僕専用

 就業時間終了後きっかりに、私の隣に座る櫂君はPCの電源を落とした。元々無駄な残業はしない主義の櫂君だから、定時に上がるのは当たり前のことなのだけれど。あまりにピタリと仕事をやめるから、私は驚きに動きを止めてつい櫂君を見てしまう。

 すると、「行きますよ」と私を急かすように一瞥し、櫂君はビジネスバッグを手にスッと立ち上がる。

 有無も言わせぬ態度に、「え? あ? はいっ」ともたつきながらも、急いで帰りの準備をした。

 どうして急かされているのか疑問に思えど、怒っている櫂君に訊ねる雰囲気でもなく、私は黙って後ろをついていく。スタスタと早歩きの櫂君のあとを、とにかく必死でついていく。

 早歩きの櫂君について、オフィスの入るビルを出て駅までの道を行く。その間も特に会話もなく、改札も潜り抜け、やって来た電車に乗った。

 朝よりも車内は空いていて、つり革には余裕でつかまることができたけれど、さすがに席は確保できない。

 なもんで、窓の外に向かって、つり革に掴まり櫂君と並んで立った。

 朝は愛しの神崎さんと並んで乗っていた電車に、帰りはピリピリムードの櫂君と乗っている。

 朝との温度差が激しすぎやしないか。気持ちの天秤が、一気にガクリと傾く感じ?

 ギクシャクとした空気に耐えられず、せめてもう少しだけでも天秤の傾きを緩やかにしたくて、私は櫂君の顔を覗き込む。

「ねぇ、櫂君」

 ご機嫌をとるように話しかけると、こっちも見ずに「なんですか?」と言われてしまえば勢いが削がれてしまう。

 普段ニコニコと穏やかで、怒ることのない人が機嫌を悪くすると、なんて始末に負えないのだろう。

 会社のマニュアルに、こういう場合どうすればいいのかを書き加えてもらいたいな。櫂君対策委員会でも発足しようか。

 それでも気まずいままなんて、お気楽な私には耐えられず。なんの芸もなく、ご機嫌を取るように猫なで声で話しかけてみる。

「何処に行くのかな?」

 機嫌の悪いまま何も話そうとしない櫂君だけれど、何処へ向かっているのかくらいは教えて欲しい。

 すると、抑揚もなくキッパリと応えられた。

「菜穂子さんのマンションです」

「え? うち? ああ、……そうなんだ。うちなんだ……」

 自分で自分に指をさし、威圧的にも取れる櫂君の言葉に、なんだかよく解らないまま、なんとなく納得させられる雰囲気になってしまう。

 しばらくして最寄り駅につき、二人で電車を降りた。

 櫂君は相変わらず無言のままの早歩きで商店街を抜けると、お祖母ちゃんのコンビニへとスタスタ入っていく。

「いらっしゃいませー」

 今日もシフトに入っていた翔君が営業スマイルを向けてから、櫂君の後に続く私に気がつき笑みを向ける。

「毎度です、菜穂子さん」

 弾むように声をかけられたけれど、今は翔君とおしゃべりをする雰囲気ではないのですよ、という気持ちを目で訴えかけ苦笑いを浮かべる。

 そんな私たちをまた一瞥しただけの櫂君は、僅かばかり乱暴に籠を手に取ると、片っ端からというようにお酒やつまみになる物を入れていった。

 そんな姿に売上協力ありがとう。と思っていたら、「お会計お願いします」とレジ前で支払いを要求されてしまった。

 ああ、……そうなんだ。これ、全部私のおごりなのね。いいけどね。LINE無視して怒らせちゃってるみたいだし。このくらい、別にね。

 レジに居た翔君に、「よろしく」と声をかけると、櫂君の怒ったような素っ気ない態度に頬を引きつらせて驚きながらも「あざーす、菜穂子さん」とにこやかに私へ笑いかけ、バーコードを通してくれた。

