第四章 それぞれの想い7
夜が更け、辺りに静けさが満ちてきたころだった。
宿の入り口付近が、突如として騒然とし始めた。おれはそれにはっと気づき、部屋を出て宿の入り口のほうへと駆けていった。
するとそこに、信じられない光景が展開されていた。
――インホン!
おれは叫んで、近くまで駆け寄っていった。周囲に何人もの人がいることにもか構わず、おれはインホンにすがりつくようにした。
――インホン、インホン、インホン! しっかりしろ!
インホンは、血まみれの姿で倒れていた。背中に大きな傷を受け、瀕死の重傷を負っていた。
しかし、まだ生きていた。
生きて、微かな笑顔をおれに向けていた。
――……しくじった。ここまで、死ぬ気で逃げてきたが、……もう駄目だ。
――誰か医者を! 医者を早く呼んできてくれ!
必死に叫ぶおれをよそに、インホンは言葉を続けていた。
――……おれのことは、いい。ただ、お前に伝えたいことが、ある。耳を、近くに……。
おれは戸惑ったが、微かな声で話すインホンの声を聞き漏らすまいと、言うとおりにインホンの口元に耳を寄せた。
――お前は、死んでしまった、おれの、息子に、どこか似ていた……。だから、つい、お前に声を、かけてしまった……。
インホンの声は、呼吸をするにも苦しそうで、聞いているのがつらかった。しかし、おれは耳をインホンの口元から離さなかった。その声を、胸に刻み込むようにして聞いていた。
――……お前は、もしかすると、王都で、兵士たちが捜していた、人物なのかも、しれない。
おれは、はっとした。インホンは、知っていたのだ。おれが行方不明となった王太子だということを。しかし、インホンはそれをおれに問い糾すようなことはしなかった。本当は、きっとおれの存在が邪魔だったはずなのに、王太子を連れていることがばれたら、大変なことになることはわかっていたはずなのに、彼はそんなことを露ともおれに思わせなかった。
――だが、おれは、お前がもしその人物でも、そうでなくても、よかった。おれは、お前に、この国を見せてやろうと、思った。おれが、どうやって、この国で生きているのかを、見せたいと、思った。お前が、おれについてきたいと言ったとき、どうしてだか……そう、思ったんだ。
おれは、かすれて聞こえにくくなっていくインホンの声を、一生懸命聞いていた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら。
――……リーシン。
インホンは、わずかに残った力で、おれのほうに手を伸ばしてきた。そして、おれは恐る恐るその手を取った。その手は大きくごつごつとしていて、だが、とても温かだった。
――もし叶うなら、おれは、お前ともっと、旅が、してみたかった。もっと、綺麗なものを、見せてやりたかった……。
――インホン、インホン……ッ。
――これからは、お前の、時代だ……。生きにくい、世の中だが、お前は、そこで……生きていく。だから……。
――インホン!
ぎゅっと、インホンの手がおれの手を一瞬強く握った。
――どうか、いい、生き方を……。幸せに、生きるんだ……。
インホンはそう言うと、ふっと目を閉じた。おれの手を握っていたその手の先から、抜けるように力が消えていくのがわかった。
おれはそれに気づくと、はっとしてインホンの肩を揺すった。
――インホン? インホン!
インホンはそれきり、なにも言葉を発しなかった。どんなに揺すって呼びかけても、もうインホンがそれに答えてくれることはなかった。
おれは、辺り構わず泣いた。
インホンの死に、慟哭した。
そして、インホンの死から数日後、おれは王都へと戻っていった。
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