桜の思い出
「――――あっ。川原さんっ」
櫂君が何か言いかけたところへ、丁度神崎さんがマンション内から出てきた。
「あ……、神崎さん……」
昨日の今日で、私は神崎さんとも動揺してうまく目をあわせられない。なのに、神崎さんはといえば、今までと少しも変わらない態度で接してきた。
「あ、ゆかいな仲間君も一緒なんだね」
櫂君の姿に気がつくと、神崎さんはにこりと微笑む。
何かを言おうとしていたはずの櫂君だけれど、神崎さんの登場で言葉を飲み込んでしまった。その表情はなんとも言えず複雑で、きゅっと唇を引き結んでしまっている。
「櫂君?」
さっき口にしようとしたことを訊ねるように名前を呼んでみたけれど、櫂君の表情はどこか硬く。神崎さんへ無言のままぺこりとお辞儀をすると、私にだけ「お休みなさい」と言って帰ってしまった。
その櫂君の背中を少しの間見送ってから、私は神崎さんに訊ねた。
「お出かけ、ですか……?」
こんな時間から外に出るなんて、またラーメンだろうか?
だとしたら、このタイミングだし、誘われちゃうかな?
けど、今日は一緒にラーメンを食べる気分じゃない……。
キスのことがあってから、私はどうにもうまく神崎さんに心を開けなくなっていた。
「うん……。ちょっと夜風にあたって考え事をしたくて。寒い方が冷静になれる気がしてね」
自分が予想していたことと違う答が返ってきてほっとしたけれど、いつもは強気な神崎さんらしからぬ戸惑いが感じられた。
普段から落ち着きのある神崎さんが、「冷静になりたくて」なんて、私にしてみたら不思議でならない。なにがどうして、彼の口からそんな言葉が飛び出してしまったのか……。
どうしてしまったんだろうと神崎さんの表情を見ていたら、「少しだけいいかな?」と、彼は私をマンションのエントランス内へ促した。
深夜のマンションは、管理人さんもいなくてとても静かだ。無駄に明るい蛍光灯の光だけが、チカチカとやけに目に沁みる。時折、設置されている自動販売機が静かなモーター音を上げるだけだ。
「前にさ、桜の話をしたの、憶えてるかな?」
神崎さんはエントランスの壁に寄りかかるようにして立つと、そう話し始めた。
桜といえば、あの三階の渡り廊下で聞いた、思い入れの話だろうか。
確信が持てな私は、曖昧に頷きを返した。
「俺、桜に惹かれてこの町に来たんだけど。その理由が、実は前の彼女と関係があるんだ」
元カノ?
もしかして、ラーメン屋さんで少し話してくれた、大学時代の彼女のことかな?
「彼女とは、桜で始まり、桜で終わった。彼女を初めて見かけたのが、この町のように桜並木のある場所だったんだ。散り始めた桜吹雪を手のひらで受け止めるようにして、右手を差し出している。そんな彼女の姿を見たら、川原さんじゃないんだけど一目惚れしちゃってさ」
神崎さんは、当時を思い出しているのか、ちょっと照れくさそうにして笑みを作っている。
「名前も知らない女性を好きになるなんて、ないだろう。って自分でもおかしくなるくらいだったけど。そのあと直ぐに、同じ大学で彼女にもう一度逢うことができて。その時に確信したんだ。あとはは俺の猛プッシュで、彼女があれこれ迷う前に恋人っていう形を作った。それが、桜の木の下だったんだ。彼女とは、大学での長い時間を一緒に過ごしたけど、卒業という分かれ道で、納得した上でさよならをしたんだ」
「まだ、好きだったんですよね……?」
私の問いかけに、神崎さんは頷いた。
「どうしてですか? 卒業しても、お互い好きなら――――」
「彼女、留学が決まっていてね。いつ日本へ帰ってくるか、解らなかったんだ。彼女は、待っていて欲しくないって。俺は、そんな彼女の意思を尊重したんだよ」
「そんな……」
「まー、でも。尊重なんて、かっこよく言ったけど。結局、未練だらけだった俺は、彼女との思い出深い桜の木を求めてこの町に居座っているってわけ。桜のそばにいることで、彼女を感じられる気がしていたんだよ……」
おどけたようにして話しているけれど、神崎さんの表情は少し悲しそうだった。
桜にその彼女を重ね、神崎さんはずっと思い出の中で生きてきたのかな。だとしたら、寂しいよね……。
「ただ、ひとつ。彼女と約束していたことがあってね」
「約束?」
「五年後、必ずもう一度日本に戻るから。その時に、お互いの気持ちを確認しようって」
「確認て……」
「待っていて欲しくない。だけど、もしもまだ、お互い相手のことが好きなら、一番初めに逢った桜の木の下で逢おうって。それが明日なんだ」
「明日って!?」
思わず私の方が、動揺して慌ててしまった。だって、あまりにも急すぎる。いや、私が聞いたのが約束の前日ってだけの話で、神崎さんにしてみたら別に急ではないのか……。
自分のことでもないのに、心が勝手にあたふたしてしまう。
「実は……、迷ってるんだ」
神崎さんは、小さく息をつく。
「時々、自分の気持ちが解らなくなるんだよ。彼女の事は、ずっと好きだったはずなんだ。だからこの町に居座って、桜の木がそばにあるこのマンションに住もうって決めた。だけど、川原さんに逢って、わからなくなってきたんだ」
「私……ですか?」
私の名前が二人の間に突然上がったことで、あたふたしていたさっきの感情に驚きが混ざる。
「川原さんて、結構無自覚だよね。いや、川原さんが悪いわけじゃないよ。ゆかいな仲間君もいるしね」
「え? ゆかいな仲間って、……櫂君?」
私の次には、櫂君まで。何故彼の名前がここに登場するのかわからずに、私はきょとんとしてしまう。
そんな私の顔に向かって、にこりと頷く神崎さん。謎の頷きに、私は更に首を傾げそうになってしまう。
「色々迷走した結果。昨日で段々気持ちが見えてきた」
昨日、といわれて思わずどきりとした。
昨日といえば、キスのことしかないよね。あのキスで、いったいどんな気持ちが見えてきたんだろう……。
「それに、今こうして川原さんに話したことで、バラバラになってた感情が整理ができたよ」
よく解らないけれど、神崎さんは、確かに話し始めた時とははっきりと違う、すっきりとした顔を今はしている。
「頭冷やして考えてこようと思って出てきたんだけど、その前に答が出たのは、川原さんのおかげだな。ありがと」
「……え、いえ。私は何も……」
そう、私は何もしていない。ただ話を聞いていただけだ。
「ここは寒いし。帰ろうか」
エレベーターに足を向ける神崎さんのあとに続き、私はよく解らないまま部屋のある三階へ行った。
そうして、お互いのドアの前に立つ。
「お休み、川原さん」
「お休みなさい」
小さく会釈すると、神崎さんが付け足すように口を開く。
「いつでもそばにあると、大切さって気がつかないものだよね」
「え?」
何を言われたのかわからず、ドアノブに手を伸ばしたまま私の動きが止まる。
「それと、昨日のは二人だけの秘密にしておこう」
「それって……」
キスのこと?
戸惑いながらいる私に笑顔を向けると、神崎さんは部屋の中へと入っていってしまった。
冷たい風が頬を撫でていくのを感じながら、私は神崎さんの言葉を反芻する。
いつもそばにある大切さ……。
神崎さんの言葉に、胸の奥にあったモヤモヤが吹き過ぎる風と一緒にどこか遠くへ消えていくような気がした。
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