第六章 決行2

 昔、わたしがずっと幼かったころ、わたしは一人の少年と出会った。


 彼は、村の人間ではなかった。

 どこか都会的な雰囲気を持った少年だった。


 彼はわたしが道端で花を摘んでいるのを、じっと興味深げに見つめていた。

 わたしは、彼も花が欲しいのかと思って、自分が摘んだ花束を彼に渡した。

 すると、彼は少し驚いた表情を見せたかと思うと、次の瞬間、とても嬉しそうに微笑んだのだ。


 その笑顔を見て、わたしもとても嬉しかったことを覚えている。

 そんな些細な記憶。

 埋もれて忘れていたそんな記憶がふいによみがえって、わたしは驚いた。

 今思えば、あれがわたしの初恋と呼べるものだったのかもしれない。


 人を好きになるということは、結局そんな、些細なことなのかもしれない。少しだけ嬉しかったり、楽しかったり。そういうものを共感できたら、それはとても幸せで。

 そんな些細な、けれどかけがえのない幸せと、苦しくつらい思いとが、同じ恋というものだと言えるのだろうか。


 浮かんでは消えるリーシンの顔。

 笑った顔。

 怒った顔。

 悲しげな顔。


 その表情のひとつひとつが、わたしの心を強く揺さぶる。

 彼が笑うと嬉しくて、悲しそうな顔を見ると、悲しくて。

 いつの間に、そんなふうになってしまったのだろう。

 ふと気がつくと、彼のことばかりを考えてしまう自分がいた。


 恋、なのだろうか。

 わたしは、いつの間にか彼のことを――?


 違う。そうじゃない。

 これは恋なんかじゃない。

 わたしはそれを、認めるわけにはいかない。

 だって、わたしと彼とでは、住む世界が違う。

 生きている世界が違う――。


 ――こんなに近くにいるのに?


 リーシンの声が耳に響いた。


 ――こんなに触れられるほどの距離にいても、おれとお前とでは住む世界が違う

と?


 彼のその言葉は、もうわたし自身の胸の奥にしっかりと刻み込まれていた。

 ミンファにもわたしはそれを言ったはずだ。

 わたしたちは同じ人間だと。

 身分を血ではかるのは、間違っていると。

 わたしはもう、答えを知っている。

 ただ、怖いだけなのだ。

 その茨の道に進んでいくことが、恐ろしくて怯えているのだ。


 苦しくて、泣きたくなる。

 どうしようもなく苦しくて。

 切ない。


 わかっている。

 もうとっくにわたしはそれに気づいている。ただそれに、扉を作って閉じこめようとしているだけなのだ。

 だけどそれは、どんなに押して閉めようとしても、強い力で外に出てこようとする。もう、わたし自身の力ではどうにもできないくらいに。

 理性で感情は止められない。いけないとわかっていても、感情はもうとっくにその先へと走っていってしまうのだ。


 ――扉が開く。


 駄目。

 まだ、駄目なのに。


 扉はゆっくりと、わたしの中で開いていった。

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