自分と向き合う

 身を縮めてばかりの、寒い寒い一月二月が過ぎ。ようやく桜咲く三月がやってきた。

 商店街の並木道に咲く桜も蕾を膨らませ、このマンションの桜も可愛い蕾をつけている。

 春風に吹かれながらマンションの渡り廊下でその桜の蕾を眺めている時、ふと後ろが気になり振り返った。

 そこには、神崎さんの部屋がある。無機質なドアは何も語ることなく、ただ静かに存在していた。

 あの日を境に、神崎さんとはもう随分と逢っていなかった。初めは避けられているのかと、軽薄だった自分の行動に落ち込んだりもしたけれど、どうやらそんな感じでもなさそうだ。

 神崎さんが部屋にいる時間は短いようで、灯りが点いていることが少なかった。ただ、全く留守にしているような感じでもなく、時よりのぞく生活感から、忙しいのだろうと感じていた。

 それは、ポストからはみ出た郵便物が時々なくなっていることや、雨の翌日に傘が渡り廊下の壁に立てかけてあるのを見かけていたからだ。

 あ、ストーカー復活とか思わないでね。生活音みたいなので、少し判っちゃったりもするんだからね。

 神崎さん、元気にしてるのかなぁ?

「この桜が咲くのを、楽しみにしていたのにな」

 小さく呟きを漏らすと、ほんのりと寂しさを覚えた。

 思い入れの話を神崎さんが初めて口にした時、私は次に咲くこの桜の木を一緒に見られる気でいた。ここで一緒に、綺麗だなって言い合える気がしていたんだ。

 それは、私の勝手な願望だったのだけれど……。

 桜の木をもう一度眺め、せり出した枝につく蕾にやさしく触れる。

「大きくなってきたね。今年も綺麗な花を宜しくね」

 独り言のように桜へ話しかけていると、久しぶりの声が聞こえてきた。

「川原さん」

 声に反応して振り返ると、相変わらずの素敵な雰囲気を目いっぱい醸し出した神崎さんがエレベーターから降りてきた。

「神崎さん」

 驚いて目を丸くしていると、彼はにこやかに近づいてきた。

「お久しぶりです。お元気でしたか?」

 思わずさっき考えていたことを、率直に言葉に出してしまった。

「元気元気。なかなか逢うタイミングがなかったよね」

 本人が言うように、神崎さんはとても清々しい顔つきをしていた。手には、大きなスーツケースが引かれている。

「どこかへ旅行でしたか?」

 スーツケースに視線をやってから神崎さんを見ると、首を振っている。

「年末から、出張が多くてね。まぁ、個人的な用事も重なって、なかなかこの部屋にいることもなくて」

 忙しかったわりに、とても健康的ですっきりとした顔つきの神崎さんは、私の隣に立つと桜を眺めた。

「蕾、ついてきたんだ」

「はい。あと少しで、沢山の花びらが溢れますよ」

「楽しみだ」

 桜が咲くのが待ち遠しいというように、蕾を愛おしそうに神崎さんが眺める。少しすると、ほんの少し声のトーンを落として私を見た。

「実は、ここを引き払おうと思っているんだ」

 驚く私へ、神崎さんは少しだけ寂しそうな瞳を向けてきた。

「引越し……されるんですか……」

「うん。川原さんのお隣さんでいるのは、とても楽しかったんだけどね」

 そんな。せっかく仲良くなれたというのに、引越しなんて寂しい話だ。

 神崎さんとは、これからも色々な話をして、また一緒にお酒を飲んだりラーメンを食べに行ったりしたかったのにな。

 キスのことでちょっと気まずくなったりもしたけれど、やっぱり一目惚れの相手だし、憧れの人だから、いなくなるのは寂しいものだ。

 突然のことに私の口数が減ってしまうと、「引っ掻き回して悪かったな」なんて神崎さんが謝ってきた。

「引っ掻き回すって……。私は、何も。ただ、寂しくなるなって思って……」

「ありがと。ホント、川原さんは、俺にとって惜しい存在だよ」

 惜しい?

