第六章 決行3

 その夜は雨だった。しとしとと降る秋雨は、静かでどこか心地良い。

 しかし、しめっぽくなった空気は、心にも湿り気を与える。

 雨の音階と、しめっぽい空気とが、わたしの心を気怠くさせていた。

 かたり、と戸が鳴り、わたしはどきりとした。


「……メイリン。入っていいか」


 無論断るわけにはいかない。わたしは「はい」と返事をする。

 入室してきたリーシンに、わたしはすぐに目を向けられなかった。少しだけ息を整えてから、そちらを見やる。

 背の高い、その姿。何度目にしても、見慣れることはない。


「外を見ていたのか」


 窓辺に座っていたわたしを見て、彼はそう言った。


「久しぶりに雨が降ったので」


 リーシンが窓辺にいたわたしの隣に近づいてくる。

 近くで顔を見るのがつらく、わたしはほんの少し視線を下に向ける。少しずつ胸の鼓動が高まっていくのがわかった。


「今日は月が見られなくて残念だ」


 その声は、間近から聞こえてきた。低く落ち着いたその声は、雨音のように静かで。


「まあ、それでも、こうしてお前と雨の音を聴いているのも悪くない」


 優しいそんな言葉が、するりとわたしの心の奥へと侵入する。

 わたしは思わず、ぎゅっと胸の前の襟を握り締めた。


 どうして。

 こんなに気をつけていたのに。

 これ以上心を盗られないように、気持ちを引っ張られないようにと固く誓っていたのに。

 こんなに易々と、この人はわたしの心に侵入してくる。

 わたしを虜にする。


 ふと目を上げ、彼の顔を見た。

 するとそこに、優しげに目を細めるリーシンの姿があった。

 どくんと、心臓が跳ねあがる。


 駄目だ。

 もう、認めなければならない。

 わたしはこの人に惹かれている。


 この人に、恋をしている――。


「よかったらお茶をどうぞ。少し冷めてしまっているけれど」


 円座に座ると、わたしはシェンインに用意してもらった茶器と湯で、リーシンにお茶を煎れた。


「構わぬ。冷めたものを口にすることは慣れている」


 彼はそう言うと、わたしの出した茶をぐいとひと息にあおった。

 そのとき気づいたが、わたしは王の口に入るものを、毒味もせずに与えてしまった。もしかしなくても、こんなことをしてはいけなかったのではないだろうか。わたしは不安げに彼を見やった。

 そんなわたしの様子を不審に思ったのだろう。リーシンが不思議そうな顔をした。


「どうした? 毒でも入っていたのか?」


 そんなことを口にするリーシンに、わたしは首を激しく左右に振った。


「め、滅相もない! 毒だなんて!」


 狼狽するわたしを見て、彼は声を立てて笑った。


「はっはっは! 冗談だ、冗談。本当にお前は素直で、ついからかいたくなるな」


 からかわれたということに、わたしは顔が熱くなった。そして、いいようにもてあそばれている自分に腹が立った。


「まあ、お前に毒を盛られて死ぬなら本望だな」


 また、冗談か本気かわからないようなことを言って、リーシンは笑った。

 そんな彼に、わたしは思い切って気になっていたことを訊いてみることにした。


「あの、リーシン。……昨日の晩に、あなたが言っていたことなんだけれど」


 その質問に、彼は浮かべていた笑みを消した。そして、わたしからすっと視線を逸らした。


「……ああ」


 冷めたような相づちに、わたしは少しだけ心が挫けそうになったけれど、それを奮い起たせて続く言葉を発した。


「なにも望まないって。……あれは、どういう意味なの……?」


 声が震えそうだった。答えを聞くのは怖いけれど、聞かないではいられなかった。

 視線を逸らしていたリーシンだったが、一度目を閉じると、再びこちらに視線を向けた。


「そのままの意味だ。おれはお前との結婚をあきらめた」


 覚悟をしていた答えだったが、実際にそれを言葉で聞くと、ずきりと胸の奥が痛んだ。


「……それなら、賭けはどうなるの? わたしがあなたに惚れたらあなたの妃になるっていう」


「賭けは、おれの負けだ。お前はあの幼馴染みのことが好きなのだろう。今回のことは、おれの独り相撲に過ぎなかったというわけだ」


「でも、期日までまだ日にちがあるわ。まだあきらめるには早いのじゃないの?」


 わたしの言葉に、リーシンは片方の眉を上げた。


「どうした? メイリン。なぜそんなことを言う? 賭けはお前の勝ち。望みどおり、お前はおれの妃になどならなくても済む。それをお前は望んでいたはずだろう?」


 彼の言うとおりだった。わたしは彼に面と向かってそう言っていたはずだ。

 王妃になどなりたくない。

 そんなことは望んでなどいないと。

 そうだったはずなのに、胸の奥から湧き出てくるなにかが、わたしにこんなことを言わせてしまう。

 この人のことを引き留めたいと思ってしまう。


 好きなのだ。

 この人のことが。

 だから賭けは、わたしの負け。


 それを言ってしまえば、わたしは約束どおり彼と結婚することになる。彼がここであきらめることはないのだ。


「メイリン?」


 リーシンが怪訝そうにこちらを見ている。

 言わなくてはいけない。なにかを言わなくては。

 あなたのことを好きになってしまったと言わなくては――。

 けれど。


「……ごめんなさい。変なことを言って。なんでもないの。ただ、そう言ってみただけ。期日を前にあきらめるなんて、自信に満ちていたあなたらしくないと思ったから」


 口を突いて出たのはそんな言葉。

 理性が、流されそうになる感情を押しとどめる。王妃になどなるべきではないと、わたしに警鐘を鳴らす。


 なにも言わなければいい。

 この感情を、誰にも言わずに胸に秘めておけばいい。

 そうすれば、王妃になどならなくても済むのだから――。

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