第五章 月との距離1

 黄竜。

 書いた字のとおり、黄金に輝く竜のことである。

 青龍、朱雀、白虎、玄武の四神の長といわれ、中央を護るといわれる。

 国の中央といえば、それは王都であり、さらにいえば、王宮である。黄竜は王家を護る象徴として、王宮内のあちこちに描かれていた。


 わたしは後宮を取り囲む壁の内側にその絵を見つけ、しばらくそれをぼうっと眺めていた。

 浮き彫りと呼ばれる美術の工法を用いて作られており、その壁画自体に立体感があった。鮮やかに彩色もされており、今にも飛び出てきそうなほどに迫力がある。

 王家の威信を示すため、この豪華な王宮は壮大な広さを持っている。それは広いだけではない。こんなふうに、あちこちに意匠を凝らした細工や美術が使われている。この王宮を作り上げた昔の人の膨大な労力や時間、莫大な費用のことを思うと、めまいがしそうだった。


 しかし、美術を見ることは、悪くない。

 どこか崇高な気分にさせてくれる。

 わたしは昨夜のことに悩み、そのもやもや感から、後宮内の庭を先程から放浪し続けていた。そして、この壁画の前までたどり着いていたのである。


 シェンインが、心配そうにそんなわたしのあとをついてきてくれていた。しかし、わたしは今は一人になりたい気分だった。

 一人で頭を冷やして、自分の今後を考えたいと思っていた。


「シェンイン。いつもそばにいてくれてありがとう」


 突然のわたしの言葉に、シェンインはきょとんとした顔をした。


「でも、今だけお願い。少し一人で考えたいことがあるの。ちょっと離れてもらっててもいいかしら?」


 わたしのその申し出に、最初は少し戸惑った様子を見せたシェンインだったが、やがてこくりとうなずいた。


「わかりました。しかし、メイリン様の御身の安全のため、目の届くところにいさせていただきます」


「ええ。それでいいわ。ごめんね、シェンイン」


 それからシェンインは、静かにわたしから離れていった。一抹の寂しさを感じたが、わたしはようやく一人になったことで、ほっとため息をついた。


 婚儀の日取りが決まったと、昨夜リーシンは言った。

 その日まで、あと半月ほどしかない。

 それまでに、わたしは結論を出さなければならないのだ。

 以前なら、迷いなく王の申し出を断っていた。しかし、今となってはそう簡単に結論を出すことなどできそうになかった。


 わたしに、ともに逃げようと言ってくれたフェイロン。

 けれどわたしは結局、彼についていかなかった。

 賭けの期日までまだあるということもある。わざわざ危険をおかしてまで後宮を抜け出す必要はない。けれど、それは本当の答えとは言えない。

 そういう後先のことなどすべて取り払って、わたしはそれでもフェイロンについていかなかったのだろうか。

 フェイロンのことを、わたしはどう思っているのだろう。

 そして、リーシンのことも……。


 上を見上げると、透き通るような秋の空が広がっていた。

 雲ひとつない、透明な青空。

 わたしの悩みなど、この広い世界の中では砂粒ほどの些細なことでしかない。取るに足らない、そんな自分。


 なのに。

 そんなわたしを想ってくれる人がいる。

 この広い広い世界の中で、他でもないわたしのことを好きになってくれる人がいる。

 それは、なんてありがたいことだろう。なんてすごいことだろう。


 だからこそ。

 わたしはそれに、誠実に答えなければならない。

 真剣に考えて、わたし自身が納得する答えを見つけなければならない。

 わたしはどうしたいのか。

 王妃とか、身分のこととか、今後の不安とか、そんな一切合切のものすべてを取り払って。


 わたしはわたしの心と向き合わなければならない。

 本当の自分の気持ちを、知らなければいけない。

 じわりと、空の青さが目に染みた。

 どこまでも青く美しい空のように、自分もなりたい。そう思った。





 その帰り道、わたしは庭園の橋のところで、ユンバイさんと出会った。宦官である彼は、後宮の出入りが許されているのだ。こんなふうに、すれ違うような場面も出てくることは必然だった。

 しかし、夜の会合のことは外では極秘である。当然、ユンバイさんと顔見知りであることは、伏せなければいけなかった。

 わたしが会釈をして、ユンバイさんの隣を通り過ぎようとしたとき、去り際に、ユンバイさんがこんなことを言った。


「……今夜、会合で重要な話が」


 密やかな声だったが、ユンバイさんは確かにそう言った。わたしは振り向きたい衝動を必死に押さえ、橋を渡りきった。

 ドキドキと早鐘を打つ心臓の音が、耳元で聞こえていた。

 今夜、会合でなにが話されるというのだろう。

 もしかすると、丞相の横領の証拠が掴めたのだろうか。

 いずれにしても、近々動きがあるのかもしれない。

 わたしは自分の胸の高鳴りを悟られぬよう、必死で平静さを心がけながら部屋へと戻っていった。

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