 惜しいって、どういう意味だろう。

 意味が理解できずに首をかしげていると、神崎さんはどうしてか私を微笑みながら見つめてから口を開いた。

「彼女に、逢うことができたんだ」

「え? 彼女って、あの桜の?」

 私の問いかけに、神崎さんが一つ頷く。

「あいつ向こうで色々あって、本当はもうずっと前から日本に戻っていたんだ。だけど、それを俺に言えなくて。五年後なんて言っときながら、度々約束の場所に来ていたって。もしかしたら、五年経たなくても、俺が来てくれるんじゃないかって期待していたのに、結局きっちり五年後に来るなんて、律儀すぎるって言われたよ。けどさ、自分で待たなくていいって言ったのに、勝手だよな」

 神崎さんはクスクスと可笑しそうに、けれどとても嬉しそうに笑っている。

 それは、とても幸せそうな笑顔で、そんな幸せが私にも伝播してくるみたいで心が温かくなっていく。

「良かったですね」

 心からそう思った。

 それほど長い付き合いじゃないけれど、こんな素敵な笑顔の神崎さんを私は見たことがない。

 神崎さんをこんなに幸せな表情にできる桜の彼女は、きっととても素敵な人なんだろう。

「それで。結婚することになった」

「へぇ~。結婚ですか。……えっ! 結婚!?」

 話が飛躍しすぎて、思わず声を上げてしまった。

「うん。だから、ここから越すことにしたんだ」

 ……そうか。いくらここの造りが広いからとはいえ、二人で住む新居には手狭だよね。

「おめでとうございます」

「ありがとう。これも、全部川原さんのおかげかな」

「私ですか?」

 自分を指差し驚いていると、穏やかな視線を向けられた。

「ここに越してきてよかったよ。桜が咲く頃には、引っ越すことになると思うけど。何より、俺にとっては、川原さんと出逢えた事が、何よりも貴重な経験だった。まぁ、最初はストーカーかと思って、かなりビビッたけど」

 ケタケタと声を上げる神崎さんに釣られて、私も笑ってしまう。

 振り返ってみれば、なんて最悪な出逢い方だったことだろう。よくあんな出逢い方で、こうも親しい仲になれたものだ。

 我ながら、感心してしまう。

「色々あったけどさ、川原さんの元気な姿とか、おっちょこちょいなところとか、結構楽しませてもらったよ」

「なんか、褒められているような、いないような……」

 窺うような私を見て、神崎さんはまた笑う。

「もう、私の反応見て楽しんでませんか?」

「いやいや。ホント、感謝してるんだ。自分の気持ちってさ、意外と自分じゃ解らなかったりするだろ? それをさ、川原さんと一緒に居たり、話をしたりすることで整理できたり、気持ちに向き合えたりした」

「向き合う?」

「そう。君のおかけで、俺は前に進むことができたんだ。だから余計に思うんだけど」

 神崎さんはそこで一旦言葉を止め、私をじっと見て一呼吸おくようにしてからまた話し出す。

「川原さんも、もう自分の気持ちに気づいているんじゃない?」

「へ?」

「俺がおせっかい焼くのもどうかと思ったんだけど、川原さんて、結構自覚症状なかったりするからさ」

 自覚症状って、私何か病気してたっけ?

「あ、俺。川原さんに置き土産していくから、あとで受け取ってよ」

 置き土産?

「ゆかいな仲間君のこと、大切にしてあげなよ」

「櫂君ですか?」

 置き土産のあとに櫂君の名前が出て、若干の混乱。

「もう、自分でも気づいてるだろ」

 神崎さんは、確信ありげに微笑むと、「じゃあ、また」と部屋に入ってしまった。

 首を傾げつつも、神崎さんの言葉に胸の真ん中が反応していることを、私は気づいていた。

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