思い入れ

「櫂君? ちょっと、大丈夫? 一人で歩けなくなっちゃった? げぇ出ちゃう? ここで吐かないでよ」

 お酒にやられ過ぎてしまったのか、すっかり私に体重を預けてしまったのはいいけれど、ここで飲み食いした物を戻されたらたまらない。

 しかも、櫂君てばかなり重い……。

 気持ち悪くなるのは勝手だけれど、こんな風に寄りかかられても困るのよ。

「菜穂子さん……」

 私の言葉が聞こえているのかいないのか、櫂君は私の名前を静かに囁くばかり。

 その声がちょっとセクシーで、不覚にもドキッとしてしまった。そんな優しい声で名前を呼ばれてしまったら、櫂君相手だというのに変な気を起こしてしまいそうだ。

 駄目駄目。後輩相手に、何をドキドキする必要があるのよ。可愛い弟みたいなものじゃない。

 いや、どちらかといえば、私が世話を焼いてもらっているからお兄ちゃんか?

 どちらにしろ、このおかしな心臓の高鳴りは、とっとと鎮めなきゃ。

 なのに櫂君てば、相手が私だと解っているのか知らないけれど、抱きつく片手を腰に回し、もう片手を私の頭の後ろに回してきた。

 そのまま少し体を離すと、さっきの潤んだ瞳そのままに、また私の名前を囁くんだ。

「なほこ……さん……」

 そのまま、首を傾げてゆっくりと顔を近づけてくる。

 鎮めようとしていた心臓が櫂君の予期せぬ行動に、更に暴れだし早鐘に変わる。

「えっ。ちょっと待ってよ!? 櫂君、私よ? 菜穂子だよ? 相手、間違ってない?」

 近づく顔に必死で言っても、まったく躊躇する様子がない。

 ヤバイ。これは、本気で酔ってるよ。

 こうなったら、受け入れる? どうせ酔った勢いでしょ? キスの一つや二つ……。

 いやいやいや。待て待て。落着け、菜穂子。

 私には、神崎さんという人がいるじゃないのよ。キスをするなら彼とでしょ。

 けど、もう顔が近すぎる……。

 キス……されちゃう?

 私が逃れられない櫂君の腕の中で、どうしたらいいかと迫り来るキスに動揺していると、突然お隣のドアが開いた。

「あ、……悪い。取り込み中か?」

 神崎さんが、開けたドアを再び閉めようとしているので、私は慌てて呼び止めるように説明をした。

「あっ、違います、待ってくださいっ。こ、この子、非常に酔っぱらておりまして、一人で歩けないような状況なんですが、今から帰るところなんですっ」

 神崎さんの顔を見た瞬間に、動揺を隠し切れずによく判らない説明をしてしまう。

 こんな場面を見られてしまったことに、ドキドキの種類が変わった。

 お願いだから、勘違いしないでください!

 祈るような、縋るような気持ちで神崎さんを見ていると、ドアを開けて出てきてくれた。

「一人で歩けないのに、どうやって帰るんだ?」

 もっともな質問です。

「どうしたらいいですかね? 終電がなくなりそうなので、とりあえず連れ出したんですけど、一人で歩けなくなってしまったのか、こんな状態で……」

 さっきまで人のことをじっと観察でもするみたいに見ていた櫂君は、私の首元に顔を埋めて静かに呼吸をしている。首を捻るようにして顔を覗き込んで見てみると、瞼は閉じていた。

「え……。寝てる?」

 思わず呆れてしまった。

 頼みますよ、櫂君。寝ちゃうとかなしだよ。お酒は飲んでも飲まれるなってね。

 まぁ、げえぇってされるよりかはいいですが。

 それに、危うく大事故が起きるところだったし。櫂君とキスなんて、ドッキリかと思っちゃうよ。

 櫂君の大きな体を支えていると、神崎さんがそばに来て代わりに肩を貸してくれた。

「タクシーにでも乗せるか?」

 櫂君を支えていた神崎さんは、そのままエレベーターへ向かい、エントランスまで抱えるように連れていってくれた。

エントランスに着くと、「重いけど」と言って再び櫂君を私に預けると、直ぐに大通りに走って出て行きタクシーを捕まえてくれる。

 捕まえたタクシーに、神崎さんと二人で櫂君を抱えて乗せる。運転手さんへ行き先を告げると、爆睡してしまっている酔っ払いを乗せられて、ちょっとだけ迷惑そうな顔をされたけれど、櫂君を乗せたタクシーは無事に走り去っていった。

