シンプル?
どんなことがあってもすぐに眠ることのできる私にしては珍しく、一睡もできずに朝を迎えていた。
昨日の夜。神崎さんにキスをされてから、私たちはなんだかぎこちなくなってしまった。
それまでとても楽しく宴を楽しんでいたというのに、そんなことさえ幻だったみたいに、室内は静まり返ってしまったんだ。
それはきっと、ただキスをしただけじゃそんな風にはならなかったんだろうけれど、二度目のキスを私が拒んだからだと思う。
結局、あの直ぐあとに神崎さんは、隣にある自分の部屋へと帰ってしまった。
帰り際、神崎さんが何か言おうと口を開きかけたけれど、結局言いたかった事は口にせず。
ただ、「お休み」とだけ言って、ドアの外へと出て行った。
あんなに大好きで、一目惚れして、ストーカーまがいのことまでした相手とのキスだというのに。
私は、一体どうしちゃったというのだろう。
浮かれポンチになって、幸せに花を咲かせるのが本当のはずなのに、ちっとも心が弾まない。それどころか、暗い気持ちになっている。
それがどうしてなのか少しも解らないから、気もちが落ち着かない。
昨日せっかく自棄酒したというのに、少しもすっきりしないどころか、益々モヤモヤが募ってしまったようにさえ感じていた。
出社してからもそれは治らず、私はなんだかどんよりとした物を背中に背負ってフロアに踏み込んだ。
一歩踏み込むと、私の席の隣には当然櫂君の席があって。そこには、いつものように既に櫂君の姿が見えていた。
その姿を目にすると、まるで足が竦んだように前に進まない。
櫂君が恐いわけでもないのに、どうしてか櫂君のそばへ行くことができないんだ。
「おい。川原。入口で何やってんだ」
もたもたとしていたら、丁度出社してきた部長に、後ろから声をかけられてどきりとする。
「おっ、おはようございますっ」
「おかしなやつだな。サッサと席に着いて仕事の準備を始めろよ」
部長は、私の横をすり抜けて行ってしまった。
「解ってるんですけどね……」
小さく零してから、観念したようにそそっと自席へ向かった。
忍び足で近づく私の姿は、まるで泥棒みたいだ。
櫂君は、真剣に書類に目を通しているようで、足音を忍ばせて近づく私には気づかない。
私は、そおっと席に座り、PCの電源を入れた。
そこで櫂君が気づいた。
「あ、菜穂子さん、おはようございます。いつの間に。あれ、僕に声かけました?」
「あ、うぅん。お、おはよう……」
私は目もあわせず、ぼそぼそと朝の挨拶をする。櫂君の顔をちゃんと見ることが、どうしてもできない。
「どうしたんですか? なんか、おかしいですよ。また、風邪でも引きました?」
「ひいて……ないよ。大丈夫」
私の顔を覗き込むようにして櫂君が心配してくれているというのに、ソソクサと朝の準備に集中するふりをして、その後もほとんど口を利かずにいた。
櫂君の隣にいることが酷く落着かなくて、できればちょっとでも離れた席にいきたいと思ってしまう。
なのに、こんな日に限って会議もなく、席を離れるなんてこともできない。しかも、もうそろそろランチタイムになろうとしている。
そうなれば、いやでも櫂君と行くことになるだろう。
こんなに気まずい気持ちでいるのに、ランチなんてとても無理。
けど、待てよ。今日も佐々木さんとランチに行ったりしないのかな?
