第三章 国に巣くう悪意2

 わたしは部屋で、先程のことを何度も思い返していた。

 フェイロンの熱っぽい目。

 強く握られた手の温もり。

 わたしのことを好きだと言った、彼の声。


 切なくて、涙が出そうだった。

 まさかフェイロンがわたしのことをそんなふうに思っていてくれたなんて、知らなかった。

 その気持ちは正直に、すごく嬉しい。

 けれど、わたしはまだ、自分がどうしたらいいかわからなかった。






 フェイロンは、昔から優しい少年だった。

 野山を駆け回って遊ぶ活発な少年だったが、親思いで、家の仕事を幼いころから一生懸命手伝っていた。

 彼には少し歳の離れた妹が一人いたが、その子の面倒をよくみていた。わたしや村の友達と遊ぶようなときでも、いつもその妹をおんぶしていたことを思い出す。

 それからある年のこと、村でとある事件が発生した。そのことは、人々にたくさんの悲しみをもたらし、特にフェイロンにとっては、一生癒えない傷となってしまった。


 そのことを思い出すことは、わたしにとってもつらいことだった。これまであえてあまり思い出さないようにしてきたが、きっとフェイロンはもっとずっとつらい思いを今まで抱えて生きてきたのに違いない。

 普段は明るく優しい少年だが、その笑顔の裏には深い悲しみが刻み込まれているのだ。そのことを思うと、わたしはいつも胸が張り裂けそうになる。

 そんなフェイロンがわたしと同じように、王宮で働く道を目指していたのを知ったのは、わたしが王都に住みだして半年が過ぎたころのことだった。


 ――メイリン。

 町でそう声をかけられ、わたしは突然のことに驚いた。

 そちらを振り向いて、そこに懐かしい顔をみとめたとき、とても嬉しかったことを覚えている。

 フェイロンは、そこで誰かを捜していたらしかった。そして、その人物が王宮に勤めていることを知り、自分もそこで働くことを目指すことにしたのだという。


 そうしてまた月日が流れ、わたしたちが二人とも、念願かなって王宮の勤め人となれたことを知ったときは、二人で祝杯をあげた。これからそれぞれ頑張っていこうと、二人で誓ったのだった。

 そんなことをつらつらと思い出していたときだった。


「メイリン様。シェンインでございます。入ってもよろしいでしょうか?」


 戸の向こうからそんな声が聞こえてきた。


「いいわよ。どうぞ、入って」


 シェンインの声に、わたしは現実に戻った。頭の中からフェイロンの顔を追い出す。

 入室してきたシェンインのほうに目をやると、その手には綺麗な黄色い花の束があった。


「小菊をお持ちしました。メイリン様の部屋の花瓶に生けようかと思いまして」


 シェンインはそう言うと、窓際に向かった。置いてあった花瓶に、小菊とともに持ってきていた水差しから水を入れ、そこに小菊を差していった。


「綺麗ね」


 シェンインの心遣いに心打たれながら、わたしは花に見とれていた。

 荒んだわたしの心に、色鮮やかな小菊の黄色がしばし癒しを与えてくれる。


「ねえ。シェンイン。あなた、恋をしたことがある……?」


 ふいに、そんな言葉が口を突いて飛び出した。シェンインはその質問に驚いて、少しだけうろたえたようなそぶりを見せたが、にこりと笑って、わたしの前で座った。


「ええ。まあ、ほんの少しだけですけれど。どうされたんですか? 急にそんなことをお訊ねになるなんて」


 もちろん先程のことを正直に言うわけにはいかない。わたしは少し考えながら、それを話し出した。


「実はわたし、本当の恋というのがどんなものなのか、よく知らないの。だから、それがどんなものなのか、教えてもらいたくて」


「恋……ですか」


「うん。駄目かしら?」


「いえ。そんなことは。ただ、少し長くなりますが、よろしいでしょうか?」


「いいわ。聞かせてくれる?」


 わたしがそう言うと、シェンインは「わかりました」と、一度深呼吸をした。そして少し間を置くと、彼女は落ち着いた声で話し始めた。


「恋をするということは、とても幸せなことであり、同時にとても苦しいことでもあります」


 わたしは、シェンインの顔を見つめた。


「わたしが生まれたのは、王都からずっと離れたところにある小さな村でした。そこでは村人全員が農民として暮らしていて、わたしも家族とともに、日々、野良仕事に励んでいました。家族は多く、それは楽しいことでもあったのですが、家計はいつも火の車で、とても苦しい生活でした」


