餓鬼編

英雄と平凡



オレが目を覚ましたのは、洞窟ではなく自分の家だった。


「起きた! 起きたぞ‼」


家の中には村の人間が何人もいて、オレを取り囲んでいる。

オレの手を握って安堵の笑みを浮かべる母さんと、目尻に涙を浮かべているケイトの姿が目に映った。


「……皆、何やってんだ?」

「朝起きたらお前がいなくなってるから、みんなに探してもらって、はずれで倒れているお前を見つけてもらったのよ。大丈夫? どこか痛むところはない?」


頭がぼーっとしていて、考えがまとまらない。

……そうだ。

確かオレは、村のはずれの洞窟に入って、そこで──


オレは飛び起きた。


「女神は⁉」


オレの言葉に、全員がきょとんとしていた。


「おいおい。頭打って夢と現実の区別もつかなくなったか?」


ウィズの軽口に応える気にもなれない。

目覚めたばかりでまだ頭が回っていないが、確かに覚えている。


あの洞窟の中。確かにあそこに女神はいた。

石板から現れて、オレに話しかけて……。


「すみませんが、少し通してください」


そんな声が、開け放たれたドアの外から聞こえてきた。

村長だ。

彼はいつもの柔和な笑みをどこかに置き忘れて来たかのように、神妙な顔をしていた。


「村長。リムが起きたんだが、妙なこと口走ってやがるぜ。女神がどうとかってよ」

「女神⁉」


村長は慌ててオレの元へ駆け寄って来た。


「リム、女神がどうしたのです⁉ あなたは女神を見たのですか⁉」


村長のあまりに必死な様子に戸惑いながらも、オレはうなずいた。


「……なるほど。ではあの石板は本物の……」


今度は急に大人しくなり、か細い声でぶつぶつと独り言をつぶやいている。


いつも村人を第一に考えて行動してきた村長は、どんな難しい問題でも一人で自己完結したり、村人を置いてけぼりにすることなどなかった。

その村長が、周りに気遣う余裕なく考えに没頭している。

それだけで、今のこの状況がどれほど異常なものなのかがよく分かった。


「ね、ねぇリム。その目、どうしたの?」

「え?」


ケイトに言われて、オレは右目を押さえた。

痛みがあったわけでも、違和感があったわけでもない。

なのに何故か、ケイトが言っているのは右目だと、オレは理解していた。

慌てて近くにあった水の入った桶を覗く。


オレの右目には、奇妙な紋章が浮かんでいた。

雷のような“くの字”を連ならせた、何かの塔を連想させるものだ。


「ちょ、ちょっとよく見せてください!」


村長がオレを無理やり引き寄せ、まじまじと目の中の紋章を見つめる。


「間違いない。これはリインの紋章です」

「リイン?」


聞き覚えなのない単語だ。

しかし母さんや村の老人たちは、それを聞いて一様に驚いていた。


「女神様の一部が宿った証。それを持つ者は、女神様に選ばれた勇者だということです」


オレは呆然としていた。


切実に望んでいた勇者の証。

なのに、あまりにも都合よく、あまりにも急にそれを手にしたことで、実感というものがそっくり抜け落ちてしまっていた。


「オレが……勇者?」

「そうです! この暗黒時代を終わらせる存在です! まさか勇者がこのアムル村から生まれるなんて‼ みなさん喜んでください‼ 魔物に脅かされる日も今日で終わりです‼」


村長の喜びが少しずつ伝播するように、戸惑っていた村人たちの歓声が大きくなっていく。

興奮して言葉をまくしたてる村長の声は、オレの耳に入っていなかった。


勇者になったという自覚が芽生えつつあるというのに、オレの心に何の感情も湧いてこない。

オレの隣で、複雑な顔をして俯くケイトと、顔を蒼くしている母さんの姿が視界から離れず、どうしても喜べる気分になれなかった。


ふと、自分の視界の隅で白い布のようなものがひらめいた。

自然、それを追うように首を横に向ける。


そこでオレは、“それ”と目が合った。

白いヴェールに包まれたドレス。長い髪。

この世のものとは思えない透き通った肌に、端正な顔立ち。


オレが昨夜の出来事を思い出すと同時に、その女性は、にこりと微笑みかけた。


『こんにちは♪』



「うわあああ‼」


思わず後じさり、壁に背中がぶつかった。


「どうかしたの?」

「あ、あれ! あれ‼」


全員がオレの指さした方向に顔を向ける。

しかし……


「あれってなんだ?」

「どうかしたの? 何か見えるの?」


全員、オレの言っていることがよく分かっていないらしかった。

オレに怪訝な目線を向ける者や、オレが指さした何かを見つけようと辺りを見回す者もいる。


「……見えてないのか?」


思わずつぶやいた言葉に、“それ”が答えた。


『そりゃあそうですよぅ。私とあなた方では住む世界が違うんですから』

「見えてないって、何が?」


ケイトが首を傾げている。


『なんて言えばいいかなー。んー……、つまりですね。私は現実と重なるように存在する精神世界に住んでいるんです。だから私の一部を持つあなたにしか私を見ることができません。分かりました?』


