やっぱり櫂君
ランチから戻ると、櫂君が待ってましたとはがりに話しかけてきた。
「菜穂子さん。どうしちゃったんですか?」
「な、なにが……」
私は櫂君の方も見ずに席に着き、仕事の準備に取り掛かる。
「その態度ですよ。朝から僕の顔を、全然見ないじゃないですか。おかしいですよ」
「そんなことないよ」
とは言いながらも、やっぱり目を見られない。
櫂君は、しばらくこっちの方を向いていたけれど、いつまでも櫂君のことを見ようとしない私の態度に諦めたのか、深い息をついて前を向いてしまった。
その姿に、何故だか私のほうが深い溜息が出そうで、そのうえ酷く悲しくもなっていた。
自分から無視するような態度をとっておきながら、相手にしてもらえなくなると悲しくなるなんて。
まるで、親に構ってもらえない子供と一緒だ。
何やってるんだろう、私。
今日一日、櫂君とほとんど口を利くことなく、その日の仕事が終わり、私はほっと息をつく。
小さく「お疲れ」と口にしてフロアを出て行くと、ほっとしたのも束の間、櫂君が後を追ってきた。
「菜穂子さん。飲みに行きませんか?」
かけられた声に、思わずビクリとしてしまう。
そんな私とは対照的に、櫂君は一日中口を利かなかった私に対して、何事もなかったように隣に並び、いつもの調子でお酒の誘いをしてきた。
その屈託のなさに、意味も解らず避け続けている自分は、一体なんなんだろう、と自身に首を傾げたくなってきた。
櫂君がこんなにも慕ってきてくれているのに、私ってばなんで避け続けているんだろう。
よく解らない感情に勝手に振り回されて、櫂君のことを避けているなんて、なんだか段々馬鹿らしくなってきた。
馬鹿らしくはなってきているんだけれど、視線を合わせるのに酷く勇気がいる。
よしっ。
私は、意を決したように声を上げた。
「うん。飲みに行こうっ」
前を見たまま声を上げると、櫂君がほっとしたように、「良かった」と呟いた。
駆けつけ三杯ではないけれど、素面ではいられなくて一杯目のビールを一気に飲み干した。
「いきますねぇ」
私の飲みっぷりを見て櫂君が、「惚れ惚れします」と笑う。
続いて直ぐにまた一杯を一気に飲み干すと、やっと気持ちが落着いてきた。というよりも、やっと櫂君の顔をまともに見られる気がしてきた。
「今日は、その、ごめんね……」
うまくまだ目を見られなかったけれど、私は素直に今日一日の態度について頭を下げた。
「なにか、ありましたか?」
櫂君は、そんな私にいつも以上に優しい言葉と表情を見せてくれる。
そんな櫂君が、大きくて広い海や、何処までも続く空みたいに寛大に思えて泣けてきた。
私の話を聞く態勢に入ってくれている櫂君へ、少し前までなら喜び勇んでキスのことを訊いて欲しくて話していたと思う。だけど、今日は少しも訊いてほしいと思わないし。
寧ろ、そのことを知られたくない。
櫂君だって、神崎さんの話はつまらないはずだよね。だって、前に怒ってたもんね。
だから私は首を横に振った。
わざわざ櫂君の機嫌が悪くなるのを解っていて、話す必要なんてないよね……。
「ううん。何も……。何もないよ」
「そうですか」
あんな態度をとったのに、何も話さないのかと思っているかな。
櫂君は無理に訊きだそうとすることもなく、ただ穏やかな表情で私を見つめている。
ごめんね、櫂君。
櫂君への申し訳なさに、自然と暗い気持ちになっていく雰囲気を回避したくて、何か話題はないかと頭を巡らせた。
「佐々木さんのPCは、直ったの?」
咄嗟に浮んだ名前を口走ってしまってから、チョイスを間違えたと慌ててしまう。
何もあのスカートヒラヒラちゃんの話題を出さなくてもいいのに、と自分に激しいど突きをかましたくなってしまった。
「ちょっと時間がかかりましたけれど、直りましたよ」
「よ、よかったね」
はは、なんて笑って誤魔化していると、櫂君は真面目腐った顔で説明してくれた。
「んー。よかったのは僕じゃなくて、佐々木さんでしょうね。僕は、一日拘束されて、菜穂子さんには迷惑掛けちゃったから、本当に申し訳なくて。あ、今日の飲み代、僕が出しますんで。遠慮なくガンガンいってくださいね」
「え。いいよ。ちゃんと払うから」
「いいですって」
「そう? ……わかった。じゃあ、遠慮なく」
櫂君の好意に甘えて、俯き加減でビールをすする。
やっぱり、ビールは美味しいな。
目の前の櫂君も、口元に少しだけ泡をつけてグビグビと煽っている。
その様子を上目遣いで窺いながら、グラスに残っていたビールを一気に飲み干すと、なんだかもう酔ってきたみたい。
昨日、神崎さんとワインを四本も空けて平気だったのが嘘のようだ。
やっぱり、櫂君と飲んでいると、気が緩んじゃうのかな。
櫂君といると、楽なんだよね。どんな話をしても同じように笑えるし。食べ物の好みも似てるから、注文する時も一致するし。
それに、もし私がヘロヘロになっても、櫂君が一緒なら、送ってもらえるから安心なんだよね。
神崎さんと違って、緊張なんて言葉が櫂君との間にはまったくないんだ。
一緒に居て、本当に楽ちんな相手。楽しめる相手なんだ。
あれ? こんなせりふ、どっかで聞いたな? 誰が言ってたんだっけ?