佐々木さんのPCは、もう直ったのかな? 直っていなかったら、今日も佐々木さんとランチのはずだよね? そしたら、また二人で向かい合って、楽しそうに食事をするんだろうな。
そして、私はまた一人、寂しい食事になるんだ……。
あ、いやいや。櫂君の顔をまともに見られないんだから、寧ろその方がいいのか。
けど、一人は一人で寂しいんだよね……。
どっちつかずな思考に嫌気が差していると、そこへ営業の佐藤君が現れた。
「かっわはらー。メシいかね?」
不意に訪れた佐藤君のお誘いに、思わずパーッと顔が明るくなる。
この際、からかわれていようが、冗談で誘われていようが、暇つぶしの相手だろうかどうでもいい。
気まずさを感じる櫂君とのランチや、一人のランチで寂しさを噛みしめるより、佐藤君のくだらない告白に付き合っているほうがずっとマシに思えた。
「いっ、行く行く」
二つ返事で椅子から立ち上がると、櫂君が驚いて止めに入った。
「えっ! ちょっと待ってくださいよ。僕は、どうなるんですか?」
「櫂君は、ほら。佐々木さんがいるじゃない」
目を見ずにぼそりと零すと、何言ってるんですか。とばかりに櫂君も立ち上がった。
「菜穂子さんとランチできないなんて、つまらないじゃないですか」
櫂君まで、つまらないなんて。私は、暇つぶしのおもちゃじゃないんですけど……。
「昨日も佐々木さんと一緒だったんだし、今日も一緒に行ったらいいよ。佐藤君、行こう」
「それどういう意味ですか。ちょっと、菜穂子さんっ」
櫂君が引き止めるように言っていても、私はそのまま佐藤君の腕をとり、フロアの出口へ向かった。
残された櫂君がそのあとも何か言っていたけれど、私は耳を塞ぐように足早に出て行った。
「……なんか。よかったのか?」
「ん? 何が?」
「藤本と、メシの約束あったんじゃないのか?」
「いいの、いいの」
「まー、俺は。川原と一緒にランチできるのは、嬉しいから構わないけど」
心のない佐藤君の言葉はスルーして、私は足早にビルの外を目指した。
佐藤君と、会社裏にある手軽な和食屋さんへと入った。向かい合って座り、出された熱いお茶をすする。
あんな風に出てきてしまったけれど、私は置いてきた櫂君のことが気になっていた。
櫂君、怒ってるかもしれないよね。意味もわからず避けられるなんて、理不尽だもんね。
だけど、どんな風に櫂君と接していいのか分からなくなっちゃったんだよ。どうしても、櫂君の顔が見られないんだもん。
でも、あんな態度をされたら、私なら怒るよ。だから、櫂君だって怒って当然だよね。
それとも、私のことなんか少しも気にせず、今日も佐々木さんとランチへ行っちゃったかな。
佐々木さんのこと、睨んでくる目とか恐いし、あんまり好きじゃないけど。男目線で見てみれば、可愛い女の子だもんね。
女からしたら判り易いくらい媚びた甘え方だけど、きっと男の人はあれくらいしてくれる子のほうが、一緒に居ても楽しんだろうな。
だから櫂君だって、あんなに楽しそうに昨日はランチしてたんだろうし。
色々と考え込んでいたら、何故だか目の前の佐藤君がマジマジと私を見ていた。
「なに?」
「俺は、透明人間か? それとも、空気か?」
「何言ってんの? 佐藤君は、佐藤君でしょ」
意味不明な佐藤君の質問に首を捻り、持っていた湯飲み茶碗を置いた。
「落ち込んでるっぽいな、と思って」
「え? 落ち込んでる? 誰が?」
訊ねると、指を指された。
「私?」
今の私って、そんな風に見えるんだ。
「つーか、顔が暗い。まー、暗い顔もなかなかイケてるけど」
いちいち織り交ぜられる言葉が、どれも嘘臭い。
「冗談も大概にして」
呆れていると、鼻で笑われた。
「藤本と喧嘩でもしてるのか?」
「なんで?」
「だって、お前。あんなにいつも藤本にべったりでニコニコだったのに、今日は顔も見ないであの態度じゃん」
「何その、べったりって。しかも、またお前って。櫂君とは、席が隣同士なんだから常に一緒なのは当たり前でしょ」
「ふ~ん」
「だいたい、喧嘩なんかしてないし」
