。

ターゲットを見失い、オレは慌てて近くのアリを斬り伏せながら着地する。


GYAAAAA‼


炎に巻かれたアリ達が、雄たけびをあげてのたうち回る。


妙だ。

同じ種類のアリなのに、炎が効く奴と効かない奴がいる。

ふと、先ほどまでオレと交戦していたアリに目を移す。

何か、砂のようなものがアリの身体から地面へと伝っていくのを見て、オレは目を細めた。


その何かを確認しようとした時、足に違和感を覚えた。

視線を下げると、五十センチくらいのアリが、オレの足にしがみついていた。

そのアリは、大きさと腹部が異様に膨れていること以外、特に変わったところはなかった。魔物特有の恐ろしさはなく、むしろどこか幼さを感じる顔をこちらに向け、小首をかしげている。


Gugi


そのアリがそんな鳴き声を出した時だった。

腹部がさらに膨張し、真っ赤になったと思うと、轟音とともに爆発した。



◇◇◇


一瞬のことで、何が何やら分からなかった。

気付いた時には身体は瓦礫に埋まり、全身を激痛が走っていた。


「ぐ、があっ! なん、だってんだ」


擦り傷や火傷が全体に広がり、どこにどういう傷があるのか、痛みだけでは判別できない。

手足をなんとか動かし、五体満足であることを確認すると、オレは身体に伸しかかる瓦礫を振るい落とした。


辺りは酷い惨状だった。

もはや無事な建物は一つもなく、どこもかしこも石の残骸と化している。

アリ達の姿が見えないのは不幸中の幸いか。

ともすれば倒れ込みそうになるのを堪え、立ち上がろうとした時だった。


自分のすぐそばに、誰かの手があった。

瓦礫に埋もれた中で唯一飛び出た手は、まるでオレに助けを求めているかのようだ。

オレはその人物の上の瓦礫を取り除き、顔を覗き込んだ。


「……フィリス⁉」


それはフィリスだった。

正真正銘、彼女の顔だ。


「フィリス! オレだ‼ 大丈夫か⁉」


返事はない。

気絶しているのだろうか。

どこか穏やかな顔をしているのは、気を失っているからだろう。

彼女の下半身はまだ瓦礫で埋まっている。


「待ってろ。すぐに助けてやる」


先ほどまでの苦痛など消し飛んだ。

慌てて立ち上がり、近くにあった長い板を瓦礫に差し込み、思い切り力を込める。

瓦礫はゆっくりと持ち上がり、そのままごろんとひっくり返った。

そこにある光景を見て、笑顔だったオレの表情は、そのままの形で凍りついた。


彼女の下半身が、どこにもなかった。


穏やかだと思っていた顔が、急に生気のない死者の顔へと変わっていく。

血は既に渇いていて、あの爆発の前に彼女が死んでいたことは、素人の目にも明らかだった。


「……フィリス。オレ、お前のそばにいるよ。一緒にいて、魔物から守ってやる。だから──」


オレは何を言ってるんだ?

まるで過去をやり直すように、あの時言ってやれなかった言葉を、魂のない亡骸に唱えている。


「オレは勇者だぜ? オレと一緒にいたら、お前は死なない。魔王だって、絶対──」


その時、手に鋭い痛みが走った。


……アリ?


数ミリほどの、普通のアリだ。

最初は呆然とそんなことを考えていたが、一瞬で目を見開き、そのアリを思い切り払い落とした。


痛い。

なんだ、この痛みは。

見ると、手から血が滴り落ちていた。

この大きさのアリが、こんな出血を伴う傷をつけるなんてありえるか?


オレは剣を取り出し、払い落としたアリに振り下ろした。

炎が一瞬で広がる。

普通のアリなら、既に死んでいるはずだ。それでも何度も何度も、剣を地面に振り下ろす。

その時には、オレは既に認めていた。


怖い。

怖い。怖い。怖い。


得体の知れないもの。人知を超えたものに、オレはどうしようもない恐怖を覚えていた。


さらに剣を振り下ろそうとした時、その腕に激痛が走った。


「がああ‼」


いつの間にか這い上がっていたアリを払い落とす。

次の瞬間、足に同じ激痛が走った。

見ると、オレの足はわらわらと湧くアリで埋め尽くされていた。


「うわああ‼」


自分の足が焼けるのも構わず剣を翳す。

しかしアリ達は一心不乱にオレの身体を登っていく。

腕に更なる激痛がいくつも走り、オレは思わず剣を落としてしまった。

慌ててそれを拾おうとして、剣を蹴ってしまう。

それを追いかけようとして、ずるりと滑る。

絨毯のように広がるアリの上に、オレは転んだ。


一気に身体全体にアリが広がる。

アリはオレの身体の至る所を噛みつきまわった。


「やめ、痛い! 痛いいいい‼」


叫んだのがダメだった。

口の中に一気に侵入したアリ達が、身体の内側から噛みつき始めた。


「ごあああああ‼」


オレは文字通りのたうち回った。

身体を地面に叩きつけ、頭から血が噴き出るのも構わず暴れまわった。

嘔吐し、吐き出た無数のアリ達が再びオレの身体に上ってくる。

それでも内側の痛みは止まらず、胃は常に痙攣し、暴れることもできなくなってくる。


痛みは終わらなかった。

アリが体中を蠢く感触が分からなくなっても、全身を襲う痛みは終わらなかった。

地獄のような痛みは延々と、延々と続いた。


「め……がみ。め、がみ」

『はいは~い』


いつものように、女神は笑顔でオレの前に現れた。


「たしゅ……け……。たしゅけ、て」

『ん~。そうしたいのは山々ですけど、私にできるのは、あなたが死んでから魂を別の人に移し替えることだけなんですよねぇ。だから、今できることは何もありません! ごめんね♪』


燃えるような熱さと痛みに覆われた自分の身体が、徐々に崩れていくのが分かる。

それと同時に、先ほどまであれほど熱かった身体が、急激に冷えていくのが分かる。

それでも、オレの意識が途絶えることはなかった。


「……して」

『はい?』

「殺……ひて。ころひて」

『それはできません。あなたは勇者なんです。どれほど辛いことがあっても、あなたは魔王を殺すまで、生を全うする義務があるんですよ』

「勇者……なんて、いやだ。もう……勇者、なんて」


女神はにっこりと笑った。


『悟りなさい。あなたは自分の運命から逃げられないのです』


オレは悟った。

この世には、信じられるものなど何もないということを。

この世には、生きるという地獄があることを。


女神が首から掲げているヴァジラが、強い光を放ち始める。

球状の突起の中から放たれる二つの光。その中心にある、二つのリインの紋章を見ながら、オレは死んだ。



続く


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