 シェンインの生い立ちは、どこの村でもあるものだった。先王の治世に育ったわたしも、家は貧しく、贅沢とは無縁の生活だった。


「長女だったわたしは、まだ幼い弟や妹たちのため、懸命に畑仕事に精を出していました。しかし、どんなに頑張っても、暮らしはよくなるばかりか、余計に苦しくなるばかりでした。そんなある年、大干ばつがわたしの村を襲いました。作物は実らず、食べていくこともままならないほどの状態で、わたしたち家族はそれこそ一家心中さえ考えるほどでした。しかし、役人は税の取り立てを待ってはくれません。わずかの自分たちの食べるぶんの米や作物も、村の役人に容赦なく奪われていきました」


 シェンインの目に暗い影が落ちていた。彼女の身にそれほどつらいことがあったということを初めて知り、心が苦しくなった。


「もう死ぬより仕方がない。家族全員がそう思っていたそのとき、わたしの家にとある人物がやってきたのです。その人は王宮に勤める官吏で、たまたまわたしの村の辺りを視察に回ってきたところだったそうです」


 その人のことを口に出したとき、シェンインの表情がはっとするほど美しく輝いた。わたしはどきりとして、そんな彼女を見つめた。


「まだそのころ十代半ばだったわたしにとって、その人は随分大人に見えました。けれどもその立派な身なりや堂々とした態度に、わたしはあこがれのようなものを感じました」


 それはきっと、今のわたしとそう違わない年頃のことだろう。彼女にとって、その出会いは特別なものだったに違いない。


「その人は、村の悲惨な現状を目の当たりにし、驚きを隠せない様子でした。そして村を管理する役人に、無理な税の取り立てをやめるよう申し入れてくれました。そして、その後も何度もわたしの村に通い、自らの資産を切り崩して、わたしの村の人々に食べ物を分け与えてくれたのです」


 なんて尊い心の持ち主だろう。わたしはそれを聞き、素直に感動した。


「その人は、わたしたち家族のこともとても心配してくれ、わたしにあるひとつの提案を示してくれました。それは、王宮の登用試験を受けるというものでした」


 それが今のシェンインの、女官への道の始まりだったのだ。わたしは、彼女のその官吏との運命的な出会いに感動を覚えた。


「王宮の登用試験は大変厳しいものであることは、わたしも家族も知っていました。それに、それなりの教養などもなければ試験を受けることさえできませんでした。最初に聞いたときは、わたしもそれは無謀な挑戦だと思いました。けれど、その人はそれを無理だとは言わなかった。そして、自らわたしの先生となってくださったんです。その甲斐あって、わたしは見事登用試験に合格し、王宮で働くことができるようになったのです」


「すごい人ね。そして、あなたもすごい。難しい試験をとうとう二人でやり遂げたのね」


 わたしがそう言うと、シェンインは嬉しそうな笑みを浮かべた。


「はい。わたしはそのかたのおかげで、こうして王宮女官として働けるようになり、村の家族へ給金を仕送りができるようになりました。そのかたは、わたしやわたしの家族の恩人なのです」


「もしかして、シェンインはその人のことを……?」


 そう訊ねると、彼女はほのかに頬を染めてうなずいた。


「はい。わたしはそのかたに恋をしておりました。官位のある殿方に、わたしのようなものが恋心を持つなど、きっと許されないことだったのでしょうけれど、それは確かにわたしの身のうちにありました。そのかたのことを思うと毎日胸が高鳴り、色褪せていた世界に、まばゆい光が差したように、世界が明るくなりました」


 シェンインは幸せそうに表情を輝かせた。しかしそれは長く続くことはなく、すぐに暗いものに変わってしまった。


「わたしは王宮に勤めていれば、いつかそのかたと、王宮内のどこかでお会いすることができると思っていました。けれど、そんな機会が訪れることは永久に来なかったのです」


「それはどうして……?」


 目を伏せるようにしたシェンインに、わたしは恐る恐る訊ねた。


「そのかたは、わたしの村のことを国に上申したことで、わたしの村を上官に断りもなく助けていたことがばれ、裁きに合っていたのです。そして、その結果、官位を剥奪され、遠いところに島流しにされたということです」


 それを聞いて、わたしは絶句した。

 酷い。そんなのは、あんまりだ。

 わたしはそんな酷い処分を下した国のやり方に、怒りに似た感情を覚えていた。


「それは酷いわ。民の暮らしを憂い、現状を良くしようとした心ある官吏が、そんなふうに裁かれるなんて。そんな国のあり方は、どこか間違っている」


 わたしのその言葉に、シェンインは顔を上げた。なにか驚いたような表情を浮かべている。


「それは先王の時代のことね。今、新王が即位し、この国は過渡期を迎えている。この国は、そろそろ方向を変えていかなければいけないわ」


 わたしはそのとき、自分の中のなにかが変わったような気がした。

 今のこの国の王は、わたしの婚約者であるリーシンだ。

 わたしは、彼に対面し、話す機会を与えられている。

 これは、なにかの天啓ではないだろうか。

 今わたしがやらなければならないことは、もしかすると、それなのかもしれない。

 わたしは自分の胸の鼓動が速くなるのを、押さえられなかった。

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