「じゃあ、川原のその態度は何?」
「態度って、別に……。いつもと変わらないよ……」
「それ、マジで言ってんなら。ライバルなのに、俺藤本の肩持ちたくなるよ」
「なに、それ」
「川原はさ。いつもニコニコ明るくて、能天気なところが売りなのに。あんな態度されたら、俺なら凹むってこと」
「佐藤君は、凹まないでしょう」
「お前、俺をどんな奴だと思ってんの?」
「だから、お前って……。佐藤君は、酔っ払っていても素面でも、適当に女を口説けるいい加減男でしょ」
「おいおい。聞き捨てならないなー、そのセリフ。俺だって、一応真剣に川原に告ったんだけど」
「そうなの? 真剣さがいまいち伝わらない」
「ザックリ切り捨てるな」
佐藤君は、少しだけ拗ねた顔をする。
その顔を見ていたら、昨日のできごとをこの第三者である佐藤君に話してすっきりさせたくなった。
「て言うかー。ちょっと訊いてくれる? 実は、昨日ずっと好きだった人にキスされたんだよね」
私が告白すると、飲んでいたお茶をブッと佐藤君が噴出した。
「ちょっとー。汚いから」
お絞りでテーブルに飛んだお茶を拭いていると、佐藤君は驚きながら訊き返す。
「なんだよ、キスって。しかも、好きな人って、誰っ?!」
「うーん。ちょっと前に一目惚れしてね。その人が偶然にも私のお隣さんになってね」
「え? 何? どういうこと? 川原んちの隣に住んでんの?」
「うん」
「なんか、展開速すぎて、ついていくの必死なんだけど。それにしても、好きなやつが隣に住んでるって、凄い確率じゃん」
「そうっ。それなのよ。本当、一時期はストーカー騒ぎもあってかなりテンションダウンしていたんだけど。気がつけばお隣に住んでいて、昨日はキスまで……」
「ストーカーにキス? よくわからんけど、とにかく何で好きな奴とキスしたのに、そんなにテンション低いんだよ。つか、ストーカーって、どんな奴だよ。お前、ストーキングされてんの? ちゃんと警察に届けたほうがいいぞ。最近は、その手の犯罪が多いからな。なんなら一緒に警察について行ってやろうか?」
「あ、いや、うん。ストーカーの話は、もう解決したからいいんだよね」
警察なんてワードが出て、思わず汗が出る。て言うか、ストーカー扱いされたてたのは、私のほうだからね。
「とにかく、自分でもよくわからないの。あんなに好きだって思っていた人とキスできたのに、少しも嬉しくないんだよね。しかも、二度目のキス拒んじゃったし」
「へ? またキスされたの?」
「だから。されたんじゃなくて、されそうになったのを、拒んだの」
「なんで?」
「わかんない」
私は、口を尖らせる。
「はぁ? お前さー。ややこしい性格してんなー。何で素直に喜べないんだよ。好きな人とのキスなんだろ?」
「うーん、そうなんだけどね……」
「なんなら、ためしに俺もしてやろうか?」
「要らないし」
もう、佐藤君てば、いちいち面倒だ。話したのは、失敗だったかな。
「あ……。お前、もしかして」
「なに、もしかしてって? てか、佐藤君。お前、お前、言いすぎ」
「お前さー」
「だから」
「やましいんだろ」
「……え?」
やましいって何よ。
「うん。きっとそうだ。川原は、やましいって思ってるんだ。だからそのテンションなんだ。ややこしいと思ったけど、意外とシンプルだな。つか、アホだろ」
お前の次は、アホって。
「もう、いいよ。佐藤君に話したのが間違いだった。もう、今のは忘れて。あと、この話。櫂君には言わないでよ」
「ほら。それ。やっぱアホだ」
「なんなのよ。茶化さないでちゃんと教えてよ」
「やだ。俺、完璧に川原の眼中に入れてもらえてないから教えてやんねー。悔しかったら、ちゃんと自分の頭で考えろ。逃げんなよ」
「逃げるって、何から?」
「教えねー」
結局、お前だのアホだの散々言うだけ言って、佐藤君は何も教えてくれなかった。
まったく、なんなのよ。
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