 お会計が済むと、翔君がごそごそと後ろの棚の中からなにやら取り出した。

「これ新商品の試供品です。菜穂子さんにと思って、とっておいたんですよ。どうぞ」

 品物を袋に入れてくれたあと、翔君がそう言ってネイルチップのサンプルをくれた。

「そのデザイン、菜穂子さんに似合うんじゃないかなと思って」

 翔君は満面の笑顔で、私へネイルチップを差し出す。

「嬉しい。ありがとう!」

 素直に喜び受け取ると、背後から何故だか無言の圧力がかかった。

 そおっと振り返ると、櫂君がさっきまでよりも更に機嫌の悪そうな顔つきで私と翔君を見ている。

「か、……櫂君?」

 恐る恐る名前を呼ぶと、ぷいっと顔を背けられた。

 一体なんなんでしょう? なんかもう、お手上げなんですけど……。

「喧嘩ですか?」

 レジ越しに翔君が、気まずそうにこっそりと耳打ちする。

 そんなじゃないんだよ。という感じで私は首だけを振って肩をすくめた。

 溜息を零し、翔君から貰ったネイルチップのサンプルも、買ったお酒やおつまみたちと一緒にビニール袋へ入れて手に持とうとしたら、櫂君が横からサッと袋を掻っ攫う。

「僕が持ちます」

 櫂君は缶ビールの入った重い袋をひょいっと持ち上げて、サッサとコンビニを出て行ってしまった。

 よくわからず怒っていても、やっぱり気遣いはばっちりだ。

「翔君、ごめんね。チップありがとね」

 苦笑いの翔君に声をかけて、私は直ぐに櫂君のあとを追った。

 マンションに辿り着いても相変わらず櫂君の態度はおんなじで、一緒に狭いエレベーターに乗っていると息苦しくなってくる。ほんの三階までだからいいようなものの、これが高層マンションで、住んでいるのが天辺だった日には、息をぜいぜい言わせてでも階段でいった方が精神的にはいいだろう。ダイエット効果もばっちりだ。

 部屋の前に着き、バッグの中の鍵を探る。その間、櫂君は手にビニール袋を提げたまま、何故だかお隣さんへ顔を向けていた。

 神崎さんはまだ帰っていないのか、渡り廊下に面した窓は暗い。

「櫂君、開いたよ」

 ドアを開けて、お隣を見たままの櫂君へ声をかけると、無言でこちらへ来て玄関に入る。

「お邪魔します」

 一応礼儀は忘れていないようで、一言断ってから革靴を脱ぎ、リビングへと入っていく。

 怒っている櫂君のご機嫌取りをするために、私はキッチンへといく。

 普段、自分のためにさえ料理なんてほぼしないのだけれど、いつもお世話になっている櫂君を怒らせたままというのは、今後と言うか。将来出世した櫂君に、私のお給料をあげてもらうと言う目的の為には、ちょいと献身的になる方がいいだろう。

 買ってきたお惣菜をちゃんとお皿に移し、サラダくらいは出そうと、奇跡的にも野菜室に入っていたレタスをバリバリ剥がして千切る。

 洗ったレタスを硝子ボールにざっくり入れて、適当にマヨネーズを回しかければ、ほら出来上がり。目にも鮮やかな緑色が素敵でしょ。

 それ、料理? なんて言いっこなしで。

 お箸も、翔君がコンビニ袋へ入れてくれた割り箸じゃなくて、来客用の物を用意する。

 多分、漆塗りだろう来客用のお箸は、お祖母ちゃんがいつ何があってもいいように、と用意してくれていた物だった。

 因みに可愛らしくもリアルな作りの箸置きや、お茶碗にお椀。素敵なお皿もある。

 これって必要なの? とお祖母ちゃんに言ったら、女の子なんだからこれくらいちゃんと用意しておきさい、と窘められたっけ。

 お祖母ちゃんに準備してもらった時には、こんな物を使う日が来るなんて微塵も思ってはいなかったから、普段余り開けることのない棚の置く深くにしまってあったんだ。

 今役に立っているよ、お祖母ちゃん。いつも、ありがとうー。

 少しでも櫂君の怒りを静めるために、私はそんな来客用の品々を駆使して、コンビニの惣菜を盛り付けた。

 まぁ、お皿に並べただけだけれど。

 部屋にあるローテーブルにそれらを並べて、ビールを注ぐためのグラスも用意すれば、一見して、ちょっと豪勢じゃない?

