第2話 凍えてしまった炎

 バイトを終え、僕は渚と共に家路についていた。

「あー。串カツ美味しかったなー。また来てもいい?」

「うん。何回でも来てほしいしさ」

 そんな他愛のない会話を続けながら、足をゆっくりと前進させる。ビルが立ち並ぶ夜景は一向に就寝する気配を見せず、いまだにぎらぎらと照り続けているのだった。もうすぐ日付を越えるというのに、呑気な街だとつくづく思う。

 加えて冷気が頬を痛めつけていた。僕らが過ごす雪国・新潟では秋という季節が異様に短い。一か月もあればご立派なもので、大抵の場合は秋の後半からすでに秋は失われていくことが常だった。それは名もなき季節であるし、新潟特有の複雑な季節の交差に等しい。

 新潟駅まで歩いてきた僕たちは、ためらうことなくそのまま駅の改札へと向かう。電子マネーをかざし、新しい空間へ二人で侵入する。


 すぐに電車がホームに入ってきた。黄と橙の直線を付けられたその車体は心なしか、少しくたびれているようにも見えた。

 僕たちは座席の中央に腰を下ろした。乗客はまばらで、浮かない顔をしたサラリーマンと、スマホをいじり会話をする男子学生の二人組がいるだけの、静かな車両だった。

「なんかすごく眠たいんだけど」

 車内の空気を暖めるように、渚は僕にそう呟いた。彼女の瞼は今にも剥がれ落ちそうで、僕はほんの少しだけ恐かった。気をそらすように、必要のない咳ばらいをしてみせる。

 列車の扉が軽快に閉じられ、越後線が走り出した。

 先ほどまでの寒さが嘘だったように、車内に暖気が充満していく。その静かなる支配に身を委ね、僕は右肩に渚の体温を感じた。


 渚は僕の右肩に寄りかかり、すうすうと赤子のような寝息を立てて眠りについている。

 僕は自身の右肩に心の中で礼を述べた。右肩にしてはよくやってくれた、間違いなく今月のMVPだ、という趣旨の謝意である。今、僕は右肩のおかげで渚の温もりを感じることができているのだ。当の渚はなんとも思っていないだろうけど。僕にとっては一大事も一大事だった。

 渚の寝顔を見つめる。緊張の糸が一本も絡まっていない、無垢な表情をしていた。昔から変わらない寝顔だった。寝顔にこそ、その人の本性が現れるのではないか、とふとそんなことを考える。もしそうだとしたら、渚は良い意味でも悪い意味でも純粋なま歳を重ねたのかもしれない。


 向かいの座席でスマホをいじっていた男子学生のひとりが、僕の方を一瞬見やった。彼は僕と目が合ってしまったと勘違いをして、すぐに視線をスマホに戻した。程なくして、相方の学生に「俺も彼女欲しいなあ」と吐き捨てるように言ったのだ。


 俺も、という部分に僕はひどく傷つけられた。

 傍から見れば、僕の右肩に渚が全体重を預けて寄り添っているこの光景はカップルのそれに似ているかもしれない。けれど、実際はそうじゃないのだから、事態は深刻だった。僕は彼が放った一言を渚が耳にすることがなくてよかった、とひそかに安心していた。

 同時に、傷ついてもいた。勝手に、ひとりでに寂しさがこみ上げてきそうになっていた。その寂しさは形を伴って、胃の奥から逆流し始め、喉を通り抜け、口元まで出かかっている。胃酸を存分に纏ったそいつは、僕の歯の裏側で一時停止した。そのまま呑み込んでしまおうと僕は努力したが、結局その寂しさは咳となって体外に放出されてしまった。


 急に恐ろしくもなった。対面に座る学生の、彼の何の気ない一言が僕の内面をえぐり散らかしていく。ひょっとすると、渚にはもう一生手の届かない、と一刀両断されたような感覚がしたのかもしれない。

 確かに渚は僕の右肩で眠っている。僕をひどく動揺させていることすら自覚していないほどに、深い眠りについている。そのはずなのに、世界で一番遠い場所に僕と渚は存在しているような気がしてならなかった。


 僕は渚の肩に手をまわそうとして、途中でやめた。ちゃんと物理的に感じ取れる距離で、渚が近くに、隣にいることを確かめたいとする欲求に襲われる。だが、幼馴染という枠からはみ出す勇気も持ち合わせていない僕は、その欲求にさえ敗北した。しっかりと打ちのめされたのだ。ジャブなんて最初からない、一発KOだった。僕は僕と格闘し、額の裏側が妙に熱を帯び始める。暖房が少し効き過ぎているせいかもしれなかった。あるいは、現実を急に喉元に突き付けられて、前頭葉がオーバーヒートしているのだ。


「次は青山、青山。お出口は左側です」

 疲労をにじませた車掌のアナウンスが響き渡る。その声にすら妙に現実感を覚えた僕は、全身のあちらこちらがかゆくなりはじめた。そのかゆみが全身を駆け巡っていくうちに右肩が震えた。

 渚は目を覚まし、両の瞳を手の甲で拭いながら「もう着いたの、はやっ」と力ない声を振り絞った。


 この狭い車両の中で僕に起こった悲劇。渚のいる地点から銀河の彼方まで勢いよく飛ばされた僕は、信じられないほど疲れ切っていた。そんな僕の様子には微塵も触れずに、渚は出口傍の手すりにもたれかかり、青山駅に到着するのを待ちわびているだけだった。その彼女の横顔の中に、僕はまた現実の影を見るのだった。

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