記憶なし

 昨夜、櫂君に引き摺られないように自分のペースで飲んでいたつもりだったけれど、朝はやっぱり辛かった。

 布団から出られずに、しばらくもぞもぞとし、あと十分、あと五分と、起きる時間を引き延ばしたおかげで朝食抜きです。

 どんなに飲んでも、食欲だけは衰えないのが私のいいところなので、家で食べている時間がないのなら、と会社の傍にあるパン屋さんで美味しそうな大きいチーズパンを買って出社した。フロアへ向かう前に、社内に設置されている挽きたてドリップ自販機で、熱々でお手軽のコーヒーを買いフロアへ向かう。

 せっかくだから櫂君にも熱々のコーヒーを、と思って買っていき差し出してみたんだけれど、朝からどんよりとした空気を纏っていて「ふぅ~」と酒臭い息を吐いている。

 爽やかナイスガイが台無しです。

「おはよう。櫂君」

「はよぉございます……。ふぅ……」

 櫂君は、いつもの快活さは欠片もなく。目は、死んだ魚のようだ……。よく見ると、机の上に栄養ドリンクの空きビンがあるから、一応自己対処はしたのだろう。

「ねぇ。大丈夫? これ、飲んでね」

 机にコーヒーを置いて訊ねたけれど、「ありがとうございます……、駄目です……」と頭を垂れてぼそぼそと言葉を零している。

「櫂君には珍しく、昨日はかなり飲んでたもんね。どうしちゃったの?」

 私が訊ねると、垂れていた頭を徐に持ち上げて、めちゃくちゃ恨めしい顔で見られてしまった。

 ああ、そうか。根本的な原因は、私がLINEを無視してしまったことで、櫂君が怒ったからだったよね。うっかり忘れていた。

 でも、LINEに気づかなかったくらいで、酔いつぶれるほど飲まなくてもいいのに。

 辛そうな櫂君の横で、買ったチーズパンにかぶりつく。

「これ、美味しい」

 ゴロゴロとしたチーズがたっぷりで、食べ応えがある。ワインと一緒に食べたらもっと美味しいかも。

 週末にでもこのチーズパンを買って、ワインを飲もうかな。生ハムも一緒に食べたいな。生ハムサラダ作ろうかな。

「ねぇ、ねぇ。櫂君も食べる?」

 余りの美味しさにその気持ちを共有してもらいたくて、大きなチーズパンを千切って渡そうとしたら、無言で手のひらを向け断られた。

 食欲無しですか、残念。

「美味しいのになぁ」

 私がチーズパンを完食した頃、櫂君がどんよりとしたまま顔を上げた。

「あの、菜穂子さん……」

「ん?」

「昨日のことなんですが」

「うん?」

「僕、何かしでかしたりしてないですよね……?」

 辛そうながらも顔を上げ、櫂君は窺うように自信なさげな顔つきをする。

「しでかす?」

 ……うーん。

 私は、昨夜のことを思い出す。櫂君らしからぬ行動の数々だったことは、確かだよね。

「しでかしたって言えば、しでかしたかな」

「えっ……、僕なにかやっちゃいましたか?」

 焦ったように訊ねる櫂君に、私は逆に質問した。

「もしかして……、記憶なし?」

 まさかね。なんて思って訊いたのだけれど、無言の数秒間が辺りを包んだ。

「えっ、本当に!?」

 私はちょっと驚いて訊き返した。すると、櫂君はとても申し訳なさそうに頷くんだ。

 ありゃりゃ。そうですか。何にも憶えていないのですか。

 コンビニで大量にお酒やつまみを買わせたことも? あ、あれは、まだ飲む前か。

 じゃあ、「僕専用」とか、「気安くしゃべりすぎ」とか。あの辺りからかな?

 ふむふむ。ちょっと、面白くなりそうじゃないのよ。

 子供みたいな、私のイタズラ心が騒ぎだす。

「櫂君さぁ。私にあんなことしておいて、記憶がないなんて酷すぎるよ……」

 私は、わざとらしく切ない目をしてみせる。

「あ、あんなことって……」

 私の言葉に、櫂君の顔が不安そうに青ざめ始め、動揺を隠しきれずワナワナとしだす。

「部屋で散々飲んで、櫂君……私になんて言ったと思う?」

 勿体つけるように訊ねると、櫂君がゴクリと唾を飲み込んだのがわかった。

「え……、あの。なん……て?」

 数秒の間を置きつ、私は櫂君の目を切なそうにじっと見つめた。それから、悲しげにゆっくりと目を逸らす。

「もう、……いいよ。私の口からは、言えない……」

 櫂君から視線を外した後、パソコン画面を見て黙り込む。そんな私の態度に、櫂君は益々動揺するばかり。

「えっ、ちょっと……。気になるじゃないですか……」

 櫂君は、どうしたらいいのか、わけもわからず戸惑っている。

 普段から物事を完璧にこなす櫂君が困っているところなんて、なかなか見られないものだから、私もつい調子に乗ってしまった。

 いい加減、からかい過ぎかな。

「命令口調で、『僕専用にして下さいっ』て言ったことも憶えてないの?」

 素に戻って訊ねると、櫂君は首をひねり少しだけ考えている。

「僕、専用ですか……? えっとぉ、……あ。はい、それは、……なんとなく……わかります」

 思い出したことで何かしらの感情が蘇ってきたのか、今度は少しあたふたしている。

「それは、憶えてるんだ。けど、あの事は、忘れてるよね……?」

 私は、再び悲しげに目を伏せた。

「あの……こと……ですか……」

 少し頬を引き攣らせる櫂君に、追い討ちをかけるように演技をする。

「帰る時なんて、私に抱きついてきて、しかも、あんな……ひどい……」

「えっ!? だ、抱きつくって……、僕、菜穂子さんに……、そっ、そんな……」

 すっかり頭を抱えてしまった櫂君だけれど、あれは本当に危なかったんだから。

 たまたまあの時、神崎さんがタバコを買いに出てきてくれたから事なきを得たけど。そうじゃなかったら、私は櫂君とキスをしてしまっていたかもしれないんだよ。

 酔っているとはいえ、私相手にキスなんて、見境なさ過ぎですよ。

 まぁ、抱きつかれて、ちょっとドキリとしてしまったけれどね。えへ。

「僕、菜穂子さんに、そんな早まったことを……」

 がっくりと項垂れてしまった櫂君は、まるで机を相手にしているように訊ねる。

「その時。僕……、何か言ってましたか……?」

 頭を抱えたまま泣きそうな声で訊いてくるものだから、段々可哀相になってきてしまった。

 そろそろ、勘弁してあげようかしら。

「何かって……」

 そういえば抱きついてきた時に、「こうしたらあったかいですよ」なんて言ってたよね。

 昨日の夜も、かなり冷え込んでたからね。酔っていても、気遣いばっちりな櫂君でしたよ。

 縋るような態度の櫂君をからかっていると、いつものお呼びがかかった。

「川原ー。会議室」

 いつもの如く、部長から指示が飛んできた。

「じゃっ。ちょっと行ってくるね」

 櫂君との話もそこそこにノートPCを持って立ち上がると、「まだ話は終わってないですよ」と焦ったように引き止められる。

「あの、僕なんて言ったんですかっ?」

 教えて下さいっ。と不安で泣きそうな顔が必死すぎて可哀相なので、仕方なく言ってあげた。

「気にしないで~」

 ヒラヒラと手を振り会議室へ足を向けると、背中越しに櫂君の情けない声が聞こえてきた。

「気にしますってぇ~」

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