第七章 裏切り2

 それからしばらく経ったころだった。後方から、誰かがわたしに声をかけてきた。


「あなた、そこでなにをしているの?」


 シェンインとは違う声に気がついて、わたしは驚いて振り返った。

 そして、そこにいた人物の正体を知って、さらに驚愕した。


「こ、皇太后、様……?」


 そこにいたのは、紛れもなく、あの皇太后だった。シェンインと皇太后付きの侍女は、端のほうに移動していた。先日のことを思い出し、わたしはすぐに拱手礼をして見せた。


「せ、先日は、とんだご無礼を働き……っ」


 わたしが慌ててそう言い繕おうとするのを、彼女は冷徹な声で止めた。


「やめて。そんなおためごかし、聞きたくないわ」


 わたしはそれを聞き、確かに今さらなにを言ってもそういうふうにしか聞こえないだろうというふうに思い直した。そして、顔を上げ、目の前に立つ皇太后に向き直った。


「相変わらず、田舎臭さの抜けない娘だこと」


 皇太后は、ふんと鼻を鳴らしてみせたが、その態度は、以前のものより少し違って見えた。

 わたしが戸惑って立ち尽くしていると、皇太后はなにを思ったのか、すっとわたしに歩み寄り、隣に立った。等身大の皇太后は、わたしよりも少し背が低いくらいだった。


「あの蓬莱島を見ていたのね」


 皇太后は、視線をわたしから池の中心に浮かぶ蓬莱島のほうへと移していた。わたしは少し迷ったが、意を決して返事をした。


「はい」


 少しの沈黙が流れた。

 わたしは緊張していたが、不思議と皇太后が恐ろしいとは思わなかった。こうして横で並んでいるせいだろうか。


「あの島は、遠い東の海の向こうにあるという理想郷を表しているの」


 話し出した皇太后の声色は、落ち着いて聞こえた。一方的に怒りを向けられるとばかり思っていたわたしは、拍子抜けしたような気持ちになり、意外に思った。


「蓬莱には、仙人が住み、不老不死の妙薬があると言われている。この国の歴代の王も、その伝説にあこがれ、夢見てきたわ。けれど、そんなものが本当に見つかるわけがない。人間が不老不死になど、なれるわけがない」


 皇太后がなにを言おうとしているのかがわからず、わたしは思わず彼女の横顔を見やった。彼女は池の中央にある島を見つめたままだった。


「ありもしない理想郷に思慕を寄せ、現実を見ていなかった我が夫である先代の王は、最期のときまでそれを追い求めていた人だった」


 ああ。

 彼女は今、先王のことに思いを馳せているのだ。

 まだ五十を前にして、大病を患うことになってしまった先王が、不老不死の薬を探して海に船を出させたという話を聞いたことがある。しかし、それからまもなくして、先王は崩御した。

 結局、蓬莱山は見つからず、船はなんの収穫も得ることなく戻ってきたはずだ。


「この国は今、次第に国力を落としつつある。その責任は、たぶん先王の治世に因るところが大きいことはわかっているわ。けれど、わたしにはどうすることもできなかった。お飾りの妃でしかなかったわたしの言葉など、先王には届かなかった」


 皇太后がこんな話をしだすとは、とても意外だった。思いもよらぬ皇太后の先王に対する言葉に、わたしはどう反応すればいいのか困り、結局なにも言葉が見つからなかった。

 皇太后は、ふと目を閉じ、一度深呼吸をした。そして、目蓋を開いてわたしのほうに向き直った。


「あなた、メイリンと言ったわね」


「はい」


 こちらを見つめる皇太后の瞳には、どこか悲しみの色が見えていた。


「リーシンがあなたを妃に選んだことは、あの子なりに考えがあってのことなのでしょう。王家の倣いに反する行為を示すことで、この現状に一石を投じたつもりなのかもしれない」


 皇太后のその予測は、たぶんほぼ合っているのだろう。


「だけど、それが本当にこの国のためになることなのか、正直わたしにはわからない。国の威信が地に落ち、国力がさらに落ちることにもなりかねない。だからわたしは最初、あなたとリーシンとの婚約には大反対した。あなたも嫌というほど覚えていることでしょうけれど」


 忘れようにも忘れられない。あの髪を引っ張られ、突き倒されたときの痛みと悔しさは、忘れられるはずがない。


「けれど、リーシンの意志は固く、母であるわたしの意見も無視してあなたとの結婚に踏み切ろうとしている。もうわたしの力でそれを押しとどめることは難しいわ」


 皇太后はまだ知らないのだ。リーシンがわたしとの結婚をあきらめようとしていることを。彼がまだ、わたしとの結婚を望んでいるのだと考えている。しかし、王の翻意をこの場で彼女に言っていいものかどうか、わたしには判断がつかなかった。


「今、この王家は危機に瀕している。先王の直系の血を引き継ぐのは、今この王家の中でリーシンしかいない。もし今あの子が暗殺されでもしたら、この国は他の誰かに乗っ取られてしまうことになる。側妃も持たず、子を成すことに興味のなかった先王が招いたこの事態には、先王の妃だったわたしにも大きな責任がある。だからこそ、わたしはこの王家を護らなければならない。王家の威信を外に示していかなければならない」


 皇太后は一度視線を下に向け、それからわたしの顔にそれを戻した。


「こんなことを頼むのは、お門違いかもしれないけれど、メイリンさん」


 名を呼ばれ、どきりとした。しかも、聞き間違いでなければ、彼女は今、わたしをメイリンさんと、さん付けした。


「わたしはやはり、今回のあなたたちの結婚を賛成することはできない。それでこの国の、王家のなにかが変わるとは思えない。ただの暴挙だとしか、思えないの。……だから」


 皇太后の目は、黒く潤んでいた。


「どうか、身を引いて。おとなしく故郷(くに)に帰ってくれないかしら」


 彼女のその言葉は、そのときのわたしの胸に、深く響いて聞こえた。

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