忘れられない人
パーティーがお開きになり、会場内では同期でも部署が離れてしまった者同士が仲良く集まり始め、同窓会のように二次会へと流れて行く姿が目に入った。
そんな中、何人かの誘いを断り、私は真っ直ぐ帰ることにした。
酔った佐藤君にまた誘われても面倒なだけだし、何より慣れないヒールで足が痛くて仕方なかったんだ。
この長い一日に疲れてもいたし、家に帰ってヒールに縛られ続けていた足を投げ出したい。
「おーい。藤本ー。二次会に行こうぜ」
同期の子達に誘われた櫂君が、隣に立つ私の顔を見てどうしようか迷っている。
「行きなよ。同期で飲むなんて、最近じゃ、なかなかないんじゃないの?」
そもそも、同じ部署の先輩だからって、私の顔色を窺う必要なんてないのに。
「ほら、行くぞ」
迷っている櫂君を、同期の社員が強引に連れ去って行く。
「また、来週ねー」
連れ去られる櫂君に手を振り、私は一人会場のホテルをあとにする。
痛む足で電車に乗って帰る元気はないので、ホテルの入口から直ぐにタクシーに乗り込んだ。
会場の出口で渡された、参加賞のボールペンをバッグに放り込み、タクシーの背もたれに寄りかかる。
「メチャクチャ疲れたなぁ……」
ポソリ呟いて、車窓から流れ行く夜の街並みを眺めた。
キラキラと光る電飾たちが眩しすぎて、一度ゆっくり瞬きをすると、さっきまでの喧騒が嘘みたいな車内の静けさにほっと息がもれた。窓から視線を自分の爪に移し、パッと目の前に広げてみる。
「結構、可愛いよね。これ」
爪の上で降る雪に、私は一人目を細める。
だけど、仕事中にこの爪でキーボードは、とっても打ちにくかったのよね。
そう思ってから、我ながら根っからおしゃれには縁遠いんだな、と苦笑いが漏れ出る。
自宅マンションが近づいてきた頃になって、お腹が空いていることに気がついた。
考えてみれば、あんなに豪勢な料理が並んでいたというのに、アルコール以外口にしていない。もったいないことをしたな。
どこかで何か食べて帰ろうかな?
疲れに回らない頭でのんびりと何を食べるか考えていたら、タクシーはスムーズにマンション前に到着してしまった。
食事にありつけず……。あうぅ。
空腹のお腹をさすりながらフラフラとエントランスに入って行くと、エレベーターから神崎さんが降りてきた。
「あ、川原さん。こんな時間まで、残業?」
「いえ。今日は、会社のパーティーだったんです」
「ああ、前に言ってたやつか」
「神崎さんは、こんな時間からどちらへ?」
「小腹が空いて。ラーメン食いにいこうと思って」
ラーメンというワードに、さっきまでヘロヘロに疲れていた体がシャキッと反応した。
「それっ、私も一緒していいですか? パーティーで料理を食べ損なっちゃって、お腹空いてるんです」
お腹に手を当てて訴えると、神崎さんがおかしそうに笑う。
きっとどんなにしゃれ込んでも、普段どおり過ぎる私の雑さに笑っているのだろう。しかたない。それが私なのだ。
ヒールで痛む足よりも空腹に耐えられず、以前櫂君と一緒にランチで食べたラーメン屋さんに、神崎さんと歩いて向かった。
夜遅くに食べるラーメンに背徳感を覚えつつも、空腹に熱々で美味しそうな絵面を想像すれば、気持ちは上向きになっていく。
けれど、ラーメンの誘惑に浮かれながらも、足の痛みに表情が歪み始めていた。
冬の寒さで痛みが麻痺しないかと思ったけれど、寒さは寒さで厳しいし。ヒールの痛さは、寒さで余計に増している気がした。
一瞬、神崎さんとのラーメンに乗ったことを後悔したけれど、痛みに耐えて漸く辿り着いたラーメン屋さんのいい香りに、堪えてでも来た甲斐があったと口の中は涎でいっぱいになった。
カウンターに並んで座ると、神崎さんからふわりと煙草の匂いが香った。
ああ、神崎さんの匂いだ。くんくん。
まさか、二人でラーメンを食べる日が来るなんてね。幸せだな。
それにしても、足が痛い……。