「どうしたんですか。ニコニコして」
「え? そう」
「はい。なんか、凄く楽しそうですよ」
「じゃあ、櫂君のおかげだと思う」
「え?」
「ゆかいな仲間だから」
「なんですか、それ」
櫂君は、ゆかいな仲間と言われて、クスクス笑っている。
「そうそう。昨日、佐々木さんとランチにいったじゃないですか」
話がひらひらちゃんへと戻り、思わず頬が引き攣った。
佐々木さんの話は、まだ続いていたのね。なんだか、その名前を出されると一瞬にして楽しさが打ち消されていくよ。
「部長には、伝言を頼んでおいたんですけど、聞きましたよね?」
「え? 部長に伝言? なんの?」
私は何も訊いていないと、首をぶんぶん振った。
「え? 訊いてないんですか? 部長~」
櫂君は、「頼みますぉ」とここに居ない部長に頭を抱えている。
「昨日は佐々木さんが、PCのお礼にランチは奢らせてくださいって強引に言うし。部長も、行って来い、川原には伝えておく。なんてわざわざ修理しているところを見に来て言うから、僕仕方なく、ランチにも行ってきたんですよ」
そうだったの?
「何も聞いてなかったよ……」
「じゃあ、もしかして。ランチの時、ずっと待ってました……? ごめんなさい」
「ううん、。大丈夫。戻ってきそうにないなって感じたから、ちゃんと一人で食べにいったから」
「なんか、本当にごめんなさい」
「そんな。謝りすぎだよ。櫂君」
「部長にまで言われてたんだったら、仕方ないことだし。それに、なんかうまくいえないけど。よかった」
「え? なにがですか?」
「だから。うまくいえないけど、よかったの」
櫂君へ言ったように、言葉にするのは難しいけれど。
部長が間に入っていたと知ったそのワンクッションで、私の気持ちは何故だか救われていた。
そのあとは二人ともペースを緩めて飲み、二時間ほどで居酒屋を後にした。
「菜穂子さんちまで、おくりますよ」
「え? いいよ。私そんなに酔ってないし」
「いいんです。僕がそうしたいんです」
「そうなんだ」
横に並ぶ櫂君に、私はなんだか嬉しくなった。
自宅の最寄り駅を出て、商店街の通りをゆっくりと歩いた。櫂君と肩を並べて歩くことなんて今まで何度もあったけれど、今日の私はとても穏やかな気持ちだった。
櫂君という存在に、気持ちがいい意味でフラットになっている。その波風も凸凹もないような心の状態に、とても安心していた。
「そういえば……。そのー、お隣の神崎さんとは、その後どうですか?」
櫂君から急にそんなことを訊ねられて、フラットだった波形がびょんっと飛び上がる。
瞬間。昨日のキスが脳裏を過ぎって、胸が苦しくなってしまった。
櫂君だって、神崎さんの話は訊きたくないって言っていたのに、どうしてこのタイミングで訊いてくるんだろう。
言葉を探すように、私は黙りこくってしまう。
「もしかして……何か……ありましたか……」
櫂君が不意に立ち止まる。
変なところがバカ正直な私は、何にもないよ。なんて平気な顔もできず、かと言って、キスしちゃった。なんて笑い話で語ることもできなくて言葉に詰まる。
「えっと……。少し、時間もらえるかな。なんて言うか、今はうまく櫂君に話せない気がするから……」
俯いてしまった私のことを見つめているのか、櫂君は少しの間身動きしなかった。
その空白の時間に、やっぱり話さなきゃ駄目かな、そう観念しそうになった頃。
「わかりました……」
櫂君が静かに口にした。
その返事に、私はほっとする。
今神崎さんとしたキスのことを話してしまったら、泣き出してしまいそうだった。嬉しいはずの出来事に、私の心はどうしてかマイナスへとベクトルを向かわせている。
だから、櫂君がそれ以上何も訊いてこないことに、心底安堵していた。
マンションのエントランス手前まで、櫂君が送ってくれた。
「ありがとうね。あと、お酒も。また、明日ね」
「はい。また、明日」
私に背を向けて一二歩行ったところで、櫂君が振り返った。
「あの、……菜穂子さん。僕――――」
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