第四章 それぞれの想い5

          *


 十歳になったある日、おれは、密かに王宮から脱出する計画を立てた。ある日の夜更け、おれはそれを実行に移すことにした。おれはまず、部屋の前で番をする侍従たちの目をかいくぐるために、部屋の床下に穴を開け、そこから外へと飛び出した。広い王宮内を移動するのはなかなか大変だったが、事前に準備していたこともあり、どうにか厳重な警備をかいくぐって、王宮の門の外に出ることが叶った。かなり気力も体力も消耗したが、念願の外に出ることができたおれは、喜びいさんで外の町へと繰り出していった。


 さすがに夜が明けるまでは、あまり動くこともできなかったが、夜が明けると、さっそくおれは町中を歩いた。そして、おれはその世界のすべてに衝撃を受けていた。町には、様々な人間が溢れていた。宮中で見るような、かしこまった格好の人間はほとんどいなかった。みな、そこでは大声で笑い合ったり、たあいもないおしゃべりをしていた。とても自由だった。誰もが時間や規則に制約されず、それぞれがそれぞれの生き方を謳歌しているように、おれには見えた。


 おれは町を歩くことが楽しかった。誰もおれが王太子であるなんて、思っていない。おれのことを知らない。そういう世界があることを、初めて知った。


 お腹が空いたおれは、とある食堂に入っていった。しかし、王宮でなに不自由なく暮らしていたおれは、お金で食べ物を買う仕組みも知らなかった。なにも持たずにただで飯を食べようなんてと、食堂の女将に追い返されそうになった。とそこに、ある一人の人物がおれの横に立ってこう言った。


 ――この子になにか食べるものをやってくれ。金はおれが払う。


 おれは、きょとんとしていたが、その男はおれに笑いかけて言ったんだ。


 ――子供が腹を空かせているのを見るのは、忍びなくてな。


 その男は、中年の武人のようだった。髭はぼうぼうに生えて、顔は真っ黒だった。そんな見た目におれは一瞬躊躇したが、腹が減って仕方なかったこともあって、その男についていくことにした。


 ――随分腹が減っていたとみえる。なかなかいい食べっぷりだ。


 男は楽しげにおれのことを見つめていた。しかしその目は、どこか遠いところを見つめているようにも見えた。


 ――それにしても、よく見ればなかなか仕立ての良い上等な着物を着ているな。お前、どこから着たんだ? 親はどうした?


 そう訊かれた。かなり目立たない着物を着てきたつもりだったが、見るものが見れば、それは価値のあるものだとわかるらしい。おれはぎくりとして、結局その問いに答えることはしなかった。おれのそんな様子に、その男はそれきりなにも問うわなかった。その代わりに男は、自分の身の上話をし始めた。


 ――おれは昔、王宮に勤める兵士だった。それなりに腕には自信もあって、それは軍でも認められていた。仕事も真面目に取り組んで、それなりの功績もあげていた。だがあるとき、おれが王宮の御門の警備にあたっていたときに、暴徒が押し寄せてきたんだ。そこでふいうちを食らい、おれは左腕の腱を切る怪我をした。幸い暴徒の鎮圧はできたんだが、そのときの怪我で、おれは左腕をほとんど使えなくなった。そうなると、もう王宮の兵士としてはお払い箱さ。役に立たないんだからな。しかし、利き腕である右腕の剣の腕にはそれなりに自信があった。自然な流れで、町で傭兵とか用心棒のような仕事をするようになり、おれはそれを稼業として、日々の生計を立てることにしたんだ。


 確かに言われてみれば、男は左腕があまり使えないようだった。右手だけで食事をするその様子は、なかなか不便なように思えた。

 男の名は、インホンと言った。インホンは食事を終えると、早々に立ち去ろうとしたが、おれはそのあとをついていった。理由は、単純にその男に興味を抱いたからだった。

 今思えば、インホンはかなり迷惑に思っていたかもしれないが、おれがあとについてくることを、怒ることはしなかった。


 それから二日ほど、インホンは王都でも一番の辺境にある自分の家にいた。どこの馬の骨ともわからぬおれの面倒を、インホンは文句も言わずにみてくれた。おれは、町にふらりと出かけたりもしたが、そのときに王宮の兵士たちが町中を歩き回っているのを目にした。それで、それからは外にあまり出ないように気をつけることにした。


 その翌日、インホンは動いた。どこかに出かけるらしいインホンに、おれは勝手についていった。

 インホンはその日、行商人の護衛の仕事をすることになっていたらしい。それにおれもついていきたいと言うと、インホンは少しだけ困った様子を見せたが、連れていくことを了解してくれた。商人に頼んで馬車の隅に乗せてもらい、おれは王都をあとにして、別の村へと旅立っていった。兵士たちの見回っている王都から離れることは、おれにとっても都合がよかった。


 王宮の外は、おれが思っていた以上に広かった。草原の風に吹かれながら、どこまでも続く大地を、おれを乗せた馬車は進んでいった。

 インホンは不自由な左腕ながらも、そうとは感じさせない腕前で、馬を操っていた。


 行商人がまず立ち寄ったのは、貧しい村だった。そこは、王都から少し離れただけだというのに、寂れていて、田んぼと畑の他には、特にこれといったものはなかった。住んでいる農民も、痩せていて、身なりもぼろぼろだった。

 行商人がやってきたのを知った村人たちは、しかし明るい表情を見せていた。自分たちの畑では手に入らない塩や穀物を手にし、とても喜んでいた。


 おれは、そんな姿を見て、とても驚いていた。

 今まで当たり前に自分が口にしてきたものが、ここにいる村人にとってどれほど貴重なものだったのかを初めて知った。

 おれは、自分がどれだけ恵まれた生活をしていたのかを、そこでようやく理解したんだ。

 そして、愚かな自分を恥じた。

 世界を、自分の国のことをなにも知らぬ、無知な自分を恥じた。

 行商人は近くの村を転々とし、インホンはそれについて回った。おれがいることで、いろいろと不自由があったに違いないが、インホンはなにも言わなかった。ただ黙って、おれの世話をしてくれた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る