第四章 それぞれの想い8
「無力だった。王族として生まれてきた立場にありながら、おれはインホンに、なにをしてやることもできなかった。なにひとつ、おれにできることはなかった。短い間だったが、おれはインホンのことを父親のように思っていた。実の父親とはほぼ疎遠といってもよかったおれにとって、インホンは本当の親よりもずっと親らしい愛情を、おれに注いでくれたんだ……」
リーシンは、絞り出すような声でそう言った。
「おれはそれから考えた。それまで使ってこなかった脳味噌を総動員して考えた。おれが王太子として生まれたわけ。おれがインホンにしてやれること。おれがこれからなにをしていくべきなのかということを」
悲痛な、酷く悲しみに満ちた心の叫びを聞いた。
彼のその悲しみは、わたしの心を強く揺さぶった。胸が痛む。
部屋に静かな時間が戻ってきた。外から聞こえてくる虫の鳴き声が、時の流れを現実へと引き戻す。
インホンとの出会いと別れは、幼いリーシンにとってどれだけ大きなものだったか。想像するまでもなく、それは彼のその後の人生に多大な影響を与えたに違いない。
わたしは、俯いて顔を伏せているリーシンの背中を見やった。広く思えた彼の背中が、なんだか随分小さくなってしまったように思えた。
わたしはそっと、その背に手を近づけた。恐れ多いとは、なぜかそのときは思わなかった。
ただ、誰かがその背に手を差し伸ばさなければならない。誰かが彼を、孤独から救い出さなければいけない。
そんな思いが、わたしを突き動かしていた。
わたしの手がリーシンの背に触れると、彼はびくりと体を震わせた。わたしは構わず、その背をゆっくりと撫でた。
「あなたは、つらい別れを経験したのね……」
わたしは、幼い子供のころのリーシンに向かって話すように、優しく言った。つと、わたしの頬に涙が伝った。
「目の前で大事な人が死んでしまうのを見ることは、とてもつらかったと思うわ。そして、そのことは、あなたのその後の人生に大きな影響を及ぼした」
リーシンは、ゆっくりと体を起こし、わたしのほうに向き直った。その深い瞳の色は、澄んだ夜空のようだった。
「おれのために、泣いてくれているのか……?」
そう言った彼に、わたしは首を横に振った。
「これは、あなたの痛みに共感しただけ。こんなことで、あなたのつらい経験をわかったみたいな顔はできないわ」
その言葉に、リーシンは、はっと胸を突かれたような顔をした。しかし、すぐになにかを思い出したかのように、視線を下に向けた。
「あなたはきっと、なにかを変えるきっかけが欲しかったのね。この国を変えていくための、そういうなにか。それがたまたま、今回のわたしとの婚約だった」
リーシンは黙っていた。肯定も否定もそこにはない。
ただ、すっと一度だけ目を閉じてから、こちらを見た。
「メイリン」
再び口を開いた彼は、もういつもの彼だった。
否、いつものそれよりも幾分冷めていた。
「おれは、もうインホンのような死を見たくない。この国にはびこる、不幸の連鎖を断ち切りたい。婚約のことは、そのことと直接関わりがあるわけではないが、王家の古い因習を変えるための布石を打った行為ではある」
その言い方は、どこか他人のことを話しているかのようで、わたしは少し訝しく思った。
「おれの勝手な行為で、お前には随分迷惑をかけた。お前にはお前の意志がある。そのことを、おれはちっとも考えていなかった。国を立ち直らせようとしている王が、一人の女の想いも汲み取れないようでは、先が思い遣られる」
どこか突き放すような言い方だった。リーシンは、視線をわたしからはずした。
「婚儀の日取りが決まった」
わたしはその言葉に、はっとした。
「賭けは、その前日を期限とする。それまでに、お前は自分の身の処遇を考えろ。結婚を断ったとしても、お前のことは悪いようにはしない。もちろん家族や親類縁者のことに関しても」
過去の話をしていたリーシンとは、まるで別の人物になってしまったようだった。その言い方は、どこか他人行儀に過ぎる。
「断っても構わない。おれはお前の意見を尊重する」
冷たくそう言い放つ彼の真意が、わたしにはわからなかった。
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