畜生編

呪い


畜生編




聞き慣れない鳥の声が聞こえる。

顔に差し込む日の光が眩しくて、オレは目を腕で遮った。

ぼんやりした思考の中で、オレは「ああ、夢か」と何とはなしに思った。


ギイと扉の開く音が聞こえる。

まだ寝ぼけているのか、視界がぼやけて誰が入って来たのか分からない。

でもその温かな雰囲気から、誰なのかは察しがついた。

母さんだ。

よかった。母さんは生きていたんだ。


「母さん……」

「どうしたの?」

「怖い夢を見たんだ。オレが母さんを殺してしまう夢だった。みんなを殺して、最後はオレも殺されて。……すごく、怖かった」

「大丈夫。私は生きてるし、お前も生きてる。他の人だってピンピンしてるわ」


よかった。

本当によかった。

たかが夢のことなのに、涙が出てくる。

こんなことじゃ、勇者になんかなれっこない。

でもそれでいいかもしれない。

あんな思いをするくらいなら、普通の村人として生きた方がよっぽど良い。


オレの手を、母さんが握ってくれた。


掌が少し汗ばんでいて、ふくよかで……。


…………


オレは飛び起きた。


そこにいたのは母さんではなかった。

名前も顔も知らない、中年の女性だ。


「誰だ⁉」


その女はきょとんとし、オレを見つめている。


「なにって、母さんだよ」

「ふざけるな! オレの母さんはお前じゃない‼」


辺りを見回して、その違和感はさらに増した。

窓のある居心地の良い木製の部屋。しっかりしたベッド。タンスに、小さなテーブルまである。

オレの家にはないものばかり。それどころか、オレの村にすらこんな立派な家は存在しない。


「はいはい。まだ夢を見てるんだね? まったく仕方のない子だねぇ、お前は」


彼女の呆れた声は、オレの耳には入ってこなかった。

窓に反射して映った自分の顔が目に入り、驚愕していたからだ。


震える手で、ゆっくりと自分の顔に触れる。

間違いない。

これはオレの顔だ。

でも何故だ?




何故、オレの顔が、まったく見覚えのない赤の他人の顔になっているんだ?




その顔は少し日焼けしていて、鼻の周りにうっすらとそばかすが見える。

以前に比べると健康的で、オレの本当の顔とは似ても似つかなかった。


先ほどまでは寝ぼけているせいかと思っていたが、身体にも違和感がある。

なんだか全体的に重い気がするし、腕回りの感触が以前とはあまりにも違う。

鍛錬を積み重ねて鍛え上げた筋肉が、ごっそり抜け落ちてしまったようだ。


まったく違う、けれど確かに自分の身体。

一つだけ同じだったのは、オレの右目にリインの紋章が浮かんでいることだけだった。


「しっかし、せっかく心配して様子を見に来てやったってのに、冷たい子だねぇ。石板の前でお前を見つけてくれた人に、放っておいてくれって言えたらよかったのに」


石板……?


