ひょいっと

 美味しいラーメンに満足して、私たちはお店をあとにした。

 店内で体が温まったはずなのに、外の空気はそれを一瞬で奪い去っていくほどの寒さだ。少しでも風が吹くと、ぎゅっと体が硬く縮こまる。

「寒い日のラーメンは、格別だったな」

 マンションへ向かって歩きながら、神崎さんはとても満足そうだ。

「ですね。スープの美味しさが、胃に染み渡りましたよ」

 ラーメン話に花を咲かせながらも、一度カウンター下で脱いだヒールを再び履いて歩くと、痛みがさっきよりも増している気がして辛かった。歩くたびに、ヒールの踵が凶器のように皮膚へと突き刺さる。

 痛みを堪えてなるべく普通に歩こうとしても、ついひょこひょことした歩き方になってしまう。

 すると、不意に神崎さんが足を止めた。

「足。痛いのか?」

「あ、いえ……。大丈夫です」

 顔の前で手を振った私の足元を見て、神崎さんは眉根を寄せる。

「気づかなくて悪かったな。足が痛いのに、わざわざ商店街までラーメン食べに行くことなかったよな」

「そんな。神崎さんが謝ることではないです。私が新しいヒールに、浮かれすぎてしまっただけですし。ラーメンだって、食べたくて私が勝手に便乗しただけなので、気にしないで下さい」

 いつものように笑うと、神崎さんが私の足元にしゃがみ込んでしまった。そうして、「俺の肩に掴まって」とヒールを片方脱がせてしまう。

 えっ!? と驚いている私に構わず、神崎さんはヒールにやられた傷を見ている。

「うわ。皮が捲れてんじゃん。よく我慢してたよ」

 掴まったのはいいけれど、感心するように神崎さんに言われながらも、こんな風に触れていることが照れくさくて顔が熱い。

 その上、ヒールを脱がされてマジマジと足を見られていることには、それ以上に恥ずかしさを感じずにはいられない。

「肩貸すよ」

 立ち上がった神崎さんが言って、私の手をとった。私は、余りにおこがましくて、サッと手を引いて遠慮する。

「だっ、大丈夫です。そんな、神崎さんの肩なんて、借りられません」

「何言ってんだよ。……あ、ストーカーなんてもう思ったりしないし、遠慮すんな」

 神崎さんがもう一度私の肩に手を回そうとしたけれど、サッとまたその手から逃れた。

 それはさっき訊いた大学の時の彼女の話が、瞬時に頭の中を過ぎったからなのかもしれない。神崎さんの心の中にまだいるその彼女に、申し訳ない気持ちになってしまったんだ。

 ううん、……違うかな。私じゃその彼女に勝てる気がしなくて、戦う前から逃げてしまったのかもしれない……。

 それから私は、徐に両方のヒールを脱いでみた。

「夜だし。裸足で歩いてても誰も見てませんから、こうして帰ります」

 買ったばかりの新しいヒールを両手で持って笑って見せると、「強がりすぎだ」と笑われた。

 確かに、ヒールを脱いでみると痛みはないけれど、冬のアスファルトの冷たさは尋常じゃなかった。足の裏が冷たさにビリビリとして、体の芯から冷えていく感じがする。

冬のアスファルトが、こんなにも冷たいとは思わなかった。痛みはなくても、こんな都会で凍傷になるかもしれない。

 強がるのも、結構大変なんだね。

 足の裏に伝わる、コンクリートの硬い感触と冷たさが身に沁みて、思わずブルッと身震いした。その瞬間、私の体はひょいっと持ち上がり、気がつけば神崎さんに抱き上げられてしまっていた。

「夜だし。抱っこされていても、誰も見てないから平気だろ?」

 笑う神崎さんの顔を至近距離で見上げながら、一瞬、何が起きたかわからなくて、私は固まってしまった。

 その僅か数秒後に、どんな事態が起きているかを把握する。

「えっ!? うそ……」

 神崎さんは、私の体を軽々とお姫様抱っこして、何の躊躇もなくマンションへ向かって歩き始めてしまったんだ。

 裸足でヒールを持ったままの私は神崎さんに抱えられ、余りの衝撃に一人慌てふためいてしまう。

「だ、大丈夫です! おろしてください。ちゃんと一人で歩けますから。ホントは、足なんか痛くないんですよ。こんなの、たいしたことないんです。そ、それに、重いでしょ? 神崎さん、つぶれちゃいますよ。あの、ホントに――――」

 おろしてもらおうと慌てて色々言っていたら、ピシャリと一言告げられた。

「いいから黙って」

「は、はい……」

 どうしよう。ドキドキするよ。

 好きな人にお姫様抱っこなんて、御伽噺の世界みたい。

 本当に現実? 夢なんじゃないの?

 実はまだクリスマスの会場で、あのソファで転寝中なんじゃない?

 一歩ごとに伝わる振動と、しっかりと抱えられた体。神崎さんの吐く白い息と温かさ。

 こうやって上着を着ていても、人の温もりってちゃんと伝わってくるものなんだね。

 あったかいなぁ。そして、幸せ。

 夢なら覚めないで。

 さっきまで昔の彼女を気にしていたくせに、私ってなんて現金なんだろう。だけど、今だけでも夢を見させてください。

 ほんの少しだけ神崎さんの胸に頭を預けるようにしながら、夢子心地の今に心が穏やかになる。

 ずっと、こうしていたい。

 マンションの自宅まで、しっかりと抱きかかえられたまま送ってもらい、ゆっくりとその腕から降ろされると、とっても名残惜しい。

「ありがとうございました」

 ぺこりと頭を下げてお礼を言うと、「こっちこそ、気づかなくて悪かった」と逆に謝られてしまって。とんでもないとブンブン首を振った。すると、ふわりと大きな手が優しく私の頭に置かれる。

「新しいヒールもいいけど、無理しないほうがいいな」

 深夜でも爽やか過ぎるくらいの笑顔で言われて、神崎さんの手が置かれたままの頭の天辺からカーッと熱くなっていき、ドキドキも止まない。

 どうしよう。好きだーーーーーーっ!! て叫びたいくらいだよ。

 近所迷惑だけどね。

「足が治ったら、またラーメン行くか?」

「はい。是非っ」

 思わずテンション高めで声を張ると、「しーっ」と言って神崎さんに苦笑いされてしまった。

 私は、慌てて口元に手を持ってき肩を竦める。

「じゃ。お休み」

「はい。おやすみなさい」

 その夜、足の痛みなんて忘れるくらいの幸福感にニタニタしながら、私は幸せな眠りについた。

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