第一章 王との対面1
宮廷の厨房は、朝から忙しい。
「メイリン! 鍋噴きこぼれてる!」
「はい!」
「そっち終わったら、前菜の盛りつけ!」
「はいー!」
さながらここは、戦場だ。
宮廷料理人の女官たちが、その日の料理をあちこちで調理している。そこここで湯気があがり、包丁でまな板を叩く音が、厨房の天井に鳴り響いていた。
宮廷の厨房は広く、三十名もの宮廷料理人がそこで王族たちの食事を用意していた。
わたしは今年、その宮廷料理人となった一人だった。
わたしは慌ただしくスープを火からおろし、鍋をかき回して具合を確かめた。幸い、底の具材が焦げたりなどはしていないようだ。
その後、教育係の上司であるレイメイさんのところに行き、すぐに前菜の盛りつけを手伝った。
調理された色とりどりの野菜やら旬の食材が、美しい器に繊細に盛りつけられていく。
そのひとつひとつが、高貴なる人々のために用意されていた。
わたしは、見習いのころに鍛えられた技を駆使し、レイメイさんの指導に必死でついていっていた。
ここで使われるすべての食材は、よく吟味され、選び抜かれたものだけが使用されている。そのなかには、庶民が一生あっても口にできないような高級食材もあり、それが宮廷の厨房では日常的に使われていた。
そして、そこで働く宮廷料理人もまた、選ばれてここで働いている。そんな宮廷料理人という職業は、身分としてはさほど高いわけではないが、宮廷の外の庶民の給金と比べたら、破格の給金がその職には支払われている。宮廷料理人の家族は、その給金でかなり楽な暮らしが与えられることになるのだ。
しかし、当然のことながら、その職への人気は高く、実際に宮廷料理人となれるのは、本当に一握りの人間だけだった。
そんな狭き門をくぐり抜け、めでたく宮廷料理人となったわたしだったが、まだまだその道は厳しいもので、毎日が修行の日々だった。
「さあ。そろそろ、定刻が近づいている! それぞれできたものから膳に乗せなさ
い!」
料理長であるロウシュンさんが言った。その言葉に、そこにいた料理人たちが慌ただしく動き回る。
そしてようやくできあがった膳を、今度は厨房の入り口で待っていた給仕役の女官たちが運び出した。
それを見てほっとしたのも束の間、そこで問題が発生した。
「あら、膳がひとつだけ残っているわ。今日は給仕の誰かが休みだったのかしら」
それを聞いたレイメイさんは、次の瞬間驚きの言葉を口にした。
「それなら、そのひとつをこのメイリンに持たせましょう」
「え?」
わたしは驚いてレイメイさんの顔を見た。
「王様に対面できる滅多にない好機よ。なかなかそんなことないから、一度見てくるといいわ」
レイメイさんはいたずらっぽくわたしに片目を瞑ってみせ、その背を押した。
わけのわからないまま、料理長のロウシュンさんの前に立たされ、わたしは目を瞬いた。
「そうね。どんな方たちがわたしたちの料理を召し上がっているのか。その目で見ておくのも、新人のあなたには勉強になるかもしれない」
ロウシュンさんはそう言うと、わたしに膳を渡した。
「急いで。先の給仕たちについていきなさい!」
「え? えええ?」
あれよあれよという間に追い立てられ、わたしは先を歩いている給仕の女官の後方につかされていた。
えええ? わたしが王様にお目通りを? しかもこんな突然に!
わたしは急激におりてきた緊張に、身を強張らせた。
王様に拝謁できるのは、通常宮廷でも高官にあたるものたちや、王妃や皇太后他、血縁関係の近い王族たちだけだった。宮廷料理人のうちで普段お目通りが許されているのは、基本的には料理長だけである。それ以外には、こうした給仕の女官が膳を運ぶ際に王様の近くまでいけることもあるが、基本余程のことがなければ宮廷で働いていても、自分のような下っ端の料理人には王様を拝謁するような機会はなかった。
それが突然降って湧いたように、その機会がやってきたのだ。
いやがおうにも緊張は高まるばかりだった。
長い回廊を女官たちについていくことしばらく、目の前に、王族たちが食事をするという広間のある建物が見えてきた。
その手前の小部屋に、女官たちは続々と入っていく。わたしも最後尾でそこに入っていった。
「よし。行っていいぞ」
そこにいた小姓が、前方にいた女官に言うと、その女官は膳を持って奥の広間のほうへと入っていった。
そこではどうやら、毒味を行っているようで、三人の小姓たちが各膳の食事に箸を伸ばし、一品一品食べて確かめていた。
毒など入っているわけがないことは、作った自分自身がよくわかっている。けれど、やはりそういうことも王家では必要なことなのだろう。おとなしくその毒味の列に加わった。
「異常なし。行っていいぞ」
そう許可が出され、前の女官に続いてその奥の広間のほうへとわたしは足を踏み入れていく。
一歩そこに入った瞬間、その壮麗な雰囲気にわたしは圧倒された。
広間の中は美しく装飾の施された調度品が脇に並んでおり、壁や天井の意匠も凝っていた。そしてその正面には、王族の人たちが一段高い場所に座って並んでいた。いずれもひと目見て高貴な人たちだとわかる服装をしていて、とても煌びやかだった。
右端には王の母であるという皇太后様、左端には丞相らしき人が座っており、その中心にこの場で一番高貴であろう人物が座していた。
それが、この国の王、リーシンその人であるらしい。
その姿をひと目見て、わたしは驚いた。
その姿が、想像していたものよりも、もっと立派で、美しいものだったからだ。
目は切れ長で、少し怖そうにも思えたが、その奥にある瞳は澄んで見えた。鼻筋は通っており、きりりと結ばれた唇には力強さもうかがえた。長く伸ばした黒髪を後ろで束ねておろし、豪華な刺繍をあしらった紫色の衣装を自然に着こなしている。
歳はつい先日二十歳になったばかりだというが、すでにそこには王の品格が備わっているように、わたしには思えた。
女官たちは次々に王の前に跪き、膳をその前まで運んでいった。三人の貴人たちには多すぎるほどの料理がそこに並べられていく。
ついに、自分の順番がやってきた。
わたしは緊張のあまり、なかなか前に進むことができなかったが、どうにか王の前まで行き、跪いて頭を床につけた。そうして立ちあがり、頭をさげたまま、しずしずと王の前へと進み、膳を差しだそうとした。
そのときだった。
緊張のあまり、わたしは足をもつれさせた。まずいと思い、体勢を立て直そうとばっと頭を上げたのがまずかった。
反動で、持っていた膳が一瞬ふわりと宙に浮いた。
そして、そこに乗っていた料理の数々も宙に浮いた。
わたしは驚愕に目を見開き、その光景を見ていた。
その光景の奥には、切れ長の黒い目があり、その一瞬、目があった。
長い一瞬のあと、ガシャガシャーンという、盛大な音が辺りに鳴り響いた。
「何事だ!」
音を聞きつけた入り口の近衛兵が、広間に入ってきた。近くにいた小姓らも、中をのぞいている。
わたしは、己のやらかした失態に、全身の血の気がさっとひいた。
「無礼者! 王様の御前でなんということを!」
「なんとめぐるしい! 早くこの女官を下げさせなさい!」
丞相と皇太后が、口々にそう叫んでいた。わたしは並んでいた膳の手前ですっころんだまま、なかなか動けずにいた。
もう駄目だ。斬り殺されるかもしれない。王の御前でこんな失態を演じてしまうなんて。せっかく宮廷料理人となれたのに、それも一瞬の夢と消えてしまった。
あまりのことに、茫然自失となっていたわたしに、意外な声が降ってきたのは、そのときだった。
「ぶわっはっはっはっは!」
その大きな笑い声は、広間中に響き渡っていた。
「お、王様……?」
「これは傑作だ。実に見事な転びっぷりだったぞ。女官」
わたしは、そのときになってようやく身を起こした。そして上を見上げると、さも愉快そうに笑う王の姿が見えた。
「王様。笑っている場合ではありません。これでは料理が台無しではないですか」
そう話す丞相に、王はかまうことなく言った。
「なに。全部がひっくり返ったわけでもなし。それに、落ちたものは拾えば済む。別におれはこのままでも食べられるぞ」
王はそう言うと、膳から落ちた饅頭を手で掴んでかじった。
「リーシン。なんとはしたない」
「また母上は細かいことにうるさいな。腹に入ればなんでも同じではないか」
「まあ。王ともあろうものが……」
そんなやりとりを聞いているうちに、わたしは後ろから両腕を掴まれた。
「女官。こちらに来てもらうぞ」
先程広間に入ってきた近衛兵たちだった。
わたしはぞっと恐怖に身を強張らせた。両脇を二人の兵士に固められ、連行されていく。このあと裁きをくだされ、罰せられるのだろう。斬り殺されるまではいかないかもしれないが、きっともう宮廷料理人の職からは、はずされる。大きな期待とともに送り出してくれた両親には、とても顔向けができない。
わたしは絶望に頭を俯けた。
「おい。ちょっと待て」
それは、どうやらわたしを連れていこうとしている兵士たちに向けられた言葉のようだった。
「はっ。なにか」
「なにか、じゃない。その女官をどこに連れていくつもりだ」
しゃべっているのは王だった。なにやら神妙な面持ちでこちらを見つめている。
「はっ。このものは、王様の御前で大変な失礼を犯しました。これからその罪に対する裁きをするために、役所に連れて行くところでございます」
兵士の言葉に、王は少しの間考えるようにしてから言った。
「まあ、失礼なことをしたのは確かだが、先程のことは予期せぬ事故であろう。その娘に悪意はないはずだ」
「王様」
咎めようとする丞相の言葉を聞く前に、王は言った。
「このおれがその罪を免じてやる。だからその娘を解放しろ」
「リーシン」
皇太后も息子を厳しくいさめようとしていたが、それにも王はかまわなかった。
「早くせよ!」
王がそう声を荒げると、わたしの両脇を掴んでいた兵士たちが、その手を離した。
この事態に驚いたわたしは、呆然と王の姿を見つめていた。
「娘。名はなんと申す」
そう問われ、頭が真っ白と化していたわたしは、そこに突っ立ったまま、答えていた。
「……メイリンと言います」
高貴な身分の人に対して立ったまま、ましてや王と普通に口を聞くなど、あってはならぬことだった。すぐにひれ伏してわびなければならなかったが、頭が真っ白のわたしには、そのときそれをするという行動に思い至れなかった。
すぐに叱責され、その場から退去させられたが、広間からは大きな笑い声が聞こえてきていた。
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