「ちょっと待て。その石板って、勇者の石板か?」

「それ以外に何があるってんだい。倒れた時に頭でも打ったかね。あれだけ熱心に石板の前でお祈りしてたってのに」


石板。

祈り。

オレは自分が石板の前に行った時のことを思い出していた。

あの時、石板から現れた──


「女神‼」


突然オレが叫んだことに中年の女性は驚いていたが、構っている暇はなかった。


「いるなら出て来い! 女神‼」

「ちょ、ちょっとアンタ。本当に頭を打って、どこかおかしくしちゃったんじゃないだろうね」


狼狽する女性の背後は、何もない壁だった。

その壁から、以前石板の中から現れたように、ゆっくりと女神が顔を出した。


『お呼びですかぁ?』


あまりにもナチュラルにそう言われ、オレは毒気が抜かれてしまい、しばらく何も喋れなかった。


「あ……えと……、そ、そうだ。お前、何か知ってるだろ! なんでオレはこんな顔になってるんだ‼」

『最初に言ったじゃないですか。あなたは魔王を倒すんだって』


魔王を倒す。

確かに、女神はそう言っていた。

勇者は魔王を倒せるのではない。倒すと決まっているのだと。


「それと今起きていることと、どう関係があるって言うんだ?」

『あなたには魔王を倒してもらわなきゃいけないんです。たとえ死んでも、魔王を倒してもらわなきゃいけないんです』


走馬燈のように記憶が蘇る。

弓で射抜かれたケイト。オレが貫いた母さん。村人たちが、細切れになって血の海に沈んでいたあの惨状が。


『だから、私はあなたに肉体の代わりとなる魂の入れ物、リインを与えたのです。たとえ死んでも、新たな肉体に宿り再び運命(さだめ)を全うできるように』

「ちょ、ちょっと待てよ。ということは……何か? 今のオレの身体は、元々……他の誰かのものだった、ってのか?」

『その通りです。あなたの住んでいた村よりも遥か南に位置するこの町の少年マルクが、この地域にある石板の前で祈ったのです。石板に描かれたヴァジラ……私の胸元にあるこの法具が、精神と肉体の交わる経由地点となっています。そこを経由してリインは再び現世に現れるのです』


オレが勇者になった時と同じように、石板の前で祈ったマルクにもリインが宿った。

だからオレはマルクの身体に転生した……?

リインには、オレの魂が入っていたから。


『ちなみに、このことは魔物に知られるととんでもないことになっちゃうので、しーっでお願いしますね。二人だけの秘密です♪』

「ちょ、ちょっと待て。じゃあ……こいつはどこに行ったんだよ。元々の、この身体の持ち主は」

『あなたの肉体にちゃんと存在していますよ。深い眠りについて、一生起きることはありませんけどね』


それって……死んだのと同じじゃないか。

ただ石板の前で祈っていただけの、何の罪もない男が死んだ。

オレが、死んだから。

オレが……殺──



「うっ」


オレは思わず嘔吐した。

今になって、ようやく思い出した。

この体の持ち主だけじゃない。オレは何人も……何人も、殺した。

この手で、殺した。

ずっと一緒に暮らしてきた人たちを。大切な母さんを。


「ちょっとちょっと! 大丈夫かい⁉ 床は気にしなくていいから、全部出しちまいな」


そう言って、オレの……マルクの母親は、背中を擦ってくれた。

おおざっぱで力強い手だ。

壊れ物を扱うように繊細な指で触れてくれたオレの母さんとはまるで違う。

でも、確かにそこには、まったく同じ何かがあると感じた。


「店のことは心配しなくていいから、今日は寝てな。アンタ一人いなくても何とかなるさ」


オレは困惑しながら彼女を見上げた。

その顔を見て何を勘違いしたのか、優しい笑みを浮かべる。


「なんて顔してんだい? 店の売り上げが多少落ちても大丈夫さ。一番大事なのはお前の身体なんだから」


その顔が、あの時の母さんと重なって見えた。

『勇敢になんてならなくても。英雄になんてならなくても。好きな人と暮らして、家庭を持って。人並みに、……ただ人並みに、幸せだと思える人生を歩んでくれれば。私は、それだけで幸せだったの』


オレは胸を締め付けられる思いだった。

この笑顔は、この言葉は。たった一人の、何よりも大切な人に向けられた言葉だ。

同じ言葉を受け取ったオレだから分かる。

これは、赤の他人が独り占めしていい言葉じゃない。


オレではない人に向けられた純粋な愛情と優しさに、罪悪感でいっぱいになった。


「……違うんだ」

「ん?」

「オレ、アンタの息子じゃないんだ」


彼女は、小さく笑みを浮かべたまま黙っていた。


「さっきの、全部、ひとりごとじゃないんだ。オレの目、見ただろ? あれは勇者の証で、オレにだけ女神が見えるようになったんだ。オレはこことは違う場所で死んで、アンタの……アンタの、息子の身体に転生した。アンタの息子は、オレの意識の底で永遠に眠り続ける。一生、起きることはない」