私の一部……。

オレは自然と自分の右目に触れていた。

村長は女神の一部がオレの右目に宿ったのだと言っていた。


つまり今オレが見ているこの女性。これが……女神?


『それにしても、まるで化け物でも見たかのように驚いてましたね。こんな可憐な少女を前にして、ホントに失礼な人です。いくら女神でも傷ついちゃいますよ?』


そう言って、彼女はウインクしてみせた。


絶世の美女と言っても差し支えない相貌だが、どう考えても少女という年齢には見えない。

オレは驚きのあまり叫び声をあげてしまったことへの照れ隠しに、「ババアの間違いだろ……」と誰にも聞こえないようにつぶやいた。



◇◇◇


とりあえず事情は伏せて、皆には一度帰ってもらった。

一人になりたいからと無理を言って、母さんにも皆を送ってもらうように頼んだ。


身体の悪い母さんに仕事を増やすのは気が引けたが、帰り際にケイトが目配せしてくれたので、彼女に任せることにする。

村長ではないが、オレも自分のことで手一杯だった。


オレは改めて女神を見つめた。

その姿は石板に描かれたものとほとんど変わらない。

ただ一つ印象と違うのは、彼女の首にかかっている奇妙な神具だった。


おそらくはゴマの儀式で使われた紋様のモチーフになっているもののようだが、あの時のものとは少し違う。

真ん中に柄(え)のようなものがあるのは同じだが、両端から伸びているのは円ではなく、球状に膨らむような形で飛び出ている複数の突起だった。

その突起が形作る球状の空間の中に、光輝く玉のようなものが入っている。

その玉が何なのかはよく分からないが、何か神聖なものなのだろう。


「で? 女神とやら」

『はーい。なんですか?』


女神という仰々しい存在の癖に、妙にフランクだ。


「なんでオレを勇者に選んだ?」

『え? だってあなたが望んだんでしょ?』

「そりゃそうだが、なんていうかその……オレはお前を信仰していたわけじゃないんだぞ? もっと相応しい人間がいるだろ」


石板の前で発した言葉も、およそ信仰心を感じるものではなかったはずだ。


『んー……、まあなんていうか……、テキトー?』


女神は小首をかしげてみせた。


「テキトーって……。こっちは勇者が現れるまでの間、ずっと魔物に怯えて暮らしてたってのに」

『だってぇ。誰も私を信仰してくれないんですもん』


人差し指と人差し指を合わせて、女神はいじけるように言った。


『石板の前で祈ってくれる人なんてごくごく僅かですし、その中で勇者になりたいと願う人なんて、それこそ一人いるかいないかですよ』


どうやら石板に祈ることが勇者になるための条件だったらしい。

魔物対策とはいえ、石板の場所さえ誰も知らない今の状況では、祈りに来る人間がいないのは当然といえば当然だ。


『こっちもなりふり構ってられませんからねぇ。性格に難ありでしたけど、まあ、勇者になってもらってから教育すればいいかなーって。私、面倒事は後に回すタイプなんですよ』


