太陽系第三惑星

文部 蘭

第1話 眠りについた本心

 じゅわあ、と音を立て沸騰するその景色がまた空気を揺らしていた。揚げられた串カツを軸に、世界がぐるぐる回っているようだ。豚肉は衣を着せられ、玉ねぎには軽い焦げ目が付いている。わずかに蒸気を帯び、「わたくし」を主張しているようにも思える。こんな風にいとも簡単に自己主張できるのならどれだけ人生は楽になるのだろう、と僕は考えていた。


 店内は午後10時を回ったというのに、賑わっている。至る所で湯気が上がり、熱気の充満した空間にはどこか安心感が漂っていた。僕がこの場でバイトを始めたのは3か月前。大学ももうすぐ卒業というタイミングで、ほんの資金稼ぎのつもりで始めたのだ。

「はい、お待ちどうさん!」

 僕は今しがた揚げ終えた串カツを皿の上に乗せ、カウンター席に腰掛ける女性に差し出した。

 女性は串カツから滲みだす油分が衣服に垂れないようにと、慎重に口へと運ぶ。何回か噛んでから、口元を手で押さえる。「やっぱり美味しい」と付け加えた。

 やっぱり美味しい、の「やっぱり」の部分に彼女らしさが含まれていると僕は思った。彼女はいつだって、相手の気心を巧みに操ろうとする獣のような習性を持っているからだ。


 彼女は僕の幼馴染、なぎさだ。小学校へ入学した時からの付き合いで、もう15年もの間関わっていることになる。一度も寝癖を付けたことのないような真っ黒な髪を肩のあたりまで垂らし、瞳はコンタクトを入れているせいで大きめだが、笑った時にだけ目尻が下がる。頬は大抵の場合紅潮していて、健康的な丸みを帯びているのだった。


 その渚が串カツを宙で泳がせながら、僕に話しかける。

「ねえ、いつもおんなじ作業をしてて飽きないの?」

 僕は次の串カツを揚げながら、口を動かす。「飽きないよ。どうして?」

「だって、バイトしてる時の拓斗の顔。なんか楽しくなさそうだし」

 

 そう言われた瞬間、僕ははっとした。危うく、揚げかけの串カツを床へ落としてしまいそうになる。喩えるなら、体内に別人の血液をごっそりと注ぎ込まれたような感覚がしたのだ。かかとが少しだけ浮き、喉が微かに鳴る。

 いつだって、そうだった。僕の本心を最終的に暴いてくれる役目を担うのが、渚。君だった。すべてお見通しなのかもしれないと思うと、少しだけ恥ずかしくもなる。ところが、その羞恥心はなにも遠ざけるようなものではなかった。むしろ、渚だけに僕の本心が伝わっていればそれでいいとさえ考えることだってある。

 僕の笑顔が2種類あることを渚は知っている。ひとつは社交辞令的な表面上の笑顔、もうひとつは大切な存在にしか決して見せない純度100パーセントの笑顔。渚にはもう幾万回と笑顔を見せてきた僕だから、そんなことはお互いにとってはすでに常識だった。


「そんなことないって。やってみると意外と楽しいもんだよ」

 僕はちょっとだけ渚に反論してみた。けれど、渚は納得のいかない様子で、ため息をつく。

「ほら、意外と、って言っちゃってるじゃん。その時点で黒だから」

 意地悪な微笑みを向けて、渚は串カツを頬張った。肉汁が数滴、真っ白な皿の上に切なく垂れる。周囲は蒸気で熱せられ、湿度が高い。

「……急に呼び出して悪かったな。すまん。ただ、どうしても渚の力を借りたかったんだ」

 僕は素直に謝った。背後をバイトの先輩が慌てて通過していく。

「ううん。全然気にしなくていいよ。私、どうせ今日暇だったから」

 嘘つけと心の中で呟きながらも、僕は渚に感謝していた。呼んだらすぐに駆け付けて、付き合ってくれる。こんな我儘が通用するのは渚だけだ。

「駄目だな、俺も。いつまでも幼馴染に頼りっぱなしでさ」

「そうだよ。拓斗だって、はやく恋人作った方がいいよ。年齢イコール彼女いない歴って、本気でヤバいよ」


 渚には付き合って2年になる彼氏がいる。インディーズ・バンドのベース担当らしいが、僕は彼についてはよく知らない。当の僕は渚が指摘した通り、年齢イコール彼女いない歴の余りもの男子だ。

 でも、それにはちゃんとした理由があるのだから、僕にはどうすることもできない。

 ――僕は渚のことが好きだ。

 もう15年も勝手に想い続けている。けれど、渚にはいまだにその胸の内を明かそうとしたことがない。突け放されるのが怖いのだ。その一言を放ってしまえば幼馴染という領域からことごとく追放されるのではないか、と一歩も踏み出せないまま時だけが過ぎて行ったのだ。

 渚は僕の本心をなんでもかんでも見破るのが得意だ。そんな名探偵の彼女でも、僕の好意にはどうやら気付けていないらしい。


「彼女は今はいらないなあ。社会人になってからでも遅くはないと思うし」

 僕は渚の手前で見栄を張った。そう? と少しだけ心配そうな上目遣いで見上げてくる渚に対して罪悪感を覚える。きっと、このいたたまれなさは串カツの油分みたいにいずれは重力に負けて落下してしまうのだろうけど。その場から逃げ出したくなるのを必死で堪え、僕は再び串カツを揚げ始める。

 周囲は蒸気によって温められ、下手をすればむせるほどになっている。ちょうどその時、ラストオーダーを知らせる声が店内に響くのだった。

 

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