辛(つら)い。

真実が喉から滑り出る度に、焼けただれるような痛みを感じる。

それを我慢できたのは、オレの言葉を直接受け止めているマルクの母親の方が、何百倍も辛(つら)いことを知っていたからだ。


一度声を止めると、色々な雑念が雪崩れ込んできて、再び吐き出すことがなかなかできない。

それでもオレは意を決し、最後の真実を語るために、口を開いた。


「だから──」


バタリ

そんな音をたてて、マルクの母親は倒れた。


「……は?」


何が起きているのか分からなかった。

彼女はぴくりとも動かない。


目を開き、先ほどまでと同じ表情で固まっている。

オレは震える手で彼女に触れた。

徐々に徐々に冷たくなる体温を感じ、オレは思わず飛びのいた。


「な、なん……! なんで⁉ オレは何もやってない! オレは何も──」


ハッとした。

おそるおそる、後ろを振り向く。

そこには、にんまりと笑う女神がいた。


「お前……」

『あ~、びっくりした。ダメじゃないですかぁ。二人だけの秘密って言ったのに、簡単に人に喋っちゃ』

「何、した。何しやがった。お前、何やったんだよ‼」


身体が熱くなる。

息が苦しくなるくらい、動悸が早く脈打っていた。


『さっき言ったじゃないですか。魔物に知られると石板を破壊される恐れがあるので、これは勇者であるあなたと私だけしか知ってはいけないんです。だからこの秘密を聞いた彼女は死んだのです。女神様の奇跡というやつですね。えっへん』

「ふ、ふざけるなああ!」


オレは女神を殴りつけた。

しかしその拳は女神の身体を突き抜け、オレは無様に床を転がった。


『あらあら。女神様を殴ろうとするなんて、良くないですよ。救いをもたらす勇者は、人々の模範となるべき人間なんですから。こんなことでは天に昇るのもまだまだ先の話ですねぇ』


やれやれと、女神は首を振ってため息をついた。


「何の罪もない人間を殺しといて、何が救いだ! てめえは女神なんかじゃねえ! ただの悪魔だ‼」

『むぅ。酷い言いぐさですね。この秘密が知られて石板を全て破壊されたら、それこそ世界の終わりなんですよ。確かにかわいそうではありますが、仕方のないことです。世界とはそういうものです』

「ふざけるな! すべてを悟ったようなこと言いやがって! この身体のことだってそうだ。マルクはお前を崇めてたんだろ! そんな奴を殺して、お前は何も感じないのかよ!」

『ですから、かわいそうだと思っていますよ』


こいつ……‼

無駄だと分かっていながら、どうしても殴りたいという衝動が抑えられなかった。


『あなたは理解していないのです。すべてはあなたを守るためのもの。人々に救いをもたらすための加護なのです』


加護?

加護だと?

人を殺してその身体を乗っ取ることが?

秘密を知られてしまった人間を問答無用で殺すことが?

これは加護なんかじゃない。

これは……呪いだ。


『ま、現時点での解釈はお任せしますよ。勇者として生きていれば、いずれ分かることです。嫌でもね』


それを聞いて、オレは唐突に理解した。

オレは勇者だ。

仮に死んでも、再び誰かの身体に転生する。オレが望んでいようといまいと、魔王を倒すまで、永遠と勇者を続けなければならない。


魔物一人相手に、オレは手も足も出なかった。

魔王を倒すまで、オレは何回殺されなければならないんだ?

あと何人、殺さなければならないんだ?


オレは床に倒れているマルクの母親を見下ろした。

無表情なその顔が、オレの方を向いている気がした。

今にも起き上がり、オレを怨嗟の声で罵ってくるような気がした。


怖い。

急に背筋が寒くなり、身体が震えた。

オレの頼りない背中に、いくつもの命がのし掛かっている。

なのに、それを支えるのはオレだけだ。オレ一人だけだ。

こんなの、支えられっこない。


「い、嫌だ……」

『はい?』

「オレは勇者なんてやらない‼ もうたくさんだ‼」


オレは思わずその場から逃げ出した。

勇者であるという事実から逃れるために。

人を殺したという現実から逃れるために。


とにかく走って。女神がいない場所まで逃げ切って。

それでどうにかなるなんて、まるで信じていないにもかかわらず。


『悟りなさい。あなたは決して、この輪廻から逃(のが)れられないということを』


家から飛び出たオレの背後から、そんな冷たい言葉が聞こえてきた。




続く

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