桜日和

 マンションの桜が、これでもかってくらい咲き誇り始めた三月下旬。

 神崎さんが今日、引っ越してしまう。寂しくなるなぁ。

 仲良くしてもらったこともあって、私は引っ越しのお手伝いを買って出た。

 そしたら――――。

「どうして僕まで、引越しの手伝いしなくちゃいけないんですか。しかも、神崎さんのっ」

 渡り廊下の隅の方で舞う桜を背にこっそり文句を言っている櫂君を、私は何とか宥めすかす。

 だって、櫂君を指名してきたのは、他でもない神崎さんだったからだ。

「わざわざ悪かったね」

 ダンボールを抱えながら文句を言っている櫂君とコソコソ話していたら、神崎さんがそばにやってきた。

 思わず、私は愛想笑いを浮かべてしまう。

「いえいえ。それにしても、ここの桜が咲くのを神崎さんに見てもらえて、よかったです」

「うん。川原さんの話していた通り、本当にいい桜だね」

 神崎さんは、渡り廊下に迫り出し咲いている桃色の花たちを眺めてから、思い出したように櫂君を見た。

「ゆかいな……。えーっと、櫂君。ちょっといいかな」

 神崎さんは、いまだに少し不満そうな顔つきの櫂君を手招きして、だいぶ荷物が減り広くなった部屋に連れて行ってしまった。

 残された私は、櫂君の持っていたダンボールを引き取り、下に待つ引越しトラックまで運ぶことにした。

 今日は、とても天気がいい。引越しには、最適の日だと思う。

 神崎さんの旅立ちを祝福しているみたいに、桜も咲いている。そんな桜たちを見てもらえたことが、私は本当に嬉しく思えた。

 引越した先でも、神崎さんが彼女と、ここに負けないくらいの桜に出逢えたらいいな。

 高い青空を仰ぎ、私は太陽に手をかざす。柔らかな日差しを受け、気合を入れた。

「よしっ。次のダンボールを取りに行きますか」

 私が三階に戻ると、さっきまでふくれっ面だった櫂君の表情が一変していた。

 なんだかやけにニコニコとしていて、神崎さんとわきあいあいなのだ。

 なんでだ?

「あ、菜穂子さん。ダンボールすみませんでした」

 櫂君は、弾むような足取りと声音で、さっきまでぶーたれ顔とは雲泥の差だ。

「別にいいんだけど、なんか、機嫌よくなった?」

「え? そうですか? さっきと変わらないと思いますけど」

 いやいや、櫂君。君、あきらかにさっきとは違いますって。

「何で僕が」なんて言っていたのに、今じゃほいほいダンボールを運びまくってるじゃないの。しかも、神崎さんの話はNGだったくらいなのに、メチャクチャ仲良しさんではないですか。

 私が下に降りている間に、二人の間でいったい何が起きたんでしょう。

 わけがわからないけれど、お別れのときに笑顔でさよならできるのは、よかったよかったですよ。

「短い間だったけど、世話になったね」

「いえいえ。私こそ、色々とご迷惑をおかけしました」

 ぺこりと頭を下げると、神崎さんに笑われた。

 この笑いは、ご迷惑=ストーカー騒ぎに繋がったんだろうと思う。それも、今ではいい思い出?

「お元気で」

「川原さんもね」

 神崎さんを乗せた去り行くトラックを、櫂君と二人で手を振り見送った。

 私の一目惚れ様、さようなら~。

「寂しくなるなぁ」

 私の呟きに櫂君が、「そうですね」と穏やかな表情で相槌を打つ。

 やっぱり、私がダンボールを運んでいる間に、二人の間では何かあったに違いない。

 だって、以前の櫂君ならきっとこう言ったはず。

「寂しくなんかないですよ。僕がいるじゃないですか」と。

 いつだって櫂君は、そんな風に私へ気持ちを伝えてくれていたんだよね。

 考えてみればわかりそうなものなんだ。こんな言葉、どう考えたってそうとしかありえないというのに、私ときたら……。

 だけど、近くにいすぎて、それが当たり前になりすぎて、気づくのが遅くなっちゃった。

 ううん。違うかな。

 神崎さんが言うように、自覚症状が表面化していないだけで、実は心の根っこの方ではわかっていたのかも。

 だから、クリスマス会のときもスカートヒラヒラの佐々木さんのときも、私の胸の中は落ち着きをなくしていたんだ。

 佐藤君にまで言われちゃったしね。

 彼に言われたように、ちゃんと自分で考えましたよ。おかげでよーく解りました。

 クリスマスパーティーの時、夏になったらキャンプへ行きましょうって言ってくれたこと、本当はすごく嬉しかったんだよね。

 夏になるのが、とっても待ち遠しいくらいなんだ。

 けど、そういう気持ちを自覚すると、なんだかものすっごく照れくさい。

「菜穂子さん?」

「ひゃっ!」

 ぼんやり考え込んでいると、櫂君の顔が直ぐ近くにあって、思わず飛びのいてしまった。

「なんか、その態度。結構、傷つくんですけど」

 櫂君が拗ねてしまう。

「あ、ごめん。違うの、……あの。その……」

 しどろもどろになって、まともに櫂君の顔が見られなくなってしまった。意識しすぎて、心臓が暴れだしている。

「まー、いいです。僕、今未来がすっごく明るいんで。心が広くなってますから」

 未来? はて? と首をかしげていると、櫂君が呟いた。

「いい桜日和ですね」

 優しい顔で桜を眺めて呟く櫂君の隣に並び、私は頷きを返した。

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