 普段の私の食生活からは、程遠い品数のものがテーブルに並んでいるだけで、こんなにも豪勢に見えちゃうものなのね。へへ。

 いつもは、カップ麺やレトルトのカレーだけだから、テーブルの上に所狭しと並んだ品々に満足な顔をしてしまう。そうして、豪勢なコンビニ総菜の前に座っている櫂君のグラスに、買ってきた缶ビールを注いで注ぎ持ち上げた。

「カンパーイ」

 私が明るく声を上げてみても、どうやら不機嫌は継続中のようで櫂君は無言だ。

「かいくーん?」

 声をかけたけれど、グラスに手を添えたまま、櫂君の動きは止まってしまっている。

 電池切れ? 充電切れ?

 どっちにしろ、ピタリと動かない。

 まー、乾杯なんて言ったけれど、何が乾杯なのかって話だよね。こんなご機嫌斜めの櫂君と、お祝い的な状況なんて欠片もないしね。

 かと言って、こんな気詰まりな状況でお酒を飲んだってつまらないわけですよ。せっかくの冷えたビールも、台無しになっちゃうじゃないですか。

 なもんで、ご機嫌取り、ご機嫌取り。

「ねぇ、この箸置き可愛いでしょ? たい焼きだよ。美味しそうでしょ? ちょっとお腹の辺りからあんこがはみ出しているのがよくできてない? 私のは三色団子。本物みたいで食べたくなっちゃうよね。あと、このお皿。桜の花びらをかたどってるんだ。綺麗じゃない? 因みに、これ全部お客さんが来た時用にってお祖母ちゃんが買ってくれたんだけどね。これ使うの、櫂君が初だよ」

 動きの止まってしまった櫂君を何とか動かそうと、私はあれやこれや楽し気に話しかけてみる。

 すると、突如、櫂君が口を開いた。

「あの……」

 しゃ、しゃべった……。

 私は、姿勢を正して返事をする。

「はい」

「お隣の人、神崎さんでしたっけ」

 訊ねられて、私はこくこくと頷いた。

「彼のこと、また好きになっちゃいましたよね? というか、まだ好きなままですよね……?」

 伺うように訊ねる櫂君は、なんだか切ない表情をしている。

 あれ、怒ってたんじゃなかったっけ? 切なげな顔つきに代わってしまった櫂君。相変わらずクルクルと表情が変わるねぇ。

「そうだね。ついこの前まではもう駄目、なんて思っていたけど。ストーカー疑惑もはれたし。神崎さんも、私のこと避けなくなって、気さくにお話もしてくれるし」

 このまま、どんどん距離を縮めていきたいところですよ。むふふふふ。

 考えただけで、ウキウキしちゃう。

「あの」

「はい、はい」

 再び櫂君が口を開くから、調子に乗って返事をしたら。

「はい、は一回です」と窘められた。

「あ、そうですね。ごめんなさい……」

 流れでいつもみたいに謝ったけれど、櫂君てばちょっと怒りが治まってきてるんじゃない?

 いつもみたいに注意してくれたことに、ちょっとだけほっとする。

「この箸や箸置きは、僕が初めて使うんですか?」

「うん。そうだね」

 神崎さんとうどんを食べた時には、来客用の物があるってことを思い出す余裕もなかったからね。

 私の返事に、櫂君が何かを決めたみたいに、うん。と一つ頷いた。

「じゃあ、これ。全部、僕専用にして下さい」

 櫂君は背筋をピッと張った姿勢で、私の目を見て言い切った。

「え? あ、うん。別にいいけど……」

 有無も言わせぬ勢いに、よくわからないまま肯定した。

「あと、土鍋も」

 すると、何故だか土鍋までも持ち出す。

「土鍋?」

「僕用に、新しい土鍋を用意してください。それと、マグカップも」

 次には、マグカップまで……。

「土鍋にマグカップ……?」

 なんだか、ここにでも住み着く勢いですな。

 私としては、飲み仲間の櫂君が頻繁にやってきてお酒に付き合ってくれることには大歓迎だよ。

 そうだ。お鍋をつつきながら日本酒、なんてのもよくない? それなら、お猪口も用意しなきゃだ。

 けど、マグカップはお酒の席に不要では?

 そう思ったけれど、「また、飲むこと前提ですか」と櫂君に言われそうだし、まぁ、いいか。

「別に構わないよ」

「ありがとうございます」

 櫂君は、ぺこりとお辞儀をする。

 そして、顔を上げた時には少しすっきりとした笑顔に変わっていて、私は心底ほっとしたんだ。

 やっぱり櫂君には、笑顔でいてもらわなくちゃね。

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