第五章 月との距離4
その日は満月だった。
わたしが部屋の窓の外からその月を眺めていると、目の前に大きな影がかかった。
「名月だな」
リーシンが窓の外で、そうつぶやいていた。
「今日は外で月でも眺めて過ごすか」
そんなことを言って、彼はこちらを振り向いた。月影に隠された表情はよく見えなかったが、微笑を浮かべているようにわたしには見えた。
リーシンの招きに従って、わたしは部屋の外に出て、彼とともに庭園のほうへと向かっていった。
庭園の池は、月明かりで水面が光って見えた。その中心には、蓬莱に見立てた島が見える。
辺りは、コオロギなどの虫たちの鳴き声で満ちていた。
わたしはリーシンのあとに従って、池にまたがる橋を渡っていった。リーシンは、その橋の真ん中付近まで来ると、そこで立ち止まった。
くるりとこちらに向き直り、彼は優しげに笑った。
「月明かりで、手燭も必要ないくらいだな」
確かに、彼の手元で淡く光る蝋燭の明かりより、空の月明かりのほうが明るく感じた。
「綺麗……」
わたしは心からそう思った。
澄んだ夜空にぽっかりと浮かぶ月は、静謐な美しさで満ちている。人の手ではどうやっても再現できないそれは、どんな名だたる芸術品よりも美しい。
「本当に」
リーシンもそう言って、月を仰いだ。
美しい満月の下、わたしたちは同じように天を見つめている。
「月は、仙界とも通じるという話を知ってるか?」
リーシンが突然そんな話をしだした。
「仙界? 蓬莱みたいな?」
「ああ。そうだ。生身の人間の行き着けぬ場所。月世界も、そういうもののひとつとして、仙界と呼ばれる」
月を見上げながらそんな話を聞いていると、自分が不思議な世界に浮かんでいるような、神秘的な気持ちになった。
「昔から人間は、手の届かぬ遠いものにあこがれを抱いてきた。そこが理想郷であると信じ、あがめてきた。……きっとそれは、人の宿命なのだろう」
密やかに話すリーシンの声は、夜空の虚空に消えていく。それはどこか寂しくて、悲しい響きをともなって聞こえた。
「手の届かないものの象徴……」
それでも人は、それを求めてやまない。
美しく、どんな宝石よりも光り輝くその姿を手に入れたいと望む。
「きっと、だからこそ、それは永遠に神聖であり続けることができるのだろう。手に入らないからこそ、その美しさは永遠であり続ける」
ふと、リーシンがこちらに目を向けた。
「手に入らないからこそ……」
わたしはそのとき、彼が泣いているように見えた。
青い静謐な月の光が、彼を包む。
まるで彼のことを、抱き締めるかのように。
彼のことを、なぐさめるかのように。
彼はすぐに、顔を向こうに向けた。
「賭けの期日まで、少しの間だが、こうして過ごすことを許して欲しい」
そんなことを言う。
「おれの身勝手で、いろいろと迷惑をかけたこと、すまないと思っている」
なぜ今、そんなことを言うのだろう。
どうしてそんなに優しい言葉を、わたしに言うのだろう。
「だけどどうか、おれにあともう少しだけ、お前と過ごす日々を」
月の光が彼を包む。
その姿はとても美しく、神々しくさえあった。
彼は言う。
「おれはその日々さえあれば、もうなにもいらない」
月と人。
その距離は、遠く。どこまでも遠く。
「もうなにも望まない」
遙かに、手が届くことはない――。
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