カウンターの下で、ヒールをこっそり脱いでみる。
ああ、楽ちん。
「ここの塩ラーメン。旨いよな」
ヒールを脱いだ足をブラブラさせていると、神崎さんが塩ラーメンを注文した。私も同じものを頼む。
「私も好きで、たまに来ますよ」
「あ、俺も結構来てるんだけど、今まで一度も逢わなかったな」
「ですね。神崎さんて、うちに越してくる前は、どの辺りに住んでたんですか?」
同じ最寄り駅を利用しているのだから、この近辺だったはずだよね。
「大通りを真っ直ぐ行った先にあるマンションに住んでたんだけど。古いマンションだったから、建て替えるとかでしばらく出なくちゃいけなくなって。だったら、丁度いいと思って、引っ越しするのを決めたんだ」
「そうなんですか」
「で、川原さんところの物件を見つけて、直ぐに決めた。あそこ、かなり便利だし。部屋のつくりもいいからな。それに、あの桜も……。いいタイミングで入居できて、ラッキーだったよ」
その陰には、悪いタイミングで入居できなかった人もいたりするんてすけどね……。
櫂君を思い、僅かに頬が歪む。
出てきた熱々のラーメンを早速口にすると、美味しさが空腹の胃に染み渡っていった。ラーメンの温かさも身に沁みて、余りの美味しさに泣けてくる。
「あー、おいしっ」
小さく声を上げると、神崎さんが笑う。
「川原さんて、いつも気取ってなくていいよね」
褒められているのかいないのか、微妙です。
スープまで完食した神崎さんは、お冷を口にしたあと視線を私の手に持っていった。
「その爪。可愛いじゃん」
「あ、ありがとうございます。普段は、爪とかいじらないんですけど、今日は特別に頑張ってしまいました」
なんだか、照れくさいですよ。けど、気づいてもらえて嬉しい。
神崎さんは、私の爪を少しの間眺めてから、遠い目をして話し出した。
「俺さ。大学時代、ずっと付き合ってた彼女がいて。その子も、普段はそういうのに頓着しない子で。けど、ある日、突然頑張っておしゃれしてきた時があって。そういうのって、いい意味でちょっとドキッとするよな」
昔を思い出したのか、神崎さんは懐かしむような愛しい笑顔をしてみせる。
そんな風に彼女のことを話す神崎さんの話を聞いても、私に嫉妬のようなものは少しも浮ばなくて。寧ろ、懐かしむその表情も素敵だな、なんて思うのです。
それにしても――――。
「その彼女さんとは、今でも……?」
嫉妬はしないけれど、気になって思わず訊いてしまう。
だって、考えてみればこんな素敵な人に、恋人が居ないなんておかしいよね。もしかしたら、その彼女と今も付き合っているかもしれないし。
すると、神崎さんはゆっくりと首を横に振った。
「卒業と同時に別れたんだ」
そう話す神崎さんの瞳は、切なそうだ。だからかな……。恋人が居ないということにほっとするよりも、まだその彼女のことを想っているのかもしれないって、そんな風に考えることの方が先に来たのは。
忘れられない……人、なんだろうか。
どんな人なんだろう。神崎さんと付き合うくらいの人だから、きっととても素敵な人だったんだろうな。
「ごめんなさい。余計なことを訊いてしまって……」
「いや。昔のことだから」
そんな風に言いながらも、なんとなくだけれど。神崎さんは、今もその人のことが気になっているんじゃないかなって思った。
だって、そのあとから少しの間、神崎さんは無口になってしまったから。
その無口さは、話すことがないからしゃべらないんじゃなくて。その彼女のことを思い出しているから、何も話し出さないんだろうなっていう雰囲気だった。
神崎さんの隣に座る私は、彼の思い出に進入することなんかできなくて、ただ黙って隣にいるだけ。
それがちょっぴり切なくて、心がきゅっと苦しくなった。
隣にいるのに、遠く感じることが切なかった……。
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