 めでたし、めでたし。

 明日、ちゃんと仕事に来なさいよー。

 走り去るタクシーを見送ってから、神崎さんへ向き直る。

「お手数、おかけしました」

 ぺこりと頭を下げると、「タバコ買いに出たついでだし、別にいいけどな」と歩き出し、神崎さんはマンションそばの自販機の前で立ち止まる。

「今の彼氏?」

「え? いえいえ、とんでもない。ただの後輩というか、飲み友達というか。気の合うゆかいな仲間というか」

「ふ~ん」

 私は神崎さん、一筋です。

 と言い添えたいところだけれど、別の事故が再び起きたら困るのでやめておく。

 自販機から軽い音を鳴らして出てきた煙草を手に取り、神崎さんは直ぐに封を開けると一本を口に銜える。

「吸う?」

 煙草の箱をひょいっと向けられたけれど、首を横に振り、「吸えないので」と断った。

 そのままエントランスの前で、神崎さんはしばし煙草を一服。その傍に、付き添うように佇む私。

 寒さに体がガチガチになっていて、せめてエントランス内に入りたいなと思っても、生憎とエントランス内は禁煙だ。

「寒いだろ? 部屋、戻れば?」

「あ、はい。でもいいです」

 寒いのは辛いけれど、好きな人のそばには少しでもいたいのですよ。

 だって、こんな時間に神崎さんと二人きりになれるチャンスがやってくるなんて、思いもしなかったもん。

 櫂君が呑んだくれてくれたおかげだよね。櫂君さまさまですよ。

 それにしても、煙草を吸っている姿も素敵だなあ。煙に目を細める表情なんて、渋いじゃない。

 普段は、チノパンなんて履かれるのですね。足元は、スニーカーですか。上着の中に何を着ているのか見えないのが残念です。

 ラフにプルオーバーですかね? それとも寒いので、ニットですか?

「なに?」

「え……?」

「さっきからずっと見てるから」

「あ、いえ。別に……」

 ただ、見惚れていただけです。……なんて言えない。

「川原さんて、意外と人気あるんだね」

「はい?」

 神崎さんは、エントランスの外に設けられている灰皿に煙草をもみ消すと、中に入りエレベーターへ向かって歩き出す。

 意外とは?

 意外の意味を深く考えることもなく、降りてきた箱に一緒に乗り込めば、狭い密室に二人きりという状況に頬が緩んでいく。

 むふふの空間です。

 すぐ傍からふわりと漂う、煙草の残り香がたまりません。このままずっと、この小さな箱の中で一緒にいたいな、なんて。

 しかし、夢は儚くも直ぐに砕け散り、あっという間の三階です。

 部屋に向かって数歩歩いてから神崎さんはふと立ち止まり、渡り廊下にせり出している冬枯れした大きな木を見た。

「そういえば、この木って桜だよな?」

「はい」

「ああ、やっぱり。よかった」

 よかった?

 安心したような顔をする神崎さんを横に、何故よかった、なんだろうと首をかしげる。

「今は葉が散っちゃってほとんどないですから、ちょっと判りにくいですよね。けど、春になると、とっても綺麗なんですよ。この桜が咲き始めると、私、凄く幸せな気持ちになるんです。少しずつ芽吹いていた花たちが、ある日目を覚ましたみたいに一斉に花開いて、この渡り廊下をピンク色に彩るんです。咲き誇る桜がなんだかとっても凛々しく感じて、自分の事のように胸を張りたくなります。それに、優しく包み込んでくれているようなそんな気もして、穏やかな気持ちになるっていうか。巧く言えないですけど、とにかく好きなんです」

 桜に向かって熱く語る私の話を黙って聞いてから、神崎さんは口を開く。

「俺さ。桜には、ちょっとした思い入れがあるんだよね」

「思い入れ?」

 私が首をかしげると、「うん」と小さく頷いて、神崎さんの瞳は、どこか遠くを見るように変わった。

「この町にはさ、桜が多いだろ。商店街も桜並木になってるし」

「ですね」

「俺、就職して直ぐに、桜に惹かれてこの町に来たんだ。初めは金も無いから、駅からずっと遠いおんぼろアパートに住んでたんだけど。少しずつ、駅前に近づいてって――――」

 と話したところで、ヒューッと細く小さな音を立てて、渡り廊下に冷たい風が吹き込んできた。思わず私が寒さに身を震わせると、神崎さんは話すのをやめてしまった。

「悪い。なんも着てないから、寒いよな」

 気遣う神崎さんへ首を横に振ったけれど、思い入れの続きは話してもらえなかった。

「またな」

 手を上げた神崎さんは、自宅玄関に踏み込む前に「ここの桜が咲くのが楽しみだな」とポツリ呟いた。

 私は、櫂君のことでもう一度「ありがとうございました」とお辞儀をして見送りつつも、桜を楽しみにしている神崎さんの思い入れがなんなのかが気になった。

「桜に、どんな思い入れがあるんだろう……」

 今は枝だけの寒そうなその桜に、私は目をやった。

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