第3話 糸無き蜘蛛の巣

 青山駅に到着し、僕たちは改札を静かに潜った。

 駅を出ると、冷たい空気が迎えてくれた。もうすぐそこまで冬が迫ってきていることを告げるような、やらせに似た空気に思えた。

「ううっ、寒い」

 渚はマフラーを抱くように腕で押さえ、両肩を震わせた。束の間の仮眠から目覚めたばかりの、その気怠そうな瞳が夜の闇を吸い込んでいるようでもある。

 僕は渚を送ることにした。渚は実家に住んでいて、青山駅のすぐ近くにある。僕はその駅からの距離の近さを呪った。どうしてこうも歯車がかみ合わないことがこの世の中には多いのだろう、と復讐心のような大変面倒な気概が胸の奥の方で胡坐を掻いているのだ。

「渚ってさ、今の彼氏とはどんな感じ?」

 心にもないことを訊ねてしまった。渚の表情が一瞬だけ強張る。だが、すぐにいつもの柔和なものに変わり、家族然とした声で答える。

「……まだよく分かんないや」

 その返答は僕を緊張させた。渚の彼氏がどういう評価を受けているのか、渚にとってどれくらい大事な存在なのか、そうしたことを包みたくてもうまくいかない歯がゆさがあったからだ。これでは何の収穫もないし、第一渚の私情にはもう一切入り込む隙がないのではないか、と半ば焦燥にも似た不安に襲われる。


 しばらく会話が続かず、沈黙したまま僕らはただ歩いた。渚はというと、今にもアスファルトの上で寝そべってしまいそうな、壮大な眠気を纏ったまま歩いている。そんな彼女の秘めた幼さを真横で確認しながら、僕は時計の秒針を数えるときにするように、足音で正確にリズムを刻みながら歩いていた。


「ここまででいいよ。あとは一人でも大丈夫」

 公園を過ぎて、住宅街に入ったところで渚が告げる。ほんの数メートル先に渚の実家が見えた。

「そっか。じゃあ、またな。暗いから気を付けろよ」

 僕がそう言うと、渚は少しだけ照れたような顔をしてみせた。あるいは、その狡い表情は彼女が眠気と言う魔力を帯びたことで発生させたひとつの事象かもしれない。

「渚、あのな……」

「ん?」

 あと一言の熱が足りなかった。僕はまたも好機を逃す。これが15年も続いている。

「いや、なんでもない」

 僕たちは互いに手を振って別れた。


 青山駅に引き換えす途中、僕は考えていた。手を振って別れたあの時こそ、絶好のチャンスだったはずだ。そして、その事実は自分でも理解していた。それでも、決定的な何かが足りなかったのだ。その「何か」が一体どんな格好をして僕の邪魔をしているのか、深夜に軽い偏頭痛を患う僕の頭では解答を導き出すことが出来なかった。


 頭の裏側が引っ張られるようにずきずきとしていた。神経が疲弊していた。およそこの世のものとは思えない痛みに笑われている。その重たい頭蓋を引きずるようにして、僕は駅を目指した。

 後悔、とはなんて恐ろしい人間の習性だろうとふと考えた。自分自身が最適だとして起こした言動を、すぐに未来の自分が打ち消す。なんとも卑劣で、醜い悪習だろう、と。数分後の確定的悲劇、と言った方が分かりやすいかもしれない。そう、僕は数分後の未来においてほぼ確定的に自爆するだろうと予測して、渚への告白を渋ったのだった。確かに、卑劣で醜かった。

 酔っ払いが一喝しながら、傍をすれ違っていく。ああ、彼はどこまでも自由人で、後悔などとは無縁の人種なんだろうと勝手に納得をする。

 

 やがて青山駅に到着した。

 白いコンクリートで塗り固められた、駅の建物へ足を踏み入れようとしたその時、入口の天井付近に大きな蜘蛛の巣があることに気づく。しかし、不思議にもその中心には家主であるはずの蜘蛛の姿はない。居場所を失うまいとして、役目を終えたその蜘蛛の巣がただ風に揺れているだけだ。奇妙だった。同時に、僕への啓示か何かに違いないとする確信があった。肝心な要素がごっそり抜け落ちているぞ、といったような。いずれにしろ、今の僕には渚を奪うほどの余力すらないのだと悟らせるには十分な出来事だった。

 それも僕の蜘蛛の巣には糸さえないのだ。それだから、いつまでたっても渚をひっかけることができない。ただ時の経過とともに劣化していくばかりで、何の進展もないままだ。まるで受刑者の心持ちのようだ。僕はこの現実の重さに砕かれそうになる。背中に罅が入り、腰骨があっけなく折れて、終いには地面にめり込んでいく。そんな想像が頭をよぎり、慌ててかき消した。

 時刻表を見ると、終電が迫っていた。少々の焦りを電子マネーに注入しつつ、改札を足早に通過する。駅のホームに佇む名前も知らぬ冷気が、顔を冷やす。

 ホームの真ん中にそびえ立つコンクリートの柱が、電灯によって照らされているのを見つめる。僕はそれを見て、レーザーパルスを思い浮かべた。駅の真ん中に突如として出現したそのレーザーパルスは、ただ義務的に真っ赤な光を上下に動かしながら時を刻むのだ。一定間隔の心地よさを僕らに与えては、素知らぬ顔でその行為を繰り返すのだ。そうした想像を網膜上に保存しながら、ホームに滑り込んできた列車に僕は飛び乗った。

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