第三章 国に巣くう悪意1
わたしがもとの生活に戻るには、王であるリーシンに惚れさえしなければいい。
昨夜の王との賭けは、賭けとも言えないようなものだった。
わたしは王妃になどなりたくない。
王と結婚などしたくない。
たったひと月の間で、そう簡単に人の気持ちは変えられない。それがわかりきっているというのに、わたしがリーシンに惚れるなんてありえない。
この賭けはわたしの勝ちで決まりだ。
けれど、ひと月の間は王妃のお試し期間として、後宮で生活しなければいけない。気持ちは一刻も早くここから立ち去りたかったが、約束は約束だ。
リーシンとの賭けが終わるまでは、ここで我慢して生活するより仕方なかった。
今日もシェンインがわたしの身支度を手伝い、礼儀作法についての講義をしていった。午後になり、しばしの休息をわたしが取っていたときだった。
コンコンと、床下からなにかが響く音が聞こえてきた。
気のせいかと思っていたが、やはり何度もそれは聞こえてくる。
どうやらこれは、気のせいではないようだ。
わたしは試しにこちらからコンコンと床を叩いてみた。すると、それに答えるかのようにコンコンと音が返ってくる。何度試しても、それは返事をするかのように返ってきた。
誰かがこの下にいる――?
わたしはその事実に驚き、少し恐ろしく感じたが、確かめてみようと思った。
わたしは外に出て、庭先に下りると、わたしの部屋の床下を恐る恐るのぞきこんだ。
「――っ!」
わたしは驚いて、息を呑んだ。
そこにいたのは、あまりに意外な人物だったからだ。
そろりとそこから現れたのは、なんとここにいるはずのない人物、フェイロンだった。
「フェ、フェイロン? どうしてあなたがここに……」
わたしが慌てふためくように言うと、フェイロンはしっ、と人差し指を自分の唇に当てた。
「静かに。誰かに見つかったら、ただでは済まない」
フェイロンは周りを見渡したかと思うと、わたしの手を引っ張って、床下へとわたしを連れ込んだ。
「フェイロン。あなた、どうしてこんなところに?」
わたしは小声になって言った。
「メイリンを助けに来たんだよ」
その言葉に、わたしは驚愕の表情を浮かべた。
「嘘! どうしてそんな危険なことを……。わかっているでしょう? ここは後宮で、男子禁制の場所。どうやって入ってこられたのか知らないけど、見つかったらきっと大変なことになるわ」
「そんなことはわかっている。だけど、メイリンのことが心配で、居ても立ってもいられなかったんだ」
そんなフェイロンの言葉に、心臓がどきりと脈打った。
「それにしても……」
フェイロンはそう言ったかと思うと、ちらりと視線をわたしから逸らした。
「フェイロン? どうしたの?」
フェイロンのその態度を疑問に思ったわたしは、そう質問した。
「いや。あんまりその、綺麗になってて……びっくりしてさ」
それを聞いて、わたしは思わず赤面した。
「あ。そうか。そうよね。こんな格好してるから、なんかいつもと違って変だよね」
「いや、変じゃないけど、なんだか別人みたいで……。さっき見たときは、本当のお姫様かと思ったよ」
照れたようにフェイロンは言った。
「……でも、衣装や身なりは綺麗になっても、やっぱりわたしはわたしよ。こんなのは本当のわたしじゃない。早く宮廷料理人に戻りたい……」
わたしがそう言うと、フェイロンは視線をこちらに戻した。
「そう思っていると思ったよ。だから、ぼくはこうしてきみを助けにきたんだ」
そのフェイロンの言葉は、とてもありがたかった。昨日だったら、わたしは喜んで彼とともにここから逃げただろう。
しかし、昨日と今とでは、状況が大きく変わっていた。
「フェイロン。ありがとう。わたしを助けにきてくれたこと、すごく嬉しかった」
「うん。だから、早くここから逃げよう。誰かに見つかる前に」
フェイロンはそう言ってきたが、わたしは首を横に振った。
「メイリン……?」
不思議そうな顔をするフェイロンに、わたしはこう言った。
「わたし、今はここから逃げない。逃げるわけにはいかないの」
フェイロンは驚いたように言った。
「なにを言ってるんだよ。このまま本当に王妃としてここで暮らしていくつもりなのか? この暮らしに目がくらんだのか?」
「違う。そういうんじゃないの。ただ、昨日王様とある賭けをしたから、その結果が出るまでは、ここから逃げるわけにはいかないの」
「賭け……? なんだよそれ」
「えっとね……」
言いかけて、わたしは途中で口ごもった。
わたしがリーシンに惚れたら、王妃になる。そんなことはありえないとわかっているはずなのに、なぜだかそれを言うことははばかられた。
「と、とにかく、その賭けが終わるまでは、ここから離れるわけにはいかないわ。でも、その賭けに勝てば、わたしは自由の身になれるはずなの。だから、心配しないで」
「メイリン……」
フェイロンは、不安そうに眉を寄せた。そんな彼の様子に、わたしは心が痛んだ。
フェイロンはわたしを心配して、相当な危険をおかしてここまで来てくれたのだ。そんな彼のことをこのまま追い返すことは非常に忍びなかった。
「ごめんね。フェイロン。でも、本当に絶対わたしはもとの生活に戻るから。わたしは王妃になんてならない。ううん。なれるわけがないんだから」
フェイロンは、悲しい顔をしていた。
ここまでわたしのことを心配してやってきてくれた彼の気持ちを踏みにじるようで、わたしは胸が苦しくなった。
「さあ。見つからないうちにここから出ていかないと。そのうちに誰かがやってきてしまうわ」
わたしはそう言って、彼の腕をそっと押した。
すると、フェイロンはすっと彼の腕を押したわたしのその手に、自分の手を重ねてきた。
「メイリン」
そうつぶやくように言った彼の目は、とても真剣だった。それは、今までに見たこともないくらいに、熱いものに見えた。
「ぼくは、きみに結婚してほしくない。王妃になんて、絶対なってもらいたくない」
フェイロンは、ぎゅっとわたしの手を握り締めてきた。
「ぼくがなにを言いたいか、わかってくれるだろう……?」
鼓動が速くなった。フェイロンの熱っぽい目がこちらを見ている。
わたしは恥ずかしくなって、顔を下に俯けた。
「メイリン。ぼくはずっときみのことが……」
フェイロンが、握っていたわたしの手をさらに強く握った。彼の体温が、わたしに直接伝わってくる。
「フェイロン……!」
わたしはどうしたらいいかわからず、フェイロンの体をどんと押した。それとともに、フェイロンの手がわたしの手から離れた。
「メイリン……」
傷ついたようなフェイロンの目が、こちらを見ていた。それを見て、わたしの胸にずきりと痛みが走る。
「ごめんなさい……。わたし、今はまだ、どうしたらいいか……」
そう言うと、フェイロンはすっとわたしから距離を取った。
「……いいんだ。だけど、ぼくの気持ちは変わらない」
フェイロンが、悲しげにそれを言う。
「ぼくはずっと、きみのことが好きだった」
にこりと、床下の影のなか、フェイロンは笑った。そして、そのままそこから出ていくと、周囲に視線を走らせ、さっと駆けていった。
わたしは床下から出ると、フェイロンの走り去っていった先に目を向けた。
もうそこに、彼の姿は見つからなかった。
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