テキトーだ。

テキトーすぎる。

本当に人間を救う気があるのか疑いを覚えてしまうほどに。


しかし女神からすれば別に人間を救う義務もないだろうし、これくらい軽い感覚になるのが普通なのかもしれない。


「……まあいい。じゃあ早速魔王を倒すためにレクチャーしてくれ」

『あ、それは勝手にやってください』

「は?」

『私、放任主義なんで』

「はあ⁉」


オレは思わず詰め寄った。


「今さっき教育していくって言ったばかりじゃねーか!」

『まあそうなんですけど~。めんどくさいって言うか~』


下を向きながら、ドレスの裾をいじっている。

なんだろう。

こいつと話しているとイライラしてくる。


『歳のせいかなぁ。最近、ちょっと腰が痛いんですよねぇ。ちょっとがんばったらグキっといっちゃいそうで』

「精神世界なんだろ⁉ 気の持ちようでどうにでもなるだろうが!」

『おお! 言い得て妙ですね~』


ナイスナイスと、笑顔でサムアップしてくる。

どうやらこいつはまるで頼りにならないらしい。

オレは思わずため息をついた。


「とりあえず、オレは魔王を倒せる力を与えられたってことでいいんだな? これでこの世界を牛耳るクソ野郎と対等に戦えるってわけだ」

『倒せる、ではありません』

「え?」

『あなたは魔王を倒すんです。これは確定事項なんですよ』


先ほどまでと変わらぬ温和な笑み。

そのはずなのに、なんだか目が笑っていないような気がして、オレは思わずぞっとした。


「それって──」


オレが言いかけた時、家のドアが開いて母さんが帰って来た。


「……さっき、誰かと話してなかった?」


オレはちらと女神の方を見た。

彼女は慌てた様子で人差し指を立て、『しーっ! しーっ‼』とオレにアピールしている。

どうやら女神が見えることは言ってはいけないことだったようだ。


「いや、ちょっとひとりごと」


まあオレも、見えない女性の話をして異常者であることをアピールしたいわけじゃない。

ここは女神に乗っておくことにした。


「皆はどうだった?」

「大喜びよ。食料もないのに宴の準備を始めるみたい。いつも止めに入る村長があんな感じだしね」


熱くなった時は冷や水を。絶望に打ちひしがれた時は希望を。

いつも一歩引いた視点で村人達の心のバランスを取って来た村長が、今誰よりも熱に浮かされている。


「……でも、村長がそうなるのも当然か。なにせこのオレが勇者だぜ? 魔王を倒して、人間が当たり前に暮らせる日々が始まるんだ。これからは何の心配もない! 食料も、夜に怯えて暮らすことも、何も!」


オレは熱心に、この喜ぶべき事態を母さんに説明した。

母さんがまるで何も理解していないように見えて。自分でも変だと思うくらい、必死に。

でも母さんは、そんなオレに、ただ悲しそうな目を向けるだけだった。


「……ごめんなさい」


母さんは、突然そんなことを言い出した。


「私と言い争いになったのがきっかけで、女神様の石板に行ったんでしょ? 私があんなこと言わなければ……」

「何言ってんだよ。オレは元々勇者になりたかったんだぜ? 母さんのせいじゃなくて、母さんのおかげだろ。安心しろよ。今に自分の息子が英雄として未来永劫語り継がれるようになるからよ!」


興奮するオレとは裏腹に、母さんは冷静な様子で首を振った。


「そんな名誉なんていらないわ」


真剣な表情だった。

母さんが本気で言っていることはよく分かった。

なのにオレは、何で母さんがそんなことを言うのか、まったく分からなかった。


「……なんでだよ。だっていつも、母さんは女神に祈ってたじゃねえか。母さんだって、自分の息子が勇者に選ばれて、誇らしく思ってるだろ?」

「私が毎日少ない食事を女神様に捧げてきたのはね。リム、お前の平穏をお願いするためなのよ」


母さんは、そっとオレの頬に触れた。


「こんな世の中で、貧しい家庭の子として産んでしまったけれど。せめて人並みの幸せを与えて欲しいと。私はそれだけを願っていたの」

「母さんは何も分かってない! 勇者が現れたんだ! みんな幸せになれるんだよ! 母さんだって──」

「勇者になんてならなくていい」


母さんは言った。


「勇敢になんてならなくても。英雄になんてならなくても。好きな人と暮らして、家庭を持って。人並みに、……ただ人並みに、幸せだと思える人生を歩んでくれれば。私は、それだけで幸せだったの」


訳が分からなかった。

あれだけ女神を信仰していた母さんが、まるで別人のように思えた。

何かに縋ることしかできなくて、病気がちで。満足に育ててあげることもできなかったと、いつも口癖のようにオレに謝っていた人が……。


「幸せだったのよ」


オレは何も言えなかった。

母さんの手は、皮と骨だけのように思えるほど細く、今にもぽっきりと折れてしまいそうだった。

水仕事で荒れた肌は撫でる度にオレの皮膚に引っかかり、ともすれば痛みを覚える。


でもそれは、薪をくべた貴重な火よりも温かく、豊作だった時に出されるご馳走よりも満たしてくれる、魔法のような手だった。


「母さん。オレ──」


ふと、頬に感じていた母さんの手が離れた。

それと同時に、母さんの身体が傾き、地面へと倒れていく。

オレは慌てて抱き止めた。

いつもならすぐに聞こえる大丈夫という言葉が、今日は聞こえなかった。


「母さん! 母さん‼」


いつも笑顔で返事をしてくれるオレの呼びかけに、母さんは答えてくれなかった。



続く


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