第三章 国に巣くう悪意3
部屋の中を行きつ戻りつしながら、わたしは彼がやってくるのを待っていた。
行燈の明かりが、わたしの動きに合わせて影を踊らせている。
落ち着かない。
わたしはこれから自分のしようとしていることに、自分自身で戸惑っていた。
そして、部屋の外からその足音が聞こえてくると、一層わたしの胸は高鳴り、同時に恐ろしさを感じていた。
部屋の戸が引かれ、長身のその影が姿を現した。
「メイリン。入るぞ」
日課と化した深夜の王の来訪は、しかし今日はいつもと心持ちが違っていた。
「どうぞ。奥へ」
わたしは緊張しながら、リーシンを部屋の奥へと招いた。
「こちらに座って」
わたしが彼に円座を勧めると、彼は意外そうな目をわたしに向けたが、そのままそこに座った。そしてわたしもその正面に座った。
「なんだ? 今日はまた、いつになくあらたまって。こんなふうに顔を向かい合わせて話をするのか?」
不思議そうに小首を傾げるリーシンに、わたしはつと視線を合わせた。そして、ひとつ息を吐き出すと、身を正してから言葉を発した。
「リーシン。今日はあなたに、聞いてもらいたいことがあるの」
王への言葉遣いは、二人きりのときだけは、敬語は禁止だった。それには内心まだ慣れない部分もあったが、彼の奔放な性格の影響や、わたし自身の心の変化が、それを手助けしていた。
「聞いてもらいたいこと?」
わたしはこくりとうなずく。リーシンは少しおもしろげに口角を上げると、顎を撫でてみせた。
「いいだろう。聞かせてくれ」
わたしはすっともう一度深呼吸をした。そして、リーシンの目を見て、話し始めた。
「わたしが生まれたのは、王都より少し離れた山あいの村だった。家はどこにでもあるような農家で、貧しくつましい暮らしだった。けれども家族はみな文句を言うこともなく、ささやかに暮らしていたわ」
村の風景が脳裏に浮かぶ。山あいの小さな村。人々は毎日畑を耕し、ただその日その日を一生懸命に生きていた。
「そんな村で育ったわたしは、当然両親と同じように、村で一生を過ごしていくんだと思っていた。けれどあるとき、わたしに転機が訪れたの」
リーシンは静かなまなざしでこちらを見つめている。その静けさに、わたしの心も不思議と落ち着きを取り戻していた。
「村を取り締まる役人が、村にあるとある一軒の家に押し入り、そこの主を、ある咎で殺害したの」
胸に冷たいものが広がった。恐ろしさと悲しみと怒りが、自分の身のうちによみがえり、苦しくなった。
「その咎とは、税金を納めず、財を家に隠したというものだった。けれど、そんなのはまったくのでたらめだった。隠し持っていた財産なんて、なにひとつその人の家からは見つからなかった。その役人のただの勘違いに過ぎなかったのよ。だけど、その役人がそこの主を殺したことは、結局なんの罪にも問われることはなかった」
リーシンは、まだ表情を変えなかった。ただ、ずっと真剣な顔をして、わたしを見ていた。
「わたしはその役人を恨み、憎んだ。その家に残された家族は、一家の大黒柱を失い、悲しみに暮れていた。けれど、なんの力も持たないわたしたちには、なにをどうすることもできなかった。ただ、こんな世の中に生まれたことを呪うしか、できることなんてなかった」
こんなことを王に向かって話しているということが、とても信じられなかった。けれど、胸の奥より沸き上がってくるなにかが、わたしを突き動かしていた。
「なにかを変えるには、力が必要だった。その力を得るには、村に籠もっているだけじゃ駄目だった。だからわたしは、王都で働く決意をしたの。王都で、そしてできることなら宮廷で働くことが、わたしの目標だった。できるかぎり稼いで、両親に楽をさせてあげたいという気持ちも、もちろんあったけれど、わたしはそれよりも国の中枢というものがどんなところなのか、見てみたいという気持ちが強かった」
罰せられるかもしれない。不敬罪の罪で。
けれどもう、それでも構わなかった。
誰かが言わなければいけない。わたしたちの暮らし。この国の現状。
それを変えていくには、大きな力が必要だ。
そして、目の前の彼には、その大きな力がある。
わたしはそれに、賭けてみたいと思った。
「わたしは王都に移り住み、宮廷料理人を目指し、猛勉強をした。その道は厳しく険しかったけれど、わたしは諦めなかった。そして、念願かなって、わたしは宮廷料理人としての職を得ることができたの」
今はもうその職から離れてしまったけれど。
「この国は今、傾きかけている。役人が民を虐げ、悪事を行っても、上はなにも咎めない。それは、賄賂が横行しているからよ。この王都や、この王宮は、とても美しく、豪華だけれど、そこから一歩離れた町や村は、とても貧しく、民は飢えに苦しんでいる」
わたしは唇を噛み締め、吐き出すようにして言った。
「それでは駄目なの! そんな、一部の人間だけが甘い汁を吸って、力なき民が虐げられる世の中は間違っている! こんな世の中が続けば、いつかこの国は駄目になるわ。わたしはそれを、あなたに知ってもらいたかった……っ」
わたしはぎゅっと目を閉じた。どんな罪に問われても仕方ない。一国の王にこんなことを言うなんて、とてつもなく恐れ多いこと。婚約を今すぐに解消され、断罪されてもおかしくなかった。
しばらく静かな時が流れた。
やがて、向かいから声が聞こえてきた。
「メイリン」
それは、思いがけないほどの優しい声だった。
「おれはきみのことを、誇りに思う」
わたしは、ゆっくりと目蓋を開けた。そして目の前の人物を見上げた。
「よく話してくれた。さぞ、勇気がいっただろうに」
優しげに笑う王の姿が、そこにあった。
張りつめていた糸が切れたかのように、緊張していた体中の筋肉がゆるゆると緩んでいくのがわかった。
「やはりおれの目に狂いはなかった」
その言葉の意味はよくわからなかったが、リーシンの瞳に怒りの色はなかった。どうやらわたしは、王の不興を買わずに済んだらしい。
「メイリンよ。おれの目は節穴ではない」
リーシンの言葉に、わたしは目をぱちくりとさせた。
「お前の言うように、この国が傾きかけていることはわかっている」
リーシンは泰然自若の構えを崩さない。なにか堂々とした気風さえ感じられる。
「それならなぜ……」
言いかけて、彼がなにか考えがあってそうしているのだということに思い至った。
「あせるな。気持ちは充分にわかる。おれだって、もうこの現状を耐えられなく思っているのだ」
「なにか、考えがあるのね? この国に取り憑いた病を治す方法があなたには……」
リーシンは黙ってうなずいて見せた。
わたしは胸の鼓動が高鳴るのを感じていた。この王は、馬鹿ではない。馬鹿なふうを装ってはいるけれど、そこにはなにか深い考えがあるのだ。
この王は、民のことを憂えることのできる人なのだ――。
そのことを知ったわたしは、胸の裡を塞いでいたなにかが、霧が晴れるように取り払われたような気分になった。
そして、レイメイさんが言っていた言葉を思い出していた。
――今度の王は、名君にも暗君にもなる要素を持っていると思う。
その言葉はたぶん間違いではなかった。そして、今それは前者のほうになるということを心の中で確信した。
きっとこの国は変わる。
リーシンが変えてくれる。
わたしは心の中に、明るい光を感じていた。
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