第4話 忙しない分度器
ある時、僕は渚に呼び出され、古びた居酒屋を訪れた。
木製の壁のところどころに悪魔が入り込めそうな隙間のある、歴史ある造りだった。すっかり日も落ちて真っ暗な夜。いまにも雪が降りそうなほど空気は凍り付いていて、それに呼応するかのように行き交う人々の表情も冷めきっている。
僕はその居酒屋の入口までやってきて躊躇う。渚が僕を呼び出した理由をふと思い出す。それは彼氏に一度会ってほしい、という極めて利己的なものだった。僕は吐き気がした。それでもどういう訳か断ることはしなかった。その瞬間ほど、僕が反動によって生きている人間である事実を思い知らされたことはない。
入口のすぐ傍の側溝に、白濁した液体が蒸発した跡がくっきりと残っている。きっと、客の
靴を入れる下駄箱が並んでいる。適当に空いている正方形に
その瞬間だった。
「そうそう、だから拓斗ってさ、いっつもうじうじしててキモくって。一緒にいるのが耐えられないんだよね、マジな話!」
「なんでそんな奴と関わってんだよ。そんなどうしようもねえ奴、ほっとけよいい加減」
「まあ、やろうと思えば一瞬で絶交できるけど……っていうか、あんなのとっとと死んでくれた方が嬉しいんだよね」
僕は耳を疑った。下駄箱まで届いたその甘く、軽く、高い声が渚のものだと理解したからだ。おそらく、渚は彼氏とすでに入口にほど近い座席を陣取っていて、僕に対する悪評を
あんなの。死んでくれた方が嬉しい。
渚から発せられた嘘偽りないその言葉たちが僕を支配する。その支配はとてつもなく僕をがんじがらめにした。それゆえに、下駄箱の傍から一歩も足を踏み出すことが出来ない。僕はまた一つ、別の世界を潜ったんだ。咄嗟にそんな気がした。先程、側溝で見た吐瀉物の跡が記憶として甦ってきて、吐き気が増してきた。
冷たい下駄箱を背にして、僕はその場に座り込んだ。
渚の一言は、確実に僕の内側を破壊した。木っ端微塵、と言い表した方が適切に思えるほどに。後に、恐怖が襲ってきて、それはすぐに憎悪の波に掻き消された。僕はこのままこののれんを潜るべきだろうか、と考える。安物の乾いた笑顔を張り付けて、二人の前に姿を現すことが果たして正しいのかどうか、気が狂った僕には判別がつかなかった。
奥から再び、渚とその彼氏の楽し気な会話が聞こえてくる。実に陽気で、呑気な声の応酬だ。
それでも、その渚の声の高さとは裏腹に、本当は僕のことを殺したいって思っているんだろう? その疑いが纏わりついて、僕は金縛りにかかった時のように筋一本さえ動かなくなる。急に、
「そんなに嫌いなやつなんだったら、いっそのこと俺が殺してやろうか?」
「それだと、あんたが殺人犯になっちゃうじゃん。そんなことしなくても、いずれどっかで消えるでしょ。拓斗って、そういう類の人種だし」
耳を塞ぎたかった。けれど、その悪意に満ちた会話がしっかりと内耳の
渚とこれからどう向き合えばいいのだろうか。僕には全く分からなかった。ただ、のれんの奥から到着する、彼女の甘く汚らしい声に精一杯の落書きをしてやりたい一心でいっぱいだった。むしろ、そうしなければならないというような、途轍もない義務感に覆われる。
君子危うきに近寄らず、という文言が頭に浮かぶ。僕はただその場から逃げ出したかったのだ。下駄箱から靴を取り出し、普段よりもきつめに紐を結び直す。その作業を行う手が小刻みに震えているのを確認したら、なぜだか冷静になることができた。
「寒っ」
口にする必要のない言葉を吐いてから、僕は居酒屋の外へ出た。僕はもう、僕自身の体温すら正確に測り取れないくらいに潰されていたのだ。それはちょうど、分度器が忙しなくあらゆる角度を誤解するような、気の狂った状態に似ている。
夜空を見上げてみる。
僕はその眩しい月に馬鹿にされたような気がして、畜生と呟いてしまった。前を通りかかった女性が怖がるように、走り去っていく。
こういう時、健常者ならば涙を流すのだろうか。僕の頬は残念ながら渇いている。もう、僕は削りに削られて、実体の無い存在になり下がったのではないか。そんな畏怖を混ぜ合わせた吐息が白く濁り、僕は思わず鼻を
こんな世界に仕組んだ首謀者が一体どこのどいつなのか、考えても答えを出せない。いつからか僕は裏返しになってしまったし、それは周囲の人間も同じ様だった。じゃあ、どんな理由でこうなったのか? 僕は素知らぬ顔で照り続ける月